秘密にしよう

狭霧

秘密は囁く

 天神署の駐車場に行く途中、横に三田倉宗輔が並んだ。

「なんだお前?待ち伏せかよ?刑事を待ち伏せなんぞ、感心出来ねえな」

 表情を変えずに言った。

「そうは言っても、こっちだって仕事の成果一つで生き死にが掛かってるんだよ」

 宗輔はポケットから手を出した。ボイスレコーダーが握られている。鷲津はそれを見やり、苦笑いで両手の人差し指でバツを作った。

「いつも言うが、録音はダメだ。録るなら何も言わねえからな」

 三田倉宗輔は飛揚出版で週刊誌の記者をしている。かたや鷲津寿人は警視庁天神署捜査一課の刑事だ。二人は旧知で、宗輔は度々鷲津に張り付いては世間を騒がせている事件の周辺情報を得ていた。

「今回ばかりはあれ以上の情報は出せないぜ」

 寿人は宗輔を睨んだ。

「マスコミの中でもお前のとこ――〈週刊天智〉だけが際どい線まで嗅ぎつけてるってのを疑問視してる奴が署内にもいる。危険なんだよ」

「こっちの情報だってお前に流してるじゃないか」

「それでも、だ」

 署の裏手にある駐車場はコンクリートで囲まれている。表からは死角で、風通しの悪い場所だ。饐えたコンクリート臭が鼻孔を刺激した。その駐車場に人の姿はない。寿人はルーフ越しに宗輔を睨んだ。

「今回ばかりは事情が違う。状況を理解してるか?」

 渋谷のホテルの一室で、女の遺体が発見された。発見したのはホテル従業員だ。同伴者が一人で部屋を出たことを不審に思い、部屋の様子を見に行くと、ベッドの上に横たわる女がいた。寝姿や着衣に乱れはない。声を掛けたが答えないので、寝ているのかと思ったほど安らかだったと後に証言している。それが普通に眠っているのではないと分かったのは、ベッドの傍らに落ちていた空の瓶を見た時だ。直感的に自殺だと思い、慌てて警察に通報をした。

 救急隊員と共に駆けつけた警察は遺体の様子から自殺のセンをまず考えた。睡眠薬による他殺は不可能ではないが、本人の同意がなければ大量に飲ませることは難しい。瓶の中の薬品が何で、どれほどの量あったかは検死結果を待たねばならないが、他殺というのは考えにくかった。だが、同伴者の存在を聞いた警察は、その人物に強い関心を持った。従業員に依れば、その人物は午前十一時二十分に部屋を出ている。遺体が発見されたのは、その十五分後なので、午前十一時三十五分だ。検視官の話では、誤差はあるにせよ、死亡推定時刻は午前十時から十一時ほどの間だという。それは後に検案書でも触れられているが、そこでも死亡推定時刻が遅くとも午前十一時を越えないと考えられる――とあった。

 その時点で自殺事案から他殺若しくは保護責任者遺棄致死の可能性が高まった。先に出た同伴者は、女の死亡、あるいは女が死を想定して大量の薬品(検案書には医師の処方が必要な睡眠薬の名が記されていた)を服用したことを知っていた可能性が高いと考えられた。

 女の身元は所持品からすぐに判明していた。寺田由美子、年齢は二十九歳で、現住所は港区虎ノ門――。職業は銀座にある会員制バーの従業員だ。客には政財界の名士が多く、芸能人も多数出入りしている。由美子はそこでママの片腕として名を馳せていた。

 出身は静岡で、地元の公立高校を卒業した後に都内の洋菓子メーカーに就職をしている。当時の住まいは会社の寮だった。会社に問い合わせると、勤務態度は真面目で、周囲とも上手くいっていたと言うが、前触れも無しに突然辞めてしまったということだった。時期的にはその直後にその会員制のバーで働くようになったと見られる。

 バーの人事管理者に問い合わせたが、ここでも勤務は真面目。他の誰よりも仕事熱心で、この業界で成功したいという意欲は強かったと話していた。敵を作らないタイプで、ママからも絶大な信頼を受けていたとも。

 だが同僚の証言に刑事は注目した。

「あの子、男運は悪いのかな。詳しくは聞いてないけどカネに汚い男につきまとわれてるような話はちらっとしてたわよ」

 複数から聞いた話だった。総合すると、どうやら寺田由美子には特定の男が存在し、その男から執拗なカネの無心を受けていたと思われるのだった。警察はその男と、消えた同伴者を追うこととなった。

 箝口令を敷いたにも拘わらず、情報の一部は、マスコミも知るところとなり、〈銀座売れっ子ホステス自殺は偽装?〉という文字が週刊誌に躍ることとなった。その週刊誌〈天智〉編集部の記者が三田倉宗輔だ。カネを無心する男と同伴者だった人物――この存在を宗輔に流したのは、鷲津だ。

「寺田由美子の周辺で動きが出るかもしれん――と思って流してやった話だが、今のところ動きは見えない。なら、ここから先の話も今は出来ないってことだ。じゃあ、俺は捜査があるんで、悪いがここで」

 そう言い残し、鷲津はクルマに乗り込んだ。助手席のガラスをノックするので、呆れながらも開けてやると宗輔が首を突っ込んできた。

「ひとつだけ!寺田由美子の遺族はなんて言ってるんだ?静岡の、どの街に住んでるんだよ?」

 エンジンをかけた。

「言えるか」

 そう言って鷲津は窓を閉めた。

 ルームミラーに宗輔が映っている。

「何でかあいつには弱いんだよな、俺は」

 いつから知り合いだったか思い出せない。どこか馬が合う相手だが、どこに住んでいるのかすら知らない相手だ。苦笑いを見せ、鷲津は天神署を出て行った。


 鷲津が向かった先は、議員会館近くの公園だった。

 場所柄、子供らの姿はほとんど無い。見かけるのは会社員が休憩を取っている姿くらいだ。小さな噴水の傍にベンチがある。腰を下ろしていると、男が一人近づいてきた。

「鷲頭さん?」

 顔を上げると、長身痩躯で目つきの鋭い男が立っていた。

「第一秘書の宮田さんですね?」

 鷲津は立ち上がり、軽く会釈した。

「まさか実際に会ってお話が聞けるとは考えていませんでした。忙しいでしょうに、申し訳ありません」

 そう言うと、宮田は表情も変えずに「いいえ」と言った。

 ベンチの端と端に離れて腰掛けた。

「実際困るんですよね。こちらとしては」

「事情は理解しています。ですがこちらも仕事でして」

 そう言い、胸のポケットから一枚の写真を取りだした。それを宮田に見せて尋ねた。

「ご存じですよね?この人」

 宮田は写っている若い男を一瞥し、頷いた。

「お名前を言っていただけませんか?」

 それには渋面を見せた。なぜ自分が――と言わんばかりだ。

「念のために」

 重ねて言われ、渋々口にした。

「角井……竜太郎ですね」

 鷲津は頷き、写真を仕舞った。

「彼を連れて寺田さんが働いていたお店に行かれたそうですね?その後、角井さんの姿は頻繁に寺田さんの周辺で確認されてるんです」

 宮田はそっぽを向いた。

「ですが、うちの先生とはもう縁もありませんので、それは言っておきますよ」

「縁が無い?角井さんは国会議員・芦俵先生の秘書のお一人ですよね」

「一両日中に、解雇されます。それに秘書と言っても地元の私設秘書です。言ってみれば雑用係でしかありません。そう多くもない休みを使って頻繁に上京し、怪しげな事をしている奴ですよ。こんなことで先生のお名前に傷が付くようなことは断じて――」

「こんなこと――というのは、つまり寺田由美子さんの死亡の件ですね?」

 人一人の死を〈こんな事〉呼ばわりをする。鷲津は生理的に目の前の男に不快感を抱いた。

「だってそうでしょう?確かにその――亡くなられた女性のお店に角井を連れて行ってやったことはありますが、それだけです!その先の男と女の、個人的な関係には事務所はもとより、先生には何の縁も無い話ですよ」

 宮田は立ち上がった。

「忙しいんです。これで失礼しますよ」

 行きかけた宮田を呼び止めた。

「もう一点だけお願いします。私設の秘書さんって、どんな方がなるんです?」

 振り返った宮田は呆れ顔だ。

「そんなことは千差万別です。様々な経緯や、それこそ縁故の人もいるし」

「角井さんの場合は?」

 宮田は表情を消し、顔を背けた。

「さあ……詳しいことは知りませんね」

 そう言い残し、足早に立ち去っていった。

 数日の間、鷲津は事務仕事に追われたが、寺田由美子の死は頭から離れなかった。警察の公式見解は自殺として捉え、書類上も完結をしている。だが、角井竜太郎が寺田由美子の死に何らかの関わりを持っているのではないか――という疑念は、捜査一課全員が共有している。それでも相手は国会議員十回当選の党幹部の縁者で、おいそれとは手も出せない。

 伸びをして頭を掻いた。その鷲津の机に、一冊の雑誌が投げ込まれた。驚いて振り返ると、一課二係の係長・砂沼が立っていた。

「どうしたんですか?係長、おっかない顔して」

「いいから見てみろ」

 言われて雑誌を見る。週刊〈天智〉だ。手に取ると、折られているページがすぐに出た。その見出しに、鷲津は愕然とした。


『銀座美人ホステス自殺事件・続報!鍵握る消えた同伴者K・R』


「なんだこれは!」

 鷲津が叫ぶと、砂沼は鼻を鳴らした。

「俺が言いてえよ。なあ、なんなんだこれは?なんで先に出た同伴者のイニシャルが知られてるんだよ?文章読んだら分かるが、国会議員の私設秘書だって事まで臭わせてるぞ!」

 砂沼は身をかがめ、囁くように鷲巣に言った。

「お前の知り合いが週刊天智にいるとかいってたよな?」

 ギョッとして砂沼を見ると、その目は血走っていた。

「係長!俺は情報を流したりなんかしてませんよ!するはずがないでしょう!」

「疑っちゃいねえ。ただな、鷲津、そいつだか知らねえが、どうやって嗅ぎつけたかに関しちゃあ上も気にしてるぜ」

 そう言い残し、自席に去って行った。鷲津は狐につままれたような気分だった。

――寺田由美子にカネの無心をする男がいたことは確かに言った。だが、名前は出してない!角井が寺田由美子と同郷だというのも教えちゃいない!なのになぜ……。

 確かに文章には、謎の人物が寺田由美子とは旧知であり、同じ出身地らしいと書かれている。

「宗輔……どこで情報を仕入れたんだ!」

 

 その日一日中、時間を見つけては宗輔に電話を入れたが応答はなかった。そして夕方、鷲津には驚きのニュースがもたらされた。

 行きつけの定食屋で夕飯を取っている時、テレビのアナウンサーが「次のニュースです」と伝え始めた。

『今日昼過ぎ、静岡県○○市の駐車場で男性が刺されました。被害に遭ったのは角井竜太郎さんで、救急隊員が駆けつけましたが、使われた包丁は肺を貫通するほど深く、角井さんは心肺停止の状態で、その後病院で死亡が確認されました。場所は角井さんが契約をしている駐車場で、警察の調べでは角井さんはクルマから降りたところを背後から襲われたものと見られています。犯人は自ら警察に通報し、その場で警察の到着を待っていたということです。二人の間に何らかのトラブルがあったものと見て、警察は――』

 箸を落としてしまった。

「角井が――殺された?」

 脳裏に宮田の言葉が蘇る。

〈一両日中に解雇される〉

 鷲津は店を飛び出し、電話を掛けた。相手は角井と寺田由美子の関係を現地で洗っていたおりに世話になった静岡県警崎田署の刑事・水野だ。水野は今回の角井刺殺事件を担う所轄署にいる。

「水野さん?鷲津です!その節は世話になりました。それであの――」

 慌ただしい空気を背後に感じる。所轄も大騒ぎなのだろうことは鷲津にも痛いほど分かる。その水野が、かいつまんで鷲津に話してくれたのは、鷲津の立場ならば気に掛かっているだろうと想像が付くからだ。

「犯人でしょ?寺田克也という人物なんです。ええ、寺田由美子の実父です。今取調中ですが、おとなしく話していますよ。逮捕時も抵抗など無い、静かなものだったと聞いています。ですので、とりあえず嘘はないように思えますね」

 その後何か分かったら知らせると言い、水野は電話を切った。

「寺田由美子の父親が角井を――」

 天神署に戻ると、一課の空気は重かった。砂沼が他の刑事数人と立ち話をしている。その砂沼が、鷲津を手招いた。

「その顔ならもう知ってるな?角井が殺されたそうだが」

 鷲津が尋ねるより先に、砂沼が言い放った。

「角井の件はもう追うな」

 瞬間、鷲津は言葉が出せなかった。

「いいな?これは命令だ。追うんじゃない。お前には仕事が山ほどある。だから――」

「議員からの圧力ですか?」

 振り絞って出した鷲津のその問いに、他の刑事達は目をそらした。砂沼も何も言わない。言わなくとも理解しろ――叩き上げの刑事は、目でそう言っていた。

「納得いきませんよ!寺田由美子は自殺かも知れない。ですが、その死に角井は関与している!ならその案件はうちの管轄ですよね?その角井が殺されたなら、それも寺田由美子の父親にって言うなら、少なくとも裏取りくらいはうちも――」

「命令だと言ったぞ、鷲津。飲み込め」

 話はそれだけだった。砂沼は部屋を出て行き、刑事たちも散っていった。一人残された鷲津は拳を固めた。

「こんなバカな話があっていいのか!議員だからって――」

 疑問が浮かんだ。

「待てよ、なんで芦俵側から圧力が掛からなきゃなんだ?自分の私設秘書が何らか関与しているとしても、殺害の証拠はなかった。だから自殺で公式には終わってるんだ。確かに世間的な評判を気にして――というのが無いわけじゃないだろうが、角井本人も死んだ今となったら、これは単に娘を殺された父親の復讐劇って図だ。芦俵が気に病むことは無いはずだ。不出来な私設秘書がいたが、解雇してある――で済む話だろう」

 闇に一つの言葉が浮かび上がる。

「秘密――」

 芦俵が隠したい秘密めいたものがあるのかも知れない――と鷲津は考えた。

「事は、同郷の男のカネの無心に嫌気が差した女の自殺――なんてものじゃないのかも」

 鷲津は暗い部屋の中で考えていた。


 翌日、ようやく電話に出た宗輔と会った。人の目が気にならない公園の隅だ。

「向こうの刑事が言ってきた。寺田克也は、天智の記事で確信したそうだ。あのイニシャル〈R・K〉が角井竜太郎だって事を」

「そうか」

 宗輔は遠くで遊ぶ子供を、目を細めて見ている。

「何処まで知ってるんだ?」

 鷲津が尋ねると、宗輔は足下を見た。

「当初、俺はお前に寺田由美子の同伴者が先にホテルを出ていることや、カネの無心をする男がいたことは話したが、それが芦俵のとこの私設秘書で角井竜太郎という名前だなんて言っちゃいない」

 すると宗輔はボソリと呟いた。

「静岡に行ってきた」

 やはりな――というのが鷲津の思いだった。

「寺田由美子の過去を調べて、記事に花が咲くかと考えた。勿論弔いの花だ。俺は、まず初めに寺田由美子の父親と会ってみた。実に実直で、真面目な人物だったよ。その父親が涙ながらに教えてくれたのは、娘と角井というクソな男との出逢いからだ。二人は二年違いの高校の同窓生だったが、在学時代に交際をしていた様子はなかったらしい。ただ、卒業して地元の公立大学に進学した角井と寺田由美子は或る時から頻繁に会うようになっている。これは彼女の友人から得た情報だが、市内の企業から内定をもらっていた彼女は、夏には免許証も取得したりして来たる日に備えていたんだ。それが、その頃を境にして親友達との付き合いよりも角井と会うことを優先させるようになったと話していた。勿論そういうことだってあるだろうが、親友の目には奇異に見えていたらしい。在学時代には話すこと滅多に無いような先輩後輩だったんだからな」

 鷲津はボンヤリと考えていた。

――ここまでのところは、以前に水野さんから聞いた情報と完全に合致している。

 宗輔の話は続いた。

「天智の記事で、ホテルで死んだ娘には同伴者がいたらしいことを知った父親はすぐに角井のことが頭を過ったんだ。娘につきまとう角井は、それくらいタチが悪かったらしい。娘の帰りが遅くなり始め、注意してもそれは止まらず、やがては泣きはらしたり、時には頬に叩かれたような痕まで作って帰るようになったそうだ。それで、交際を辞めるように強く言ったらしい。結局それで交際が終わることにはならなかったんだな。寺田由美子は冬になると父親に、内定を断って別の土地で働くことや、角井が尋ねてきたりしても自分のことは知らないといって欲しいと言ったそうだ。そして東京に来て働き始めた。ところが」

「芦俵や秘書等が角井を連れて彼女が働いていた店に来たんだな」

 宗輔は頷いた。

「連中にしたら、田舎者の私設秘書に都会を見せて驚かそう――ていどの気持ちだったかも知れない。だがそこで寺田由美子は角井に会ってしまうんだ」

「そして泥沼が再び――か」

 何か違和感を覚えた鷲津だったが、宗輔の話でかき消された。

「今週号の天智で確信した寺田克也は、角井を殺そうと決心したんだ」

 親の気持ちとしては納得行く気はするが、分からないことがある。芦俵の第一秘書である宮田の態度だ。何かを隠しているのは明白だが、それがなにか鷲津には想像も付かない。

――私設秘書が昔の女につきまとい、カネの無心の末にその悩みからか女を自死にまで追い込んでいる。だが、だからと言って直接芦俵に繋がるような情報などは出ていない。宮田は一体何を隠しているんだ?

「寺田由美子は父親に何か秘密を持っていた――と俺は思う」

 不意の宗輔の言葉に顔を上げた鷲津は、「秘密――」と同じ言葉を繰り返した。

「そうだ、秘密だ。それは知られてはならないことだったが、角井は知ってしまったんじゃないのか?あるいは角井そのものも秘密に関わるのかも知れない。とにかく寺田由美子はその秘密が元で角井からカネをむしられていたんじゃないだろうか」

 合理的な想像に思えた。

「一体どんな秘密を……弱みを掴まれたんだろう?」

「さあな?それを俺はこれから調べるつもりだ」

「どうやってだ?父親もそこまでは知らないわけだろう?だとしたら調べようも無いじゃないか」

 宗輔は立ち上がった。

「角井と寺田由美子が付き合い始めたというその夏に何かがあると見ている」

 鷲津は驚いた。自分と同じ事を宗輔は考えていたのだ。

――以前からこいつとは馬が合う気がしていたが、こういうところかもしれんな。

 いつからの知り合いだったか思い出そうとしたが、記憶は定かでは無い。

「これ以上鷲津から情報は引き出せそうにない。ならばもう一度直接現地に行くしか無いな」

 そう言い、歩き去って行った。その背中を見送りながら、鷲津も思った。

「俺は水野さんからの情報を待つしかない」

 その情報は、その夕方になって水野から届いた。

「色々と見えてきましたよ。まず、寺田由美子と角井竜太郎の関係ですが、やはり寺田は彼女を脅していたようです。ネタは――事故です」

 水野の説明は、こうだった。高校三年生だった寺田由美子は夏になって免許を取ったが、アルバイトをして親に免許取得費用を返すつもりだった。克也にすればそんなことはどうでも良かったが、娘の気持ちを尊重した。娘が選んだアルバイトは、ちょうどその時期に行われた国政選挙だった。由美子は地元出身の芦俵の選挙事務所で短期間働くことになった。だが或る日、選挙カーで市内を回っていた時、そのクルマは事故を起こしてしまう。路地を出る際に自転車に乗った老人と軽い接触があり、老人は倒れて頭を打った。芦俵と共に居た秘書の宮田が慌てて外に出ると、老人はどうにか立ち上がったが、寺田由美子を見て驚いた。近所の、幼い頃からよく知る娘だったからだ。そこで老人は、自分はちょっと擦り傷ができただけだから大丈夫だと言い、その場を離れた。本来であれば届け出る必要があるが、議員側はそうはしなかった。ところが事態は急変した。その老人は寺田家の近所の升淵という人物だったが、事故から数日後に気分が悪くなり、救急車を呼ぶことになったのだ。救急車を待つ間に、夫は妻に事故のあらましを告げていた。そして、救急搬送された夫は急性硬膜下出血と脳腫脹で数時間後に他界してしまった。

 そこまで言い、水野は言葉を切った。

「角井が話に出てきませんが、もう少しですので」

 話は続けられた。

 夫が他界した後、妻は寺田家を訪れて父子に対し、気に病まないで欲しいと伝えた。自分の方には芦俵から相応の見舞いがあったと告げた。その見舞いの折、妻は大学卒業後の自分の孫の処遇を良くしてもらえないかと頼んでみた。その孫というのが、角井竜太郎だ。角井は卒業を待って芦俵の私設秘書として雇い入れてもらうこととなったが、それまでの間、その事故のネタで再三にわたり寺田由美子を呼び出しては無理難題を要求していた。「言うことを聞かなければ事故の責任を取らせる。お前は俺の祖父の命を奪ったんだ」というのが角井の言い分だった。由美子は逆らえずに言うことを聞くようになった。だが、このままでは永遠にこの関係から逃げられないと考えた由美子は、地元を離れ、角井から遠ざかる決心して東京へとやって来た。

「ところが、完全に切れたと思っていた角井が、寺田由美子さんの前に現れたんです。それも芦俵に伴われる形で。恐らく議員にすれば、用事で上京した田舎者の私設秘書に東京を見せて驚かせてやろう――くらいの思いだったかも知れませんが、由美子さんには運の悪いことだったわけですね」

 なんという不運、としか言い表せない。

「そして角井のつきまといが再開された」

 鷲津の言葉に、水野も「そうでしょうね」と応えた。

「別れて欲しいと懇願したかも知れないが、角井は首を縦に振らなかったと思われますね。それで将来を儚んで自死を選んだ――と見て間違いなさそうです。なにせ角井にとって寺田由美子さんは謂わば奴隷のようなものでした。死なれては困るはずです。殺すはずがありません」

 何処まで知っていたかはともかく、実父の克也にすれば娘の死を受けて角井だけは許せないと考えても無理はない。

「克也被疑者の殺人は法により裁かれはしますが、情状面で裁判所に訴えるものはありそうですね。でも由美子さんは――」

 気の毒としか思いようがない。鷲津は丁重に礼を言い、電話を切った。

「秘密――か」

 水野が行った寺田由美子の事情こそが彼女の秘密だったのならば、もうそれを暴く者も守る者もいないのだ。せいぜいが芦俵側がスキャンダラスに扱われることを恐れるくらいの話だ。克也の供述を気にはするだろうが、克也にすれば角井を討ったことですでに目的は達したと考えているはずで、芦俵にまでなにがしか累を及ぼすことはないと鷲津には思えた。

「なんだかな……」

 長く深い溜息が零れた。

 その翌週、週刊天智は寺田由美子の自殺とその父親の殺人事件を特集で扱ったが、そこで現職国会議員が初心者の十八歳に選挙カーを運転させていた旨を暴露した。そればかりか、水野から聞かされた話と寸分違わぬ情報が羅列されていたのだ。目を通した鷲津は驚愕した。

「まさか水野さんが話すはずもない」

 そう思うと、情報源が気に掛かった。だが、その日を境にして鷲津は宗輔と会えていない。そればかりか、鷲津の携帯にあったはずの宗輔の番号は綺麗さっぱりと消えていた。ワケが分からず、鷲津は困惑した。

 そして数週間が過ぎた。鷲津も日常の忙しさに追われる日々を送っていた。奇妙な殺人事件に直面し、情報収集をしているとき、鷲津のクルマの助手席ドアを開けて乗り込んできた人物がいた。宗輔だ。

「おまえ!」

「ご無沙汰してるな」

 前を向き、ニヤリと笑う宗輔に鷲津は疑問だったことをぶつけてみた。宗輔は黙って聞いている。そのクルマの近くを通りかかった母子がいた。

「ママ?」

「なに?」

「あのおじさんどうしたの?」

「どうしたって、なにが?」

 子供が指さす方向を見て、母親は首を傾げた。一台のクルマの中に男が〈ひとり〉。運転席に座って何事か喋っている様子が見えた。車内には男の他に誰も見えない。母親は慌てて子供の手を引き、その場を離れた。

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