第7話 元気でね、赤猪子

「ああ、お気になさらず。このウリ坊ちゃん、とても可愛いので。」

「いやあ、ははは、そうよなあ。」


 そうして笑いながら、老人は言いました。


「あんた、どうしてここ来たん? ここに来る人なんか、ほぼおらんっちゅうのに。」

「ふふ、このウリ坊ちゃんが、連れてきてくれたんです。」

「へえ……それはなんや、不思議やなあ。猪でも狸でもあらんと、あんたみたいな別嬪べっぴんじょうさんさんがここ来るなんか、滅多にないことやからなあ。目の付け所ええやんか、おまえ。」


 そう言って、おじいさんはまたウリ坊をどつきます。


「ぷぎィ!」


 ウリ坊はびくともしません。愛らしい鳴き声で老人に返事するように鳴きます。


「こいつ、じょうちゃんのことたいそう気に入っとるんやな。」


 老人はそう言いました。


「ウリ坊のこと、分かるんですか?」

「いやあ、なんとなくな、こいつの声とか聞いてたら、そんな気がすんねん。それになぁ、なんとなくやけど、ただのウリ坊やない気もするんや。」

「へえ。」

「そや、ここには昔からな、神隠しの伝説があるねん。せやから、ひょっとしたら、このウリ坊は神さんの使いか何かかも、しれんなぁ。じょうちゃんも、あんな夜遅うならんようにな。夜になったら、ここ真っ暗やからな。」

「ああ、はい、気いつけます。」

「ほな。」


 老人はそう言い残して、鳥居の外に去って行かれました。神隠し……その時、二年前の白い建物での記憶が、蘇ってきました。よく見ると、このウリ坊の顔つきに、見覚えがある気もしました。


「おまえ、赤猪子あかいこかい?」


 私は言いました。その時


「よくぞ、見破ったな。」


 脳内で赤猪子あかいこの声がしました。二年ぶりに聞く、どっしりとした男の声です。ああ、やっぱりそうなんだ。この不思議なウリ坊は、やはり、ただの猪の子ではありませんでした。


赤猪子あかいこ、どうしてあなたが、人間の世界にいるの?」


 私が尋ねると、ウリ坊は言います。


「おまえに、会いに来た。」

「私に?」

「ああ。」

「ふふふ、どうして?」

「お前の姿を一目会おうと思い立った。しかし、こちらの世界に来る時に力を使い果たしてしまい、このような姿になってしまった。かろうじて神社の中なら喋ることができる。だから、おまえをここに連れてきた。おまえと話すために。」

「私に、会いに来てくれたの?」

「そうだ。」

「ふふ、嬉しいよ、赤猪子あかいこ。」


 しっとりと濡れた空気が神社の境内を満たします。緑の木々がそよぎます。住宅街を離れ、静かな山の自然の中。まるでここは、神々の住まう世界の入り口のようです。霧が立ち込め、私とウリ坊の周囲は、白い煙で塗りつぶされていきます。しかし不安はありません、太陽の光は眩しく、この場所を照らしてくれていました。私はウリ坊に、あれから二年間のことをじっくり話しました。そしてウリ坊も、あれから白い建物がどうなったのか、話してくれました。


 白い建物を訪れるニンゲンの数は、日を追うごとに増えております。


 しかし、同時に若く聡明な者たちが増えているのも、事実だと、赤猪子は言いました。だから、希望は捨ててはいけないと。


「ホノコ、お前は東京とやらに行くのか?」

「ええ、そうです。」

「何をするんだ?」

「ふふふ、特に何もしません。ただ、人や、学問や、様々なものとの素敵な出会いがあるかもしれません。だから、それに期待して私は、人生の新しいステージに進みます。そして、自分の人生は、自分で切り拓いていきます。沢山やりたいことがあります。世界中を旅したり、地球の自然を満喫したり、今やりたいことを、惜しみなくやります。」

「立派な娘になったな。」

「ふふ、逆に赤猪子あかいこは小さなウリ坊になってしまいましたね。」

「ははは、神世かみよならばおまえの二倍ほどは大きいものを。」

「ふふふ。」


 そうして私たちは、空にあかねが差すまで話し続けていました。赤猪子あかいこと会話する中で、分かったことがあります。二年前の自分は、あの白い建物で殺処分される人々のことを、助けたいと思っていました。誰も殺させてなるものかと思っていました。しかし今は違います。世界という存在にある全てのものは、死と再生を繰り返しています。ニンゲンだけがその摂理から逃れようというのは、なんと都合のいい考え方なのだろうかと思います。


 そうです、死と再生からは逃れられないのです。


 私は、死と再生を肯定します。そして、自分もその死と再生のサイクルの中で生きていることを、今は自覚できています。


 だから、私は世界のためにできることをします。


 それが何であれ、自分で決め、自分で行う行為の全てが、きっとこの世界にとって意味のあることなんだと思います。生き方に正解はありませんが、少なくともこれが、私の今の答えです。


 そして、別れは唐突にやってきました。もう既に、日は沈みかけておりました。


「ホノコよ、私は日が沈むと、力を失ってしまうのだ。」


 赤猪子は言いました。


「ここまでだ。今度こそ今生の別れになろう。」

「そっか。それは残念だよ。」

「ああ。ただ最後におまえと話せて、本当に嬉しい。」

「ええ、私の方こそ、本当にありがとう。」


 なんだか涙が溢れてきました。私は小さいウリ坊になってしまった赤猪子を、ぎゅっと抱きしめてあげました。あの巨体がどうすれば、こんな小さな身体になってしまうのでしょうか。でも、それほど大きな力を使って、私に会いに来てくれたのだと思うと、本当に嬉しくてたまりませんでした。


「ありがとう、赤猪子。」

「ぷぎィ!」


 私はありったけのありがとうを込めて、赤猪子を力強く抱きしめました。ウリ坊は、それから二度と話しませんでした。空を見上げると、茜色がますます強くなっています。私は胸元に抱きしめていたウリ坊を地面におろすと、最後にその頭を二回ほど撫でて、ウリ坊に背中を向けました。


 元気でね、赤猪子。私も力強く生きていくからね。


 緑の森にさあっと風が吹きます。夜の訪れを告げるような、冷たい風でした。その時、境内の灯篭に橙色の光が灯ります。灯篭は鳥居までまっすぐに続いております。まるで、私の進むべき道を、煌々と照らしてくれているように。


 最後に、背後を振り返りました。そこにウリ坊の姿はありません。それを見届けて、私はいよいよ、清々しい笑顔で前を向き、勇ましい足取りで帰路につきました。


 未来は怖くない。進むべき道はいつだって、照らされている。それを信じて、あとは力強く、たくましく、一歩目を踏み出せばいいんだ。




(完)

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ホノコのまよい家 森野フミヤ @morinofumiya29

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