第44話
白い光と共に降り立った浴室にはまだ湿気が残っていた。
いたたたた、と太ももをさすりながら脱衣所へ続く扉に手をかけると、私が力を入れるより先に扉が開けられた。
体重のかけ先を失った私は少しよろけつつ、身体を支える物を探して両手を前に突き出すと、その手を大きな手が掴み寄せ、ポタポタと髪の毛から滴る雫が私の頬を濡らした。
「カイン様!」
「本当にセレーネは予想外のことばっかりだな」
カイン様はお風呂から出たばかりなのか、ズボンは履いているものの上半身は裸で、ほのかに立ちこめる熱気から漂う石鹸の香りが鼻を掠める。
「すみません、転移から戻ってみたら全身が筋肉痛みたいになってて、どうにも動けないのでサノさんにここまで飛ばしてもらったんです」
「だからよくわからないへっぴり腰をしてるのか。怪我してないならいいんだけど」
そう言って、カイン様は安心した様に笑うと、私の足と背中に手を回し抱き抱えた。
「わわっ!」
「歩けないんだろ?」
「……はい……すみません……」
申し訳なさと恥ずかしさで手で顔を覆い、指の隙間からチラリとカイン様を覗き見た。切れ長の目から長く伸びたまつ毛、その上の黒く長い前髪から水がぽたりと滴り落ちる。その透明な丸い粒がゆっくりと艶かしくつたい落ちるのを、思わず目で追いかけてしまう。
首筋も、鎖骨も、存外に逞しい腕も、この角度から見るこの光景にはいつまで経っても慣れない。
サノさんが言っていた、冷酷な人という言葉が頭を
以前、世間の噂がまるっきり嘘でもないと、カイン様自身も言っていたが、誰だって冷酷な一面と温厚な一面を併せ持っているものだろう。
惚けた様に見つめたまま考えていると、カイン様の形の良い唇が動いた。
「そういえば、兄上は?」
目が合い、私の雑念が見透かされる様な気がして、慌てて視線を室内へ逸らし答える。
「アベル殿下は自室で寝てると思います。今回の転移は不思議なことばかりで……加護を使いすぎてしまったせいか分かりませんが、戻ってきた時、目を開けておくのもしんどくて。アベル殿下は慣れてないので尚更起きてられなかったのかと……」
私が今回の転移を
「私が転移からこっちへ戻ってきたのは昨晩なんだ。……聞いているかわからないが、私たちが
カイン様はそう言いつつ、私をソファーの上に降ろした。
「状況?」
「あぁ」
カイン様は何から話そうかと一度口を閉じ、隣に座りながら白いシャツの袖口に手を通した。
「まず、ラホール卿だが、急ぎルナーラに帰還している。というのも、冷戦状態だったルナーラの戦線に敵が攻め入る形でぶつかり合っているらしい。今のところ本当に最前線でのみやり合ってる状況で、ルナーラに大きな被害は見られていない……が、これからどうなるか分からない。北からの敵襲ということは旧太陽国が動いたと言うことだろう。それに関して兄上とも今後のことを相談したいのだが……」
それを聞いた私は、大きな被害は見られないとはいえ、胸の奥がざわついて、居ても立っても居られない気持ちになった。そんな私の心を見透かしたようにカイン様は
「セレーネは帰りたいだろうけど、今ルナーラに戻るのは危険だ。それに、私たちはここから動かず、状況を把握するために皇帝を見張るべきだと思う。メンシス侯爵にも相談したが、侯爵も私と同意見だったよ」と、私を落ち着かせる様にそっと肩に手を置いた。
「そう……ですね。私が慌てたところで状況が良くなるわけではありませんし……」
そうは言いつつも、内心はルナーラに帰りたかった。しかし、今の私はカイン様とは婚約中で、まだ非公式ながらも未来の皇太子妃。
ルナーラの領民だけではなく、ドレスト帝国の国民全体の安寧を考えねばならない立場なのだ。
今までの私だったら、「今はまだ皇太子妃になってない!」と、すぐにでもルナーラに帰っていたと思うが、皇后陛下に会ったことで自覚を持たねばならないと再認識させられたところだ。
私があまりにも素直に納得したからか、カイン様は拍子抜けしたように目を丸くして、私の顔を覗き込んできた。
「セレーネ……? 本当にいいの? 帰らなくて」
「はい」
「絶対に帰るって言うと思ってたから、どうやって引き止めようかと凄く悩んだんだけど」
「安心してください。私も少し大人になったんです」
「そう……何かあった?」
この人も人の心が読めるのか? と思うくらい察しが良い。それとも私がわかりやすいだけなのだろうか?
「……あの後、皇后陛下が処刑される数日前の牢に、アベル殿下と共に行きました」
私がそう言うと、カイン様もある程度予想はついていたのか、あまり驚くことなく
「それで……どうだった?」と少し複雑そうに眉を下げた。
皇后陛下に私たちの姿が見えたこと、太陽国の皇位を継承したこと、アベル殿下に命を賭して守護魔法をかけたこと、皇帝はカイン様にアベル殿下を殺させ、闇魔法を完成させようとしていたこと────時々言葉に詰まりながらも、全てを話した。
ただ、アベル殿下が過去の自分に会いに行った件に関しては、なんとなく、言わない方が良い気がして言っていない。嘘を見透かす目についても。
これは、私の口からでなく、アベル殿下自身から話す方がいいだろうと思ったからだ。
「そういえば、カイン様。カイン様も皇妃殿下から守護魔法をかけてもらってましたね」
カイン様は濡れた前髪を掻き上げて、慈しむように僅かに口角をあげた。
「あぁ……──────母上が放った魔法の粒を浴びてから、皇帝に消されていた記憶を思い出したんだ」
そう言ってカイン様は立ち上がり、棚に置かれた古びた箱に手をかけた。
「……母を亡くし、味方は誰もいなくて、みんなから疎まれて生きてきたと思っていたけれど、私は独りじゃなかった」
カイン様が手に持っている箱は確か、以前アベル殿下がこの部屋へ来た時に開けた箱だ。あの時、カイン様は何の箱か分からない顔をしていたが、今は以前のアベル殿下同様に、鍵をガチャガチャといじり、滑りの悪くなったそれを開けた。
「私の水魔法は母譲りで、兄上と私の間に絆はあった」
箱の中から出てきた錆びた金属の小さな塊を手に取り、カイン様は水魔法でその金属を綺麗に洗い始めた。
「セレーネと初めて会った時、自分を偽るために脳裏に過ったリヒトの名には母からの魔法が込められていた。その名をセレーネが何度も呼んでくれたから、私は闇に飲まれなかった」
綺麗になって光を跳ね返すそれはロケットペンダントだった。
カイン様がそれを開けると、中には小さな紙切れが入っていた。
「これ、何が書いてあると思う?」
カイン様が唐突に私に問いかけた。
「何か、大切なものですか?」
カイン様はいたずらっぽく笑みを浮かべたまま、その紙を開くと声を上げて笑った。
「はははっ!!」
「何が書いてあったんですか?」
カイン様は内容を私の方に向けて見せてくれる。そこには子供の書いただろう字体で『豆』と書かれていたので、一体何の事だとカイン様に目を向ける。
「子供の頃、兄上は何でもできて弱点なんて無いと思っていたから、弱点を教えてくれって頼み込んだことがあったんだ。そしたら、この中に隠したから、見たかったら見れば良いって言ったんだよ。当時、私が絶対に開けられないって分かってたのにね」
アベル殿下らしいと思いながら、もう一度書かれた文字を目にすると確かにじわじわと込み上げてくるものがある。
「そ、それで、豆ですか……ふふっ……弱点っていうか、苦手な食べ物ですよね」
アベル殿下がよくする、鳩が豆鉄砲食らった様な顔が走馬灯の様に駆け巡る。
「ぷっ! はっはっはっはっ! ダメだ、なんかツボにはいった……っ!」
カイン様がゲラゲラとお腹を抱えて笑い始めたので、私も我慢しきれなくなって吹き出した。
「あはははははは!! もうだめ、笑うと全身痛いのにっあははははは!」
全身は痛いし、現実を見ると問題は山積みだ。
それでも今、この瞬間、あのノクタスの森で笑い合ってた頃のような温かい空気がここにある。
本当の意味でカイン
一週間後の新月の夜に、何が起こるかも知らないで────
月の女神の神隠し〜訳あり皇太子に溺愛されて皇室の謎に迫る〜 瀧本しるば @silvery00
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