第10話 ラムダを流れる時間

 教会の高い窓から差し込む光が、その絵画をうっすらと照らしていた。そこには白塗りの壁に掛けられた大きな額縁があり、いかにも中世ヨーロッパの時代に描かれたと思わせる宗教画に、思わず見入ってしまう。

 上部に聖母を思わせる女性。その女性の左右の腕は、すべてを優しく包容しようとするかのように開かれている。その左右の腕の間を、幼い子供達が自由に飛び回る。白くて小さな羽を広げながら。しかし、何よりも私の注意を引いたのは手前に描かれる、母子を思わせる二人だった。母親らしき女性は後ろ姿で、背中まで描かれている。着衣は無く、ややふくよかに見える肩から背中のラインに、黄色と赤の混ざった髪が掛かっている。その女性に抱きつくように描かれる幼児。性別ははっきりしない。幼児の片方の二の腕は女性の肩に乗り、手のひらは女性の背中に合わされている。そして反対側の肩に、幼児の頬が載せられていた。その頬は、肩が食い込むように大きな窪みを作る。幼児の目は伏し目がちだ。それは母の温もりが与えると安心感と、切なさが同居している表情に見えた。なぜ幼児の表情から切なさを感じるのだろうという疑問は私の心をざわつかせた。

「ラムダを流れる時間」

 背後から女性の声がした。振り返ると、礼拝の最後に祝福の言葉を述べていたシスターが立っていた。

「この世界の存在理由を描いたと言われているわ。素敵な作品よね」

 私の少し前まで進みながら、絵を見上げるように立つ。

 教会の扉を開く鈍い音がした。観音開きの扉が片側だけ目いっぱい開かれ、逆光の中、一人の中年男性が入ってきた。両手には…なんだろう。よく見るとそれはチェロのようだった。その男性は中央の赤いカーペットを進み、我々の立つ場所に向かってくる。

 クミコさん、こんにちは、とその中年の男性が挨拶する。灰色の口ひげを蓄えた、いかにも紳士風な男性である。

「ヒサノリさん、お早いのね。今日の演奏会、楽しみにしてるわ」

 シスターがにっこり微笑む。

「そちらのご紳士にも満足いただけるよう一期一会の演奏を」

 私は曖昧にうなずく。

「お取込み中でしたかな?申し訳ないが、少し音出しをしても構いませんか?さほど会話の邪魔にならないと思うが」

 構いませんよ、とシスターが返事する。私も小さくうなずく。シスターとの無言の間ができそうだったので、むしろそうしてもらえると助かる、と内心で思いながら。


 その紳士はどこからか持ってきたパイプ椅子を祭壇の脇に置いて座り、左右の足を広げてチェロを構える。そして演奏が始まる。

 弦を引く長い一音から始まる。すぐにそれがバッハの無伴奏チェロ組曲・第一番であることがわかった。第一楽章の前奏曲(プレリュード)。すぐにそれは私に海を連想させた。波もたたず、ただ穏やかに揺蕩う大海原。それはどこまでも、どこまでも続き、果てのない広さを思わせる。弦の一音一音が優しく場内に響き渡る。わずかな休符が挟り、後半のパートが始まる。大小の音が目まぐるしく繰り返される。そして、次第に大きさを増す弦の音とともに、最後の情感溢れる劇的な展開が訪れる。それはまるで、長い間ずっと探していたものを見つけた、人生における奇跡の瞬間を想い起させた。

 最後の長い一音が鳴り、やがて場内に消えていく。静寂。拍手でもしたほうがよいのかな、と思った次の瞬間、自分の口から無意識に言葉が出る。

「クミコさん・・私・・どうしてもあの人に逢いたい」

 そう言った直後、ハっとし、私は何を言っているのだと気づく。いや・・つい先ほどまで院長室でこの女性と会話をしていたではないか・・いや違う・・そんな訳はない・・私はずっとこの場所に居た・・これは何の記憶だ?私は激しく混乱する。そして、すぐにすみません、と二の句を継ごうと、シスターを見た。シスターもこちらを見ていた。しかしその片側の頬には、音もなく一筋の涙が流れていた。

 驚いて見開いた私の目を見て、微笑を浮かべながらも私へ問いかけるような表情をしたシスターは、すぐに自分の涙に気づき、

 ごめんなさい、

 と言いながら、慌ててその涙を拭った。

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