第9話 君との出会い

 場内はまだ礼拝が終わったあとの余韻を残していた。いまもパイプオルガンの残響やシスターのまるで天から降ってくるような救いの声が耳に残り続けている。

 誰も居なくなった教会で、私は最後尾の座席に腰を下ろしたままだった。

 どうしてその場に留まったのか、自分でもわからない。ただ、他の礼拝者といっしょに教会を後にする気にはなれなかった。

 そういえば、まるで私を導くようにこの教会に案内してくれた猫はどうしたのだろう。いっしょに教会に入ったはずだが、その姿はいつの間にか消えていた。猫は気まぐれだし、道案内をしてくれたように思えたのもきっと偶然だろう。首輪も付けていなかったはずだし、この辺りを住処にしている野良猫かもしれない。


 しばらく前方の祭壇を見ていた。二本の蝋燭の火は、まっすぐに伸びている。その火を見つめているうちに私の頭の中で回想が始まっていた。

 ―高校を出て中堅どころの運送会社に事務職として就職した私は、同期で入社した彼女を一目見た瞬間に心を奪われていた。それは恋心と同時に、懐かしさも入り混じった感情だった。今まで私が知らなかった不思議な感情。でも紛れもなく、私の前に現れた天使だった。奥手だった私は彼女と接する機会を持てずにいた。そんな中でも仕事を通して少しづつ話す機会も増え、世間話くらいはできる間柄になった。彼女は女性としては身長が高い方で、ハイヒールを履くと私とあまり変わらないほどだった。モデルのようにスラっとして、会社の男性の間でも注目の的だった。私なんかには遠い存在のように思えた。傷つきたくないからと、自ら距離を取ったりもした。でも彼女の笑顔は周囲の景色が滲んで見えるほど輝いて私の胸をぎゅっと締め付けたし、同僚に背の高さを冷やかされて少し頬を赤らめながら怒る表情にも愛しさと同時に、同僚への嫉妬も覚えた。その表情を私にも見せてほしいと。彼女との距離は縮まることがないまま日々は過ぎていった。ある日、遅くまでイベントの準備をしていて私だけ居残りで最後の仕上げをしてた。準備も終わり、これでようやく帰宅できると、後片付けをしているとき、だれも居ないと思っていたドアの向こうから彼女が入ってきた。私は驚きながらも、平静を装い、お疲れ、と軽く挨拶したように思う。彼女は、何か手伝おうか、と言いながら備品を集めてくれる。ありがとうと言いながら、私はなおも、あと片づけに集中しているフリをしていた。最後の備品を拾おうとした手が、同時に拾おうとした彼女の手と重なる。ごめん、と慌てて手を引っ込める私。しかし彼女は私を見ていた。その上目遣いの彼女を、私も思わず見つめる。そして何かに背中を押されるように私は彼女の顔に近づき唇を重ねた。彼女の甘いの匂い。その時の愛おしさは、いまでもありありと、私の中に温かさを残したままだ。お互いの気持ちを打ち明け、同じ気持ちでいてくれたことを確かめ合った私たちは、その日から付き合うことになった。会社の同僚達にバレないようにと、社内ではいつも以上によそよそしくしたが、週末になれば、2人でいろいろなところに出掛けた。私はデートスポットを一生懸命に調べたり、彼女が喜んでくれる姿を想像するだけで、毎日が楽しくて仕方なかった。次の日がこんなに待ち遠しいことがあるなんて信じられなかった。スカスカだったスマホのアルバムは、すぐに彼女で一杯になった。彼女のことで頭が一杯だった。世界が変わるとはこのことなのかと思った。見るものすべてが輝いていた。ずっと彼女と一緒の時間が続くと思っていた。しかしその幸せは長くは続かなかった。ある日突然、彼女に連絡がつかなくなった。会社にも来なくなる。彼女が所属する同僚に聞く。彼女なら退職したよ、の一言。目の前が真っ暗になる。なぜ?なぜ何も連絡のないままいなくなったのか。独身寮の彼女の部屋はすでに空き部屋になっていた。何が彼女にあったのか。直前まで、あれほど一緒にいたのに。まるで想像がつかなかった。なんとかしてもう一度、彼女に会いたいと必死だった。しかし、彼女の手掛かりは不思議なくらい、全くつかめなかった。仲の良かった彼女の同僚に聞いても、みんな一様に突然連絡が取れなくなったと言っている。彼女の痕跡が途絶えてしまった。しばらく現実を直視できなかった。抜け殻のようになった私は仕事も手に付かず、結局その会社を辞めることになった。それから1年以上、ずっとなにもする気になれなかった。しかし深く傷ついた心は、少しづつ時間が癒してくれたようだった。いや、傷が癒えたのではなく、その傷をどこかに閉じ込めたのだろう。無理矢理に。そうして、私は次の一歩を踏み出すことにした。もう何もかもが終わったのだと。


 私の意識が長い回想からこの空間に引き戻されたとき、春の季節の終わりとともに消えたはずの彼女の気配を、再び感じていた。思わず場内をぐるりと見回す。しかし教会は相変わらずその静けさを保っている。

 教会の中を少し歩いてみたくなる。初めて礼拝に来た人間が中央の赤いカーペットを堂々と歩くのはなんだが気が引けて、座席を横に移動し、内壁伝いに奥へ進むことにする。

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