「そこ」でなければならない必要性

島尾

場所にも意味がある

一 そい・あいなめ


 ソイというのは、魚の一種です。見た目はゴツゴツで、エラやヒレにトゲがあり、刺さると痛いです。目玉が大きく、口も大きく、背びれは攻撃的なトゲが何本も立っています。料理すれば美味しいです。唐揚げ、塩焼き、煮物、ラーメンのダシ。寄生虫がいるかもしれないという恐れから、私は刺身では食べません。種類としては、クロソイ、マゾイ、ムラソイ、オウゴンムラソイ、ベッコウゾイなどがいます。私が釣ったことがあるのはクロソイ、オウゴンムラソイ、ベッコウゾイです。私が好きな「アナハゼティ」という釣りyoutuberの2人は、上記のすべてを釣っています。

 アイナメというのも、魚の一種です。ソイより大きいのに、目玉はソイより小さいです。ホッケみたいな見た目です。食感や味もそうです。高級な魚で、ソイよりも美味しいと思います。うろこがしっかりと付いているので、下処理の際には取るのが面倒です。アナハゼティの2人はアイナメのことを「ネウ」と呼ぶことがあります。


 さて、今日私はデパートの地下1階で鮮魚コーナーをウロついていました。すると目についたのは、マゾイとクロソイです。白いパックに丸々一匹どーんとくるまれていました。40センチあるかないかのサイズで、これがもし釣れたら相当テンションが上がると思います(もちろん私のようなペーペーはそんな巨大なサイズは釣ったことがありません。全長サイズの自己記録は29.5センチで、あと5ミリというところで30に達しませんでした)。値段は忘れましたが、確実に1,000円は超えていたと思います。

 これを釣り上げたいなー…………と思いつつ、ふっと横を見たら、生簀いけすがありました。なんだか見た目がゴツゴツしているのが2匹、ちょっとばかし曲がった茶色いきゅうりみたいなのが10匹ほどと、その茶色いきゅうりの中でも特段のデカさを誇るものが1匹、狭苦しい水の中で監禁されていました。私は「ほー。ソイとネウやん」と、監禁されているかわいそうな魚たちに心を痛めることもなく、興味深く眺めました。どうせ食べられるんだから、もう死んだも同然です。それは言い過ぎだとしても、知恵も道具もお金も無い私には救いようがありません。それで値段ですが、アイナメ(大)1,800円という赤字が、木札に手書きされていました。これよりもっとデカくなると2,000円を超えると思われます。現に超巨大アイナメがその値段で売られているのを見たことがあって、その高さに圧倒され、「これは無理だ」と感じて店を去った経験があります。


 しかし私は、たとえソイやアイナメが30円で売られていたとしても、買いません。


 自分がそれらの魚を釣った経験があり、また、釣りyoutuberの動画を何回も見ているので、やっぱり自分が釣り場に行って自分が釣って自分が血抜きした自分の魚を、感謝の念を持って平らげたい思いがあります。金銭で交換するのは、純粋に嫌なのです。しかし、サケやタチウオといった釣ったことのない魚や、イワシ・サバ・アジなどの超有名魚は、まあお金で買ってもいいわと思っている私です。



二 輪島塗のお箸


 2024年1月1日、元旦、まさかの震度7の地震が能登半島を襲いました。そのとき私は震源から結構離れた地域にいて、揺れを感じたものの何の被害も受けずに済んだので幸運だったと思います。この日私は福井県嶺南地方の沿岸部に向かおうと思っていたのですが、さすがに断念しました。その後に余震が何百回も観測されたことを見ても、やはり行かなかったことは正解だったと思います。


 さて、輪島市の中心部、河井町に建っていたビルが完全に横倒しになって倒壊していたのを、ほとんどの国民はテレビや動画で見たと思います。輪島塗を製造販売している会社が入っていて、「五 島 屋」と建物に大きく書かれた文字が、さまざまなメディアを通じて流れていました。私はあれを見て、輪島塗の文化が現在危機に晒されている、という感を抱きました。多くの輪島塗ファンや器好きの人も、何かしら「やばい」と感じたかと思います。

 それはそれとして、私は漆塗りと言うと「若狭わかさ塗」を第一にイメージします。若狭地方のあれやこれやが好きになってかれこれ数年。山、海、空。リアス式海岸や山奥の寺院、某アニメの聖地の存在、(方言が関係しているのか)温かみのある若狭地方の人々。多くの原発が立地していることでも有名ですね。一度、美浜原発のPRセンターに赴いたこともあります。やたらと美人な方々が案内してくださったことに対し、今も、何やら怪しい雰囲気を感じています。そういうのも全部含めて、私はあの地域に愛着を持っています。だからこそ、漆塗りと聞いて真っ先に思い浮かべるのは「若狭塗」なのです。

 若狭塗で有名なのは、お箸です。日本全体の8割のシェアを誇るそうで、多くの国民が知らず知らずのうちに若狭塗を自宅に保有していると思われます。ちゃんとしたお箸を購入したときに、どこで製造されたかを確認してみると、大抵「福井県小浜市何々」と記されていることと思われます。

 すなわち輪島塗のお箸は少ない、ということ。会津塗、龍文塗、津軽塗、その他の~~塗の塗箸は、合計しても日本全体の塗箸の2割しかないということになります。



 …………


 そのとき、私の右手が疼きました。レアなものを手に入れたい→何にしようか→最近輪島輪島とニュースで繰り返し聞かされて、輪島という文字がべったりとくっついている現在の私の脳内状態がある→輪島塗。

 選ばれたのは、輪島塗でした。


 ネットで購入したのですが、その製造会社は珠洲市で営業しているらしく、被災したそうです。「いつになるか分からないが必ず復興します!」と、力強いメッセージをHPに上げていました。あの凄惨な被害状況なので、いつお箸が届くかも不明でした。水や食料、電気やガスもままならない生活を送っているであろう、輪島塗のお箸の製造会社の方々。これからの生活の危機にある中、輪島塗の美を創造するどころではないはずです。しかし今日、自宅のポストにレターパックが届いており、送り主の住所に「輪島市」とありました。このお箸を届けてくれた方が今どういう困難にあってどういう日々を過ごしているのか知る由もなく、しかも私は特段彼らを支援するつもりもなく単に輪島塗が美しいゆえにそれを手に入れたいという欲望でポチッただけです。いつか輪島に行くつもりだったし、他にも会津、津軽などなど、漆器の名産地に赴いて直接手に入れたいと思っていました。その土地で生まれたその品物を、その土地の土を踏んでいるその私が手に取る。これが「出会い」でしょう。ここに、おのずと「物を大切にしたいと思う感情」が芽生えるのが私の性質です。100均や百貨店、ネットやフリマサイトで買ったものに対しては、真の意味での(別の表現をすれば、純度100%の)「出会い」という感情は生まれないです。やっぱりその土地に行かないと。



三 美について


 しかし、上で書いたことを叶えるのは現実的ではありません。お金もないし、時間もないし、他にやらねばならないこともある。義務が次々と生まれるため、「美に出会う」チャンスが少ないのが現実ではないでしょうか。義務に縛られた日々を送る庶民にとって、美を得ることはどう考えても難しいことです。私の私自身に対する懸念は、いつか物に対する思い入れが消滅し、「~~塗の高価なお箸よりも割り箸を何回も洗って使えばいい」とか「~~焼の湯呑なんか贅沢だから紙コップで十分」とか「どこどこにわざわざ行く意味なんてない、ただのお金と時間の浪費だ」とか、そういった「心が死んだ自動人形」になってしまうことです。今回の地震と津波で亡くなった方々にご冥福をお祈りしているほとんどの国民は、当然庶民なわけで、その人たちの心はどうなっているんだろうかと思う次第です。お金や時間や雑務や子育て、かかえている病気、先々の人生に対するもろもろの不安、そんなネガディブなものに人生を支配され、美なんてどうでもよくなり、心が「亡くなって」いるんじゃなかろうかと考えてしまいます。つい数日前、アベマで「能登からの移住」に関する動画がおすすめに出てきたので、なんとなくぼーっと見ていました。「高齢化が進んでいるし、人口減少で今後インフラが維持できないから、街中へ移住したほうがいいんじゃないか?」だの、「人が何人死んでいるか分からない状況で移住の議論をすべきではないんじゃないか?」だの、「本音では移住したい人がたくさんいる、今この地震をきっかけにして議論を始めないでいつ議論を始めるのか?」だの、……と、やかましく、攻撃的で、その攻撃性を押し殺したような表情をわざと見せ、ただ単に激しく、どこか本質を無視したような、そんなやりとりが繰り広げられていました。そんな姿をぼーっと見ていた私の脳内には、輪島塗のことがずっとありました。「それをなくすのか?」と。「あの倒壊したビルのごとく、輪島塗の歴史を根底から倒して消し、いそいそと街中へ移住するのか?」と。愚か者は言うでしょう、「金沢で輪島塗の伝統を守っていけばいいじゃないですか」。金沢では意味が無いと思います。ましてやどこの何とも分からぬ輪島と無縁の土地は論外です。「輪島塗の原点、輪島」。他の地域でも当てはまります。「会津塗の原点、会津」。その土地に住む人々が長い歴史を通じて守り抜き、先祖代々伝え続けてきたもの……それは「美なる物」、と同時に「それが生まれた場所」ではないでしょうか。私は、あれに出演していた者たちの中に、「輪島塗」ひいては「輪島」に存在する美をとことん理解し、それを作ってきたのは何で誰なのかということに対して少しでも意識を向けている者が何人いるか数えました。結果はゼロです。ここから言えるのは、輪島塗を作る職人を少なくとも1人出演させることだと思います。あるいはノドグロを取る漁師とか、千枚田を維持管理している農家とかでも大丈夫だったのです。何が言いたいかというと、単なる名もなき陸地だった地上に「輪島」と名付けた大昔の人間、そしてそれをここまで守り継承して、人間味あふれる文化を根付かせてきた現在の人間、そういう本質的な意味での「地元の人」の代表に来てもらって、その心情を吐露してもらう必要があったと思います。輪島ってのは何なのか、あるいは珠洲ってのは、志賀ってのは、穴水ってのは何なのか、それを本質的に知っている人をアベマのスタジオの場に存在させずして、何が復興議論、何が移住議論か、ということです。どうせお金をボンボン稼いでいるくせにそんなことしかできないと言うのなら、とりあえずその場でウン百万、ウン千万の札束をボンと置いて、「これを寄付する!」と公言したほうがよっぽど能登のためでしょう(東日本大震災のときに台湾でそういうのがあったように記憶しています)。何を核として話を回すのか、そして、核はどんな姿をしているのかはっきり認識すること、それらをもっと真剣に考えろ! と言いたい次第です。

 見知らぬ他人が取ってきてデパ地下に並べた魚と、自分が釣り場に行って釣って殺した「魚」ではわけが違います。自分が生まれて様々な経験をしてきたかけがえのない土地「輪島」と、当事者でも被災者でもないただの他人がネットで情報を知るためにグーグルの検索窓に打ち込む石川県輪島市とでは、わけが違うはずです。魚を釣るがごとく人を強制移動させるのも、人の気持ちや土地の歴史を無視しながらとくとくと倫理的な側面の問題を語り始めるのも、一番大事な本質が見えなくなって地に足が付いていない浮遊層たちの「被災者遊び」であり、そしてそういう刺激的な形式でもって視聴者の脳を操ろうと企むメディアの者は、人間でもない、もはや救いようもない、「釣り針」なる無生物に成り下がった「何か」でしょう。


 輪島塗の職人が輪島を離れるしかないと決断するとき、きっと彼は大絶望するでしょう。「地元を離れたくない」という意思を持つ人の内情は、きっとそれに似たものだと思います。絶対になくしたくない何かがなくなったとき、それが死であると分かるでしょう。そこから完全に立ち直るのは、無限の年月があっても不可能でしょう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「そこ」でなければならない必要性 島尾 @shimaoshimao

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ