第13話 ラナンキュラスが満開になった日

 入試が終わった翌日。朝の教室内は皆がすかっとした気性でいる。つい先日までは受験という二文字に縛られていたが、今日は解放という二文字に纏われる。

 チャイムが五月蝿いぐらいに鳴り響いた。晴れた空に浮かぶ雲。風にのって緩やかに動く。

「おはようございます。皆さん、一昨日と昨日、お疲れ様でした。今日からは卒業式の本格的な練習が始まります。こちらも気合を入れて頑張りましょう」

「はい」

 一時間目から体育館に移動し、今日練習する範囲の流れが説明された。

「今からパイプ椅子をここから四十脚取り出して、横一列に十脚ずつ並べて下さい」

教師指示の下、椅子が仕舞われているところから、椅子が取り出されていく。

「はい、この線に合わせて並べて」「わかりました」「そこズレているから直して」「すみません」などと教師と生徒がやり取りしながら、何も置いていなかった体育館の床に、ニ十分掛けてパイプ椅子が四十脚分並べられた。

「右側に男子、左側に女子が、一組から出席番号順に座ってください」

「はい」

男女別で出席番号順に並ぶと、僕の右隣に陽馬が座る。隣に陽馬がいるだけで、安心感が得られた。

 五十分の授業時間は説明と椅子を並べる作業だけで時間が過ぎ、二時間目から四時間目まで、休憩を挟みつつの練習が行われた。教師は声を張り上げる。

「今日の練習は以上になります。明日は歌の練習もします。いいですか」

「はい」

自然と生徒の返事をする声も大きくなる。

「じゃあ、今からパイプ椅子を元あった場所に戻してください」

早く給食を食べたいからか並べるときよりも、片づけていくスピードが圧倒的に早くなっている。ほかの生徒を俯瞰的に見ていた僕の元へ、静かに近づいてきた千夏。「勇ちゃん」と小さな声で話しかける。

「どうしたんだよ」

「昨日渡したクッキー、どうだった?」

「美味しかったよ。特に星形のやつがね」

「ホント? あぁ、よかったあ」

千夏は音を立てないように手を叩いた。

「千夏は昔からお菓子作り上手だよな」

「嬉しい。また今度作ってあげる」

「お、楽しみにしてる」

少し声を低くし、「あ、あとさ」と言う千夏。

「何?」

「手紙、読んだ?」

「うん、読んだよ」

「なら良かった。もし読まずに捨てられてたら、って考えちゃって」

「幼馴染だろ、俺ら。捨てるわけないよ。なんなら、今まで千夏からもらった手紙、全部残してあるぐらいなんだから」

「そうなの! ありがと」

「卒業式のあとな、楽しみにしてる」

「私も」

遠くから女子たちが千夏を呼ぶ声が聞こえた。

「私、先に行くね」

僕と千夏の姿を少し離れたところから見ていた陽馬。千夏が去ったあとに駆けよってきた。

「なんの話?」

「昨日のクッキー、美味しかったかって聞かれたんだ」

「俺まだ聞かれてないけど?」

「千夏のことだから、あとで聞くつもりなんじゃない?」

「聞かれなくても、別にいいけどな」

唇を尖らせ、いじけた顔をする陽馬。またもドキドキする。

 教室に戻ると、係が給食を配膳する準備を進めていた。誰かが「今日のメニューは?」と聞くと、「唐揚げと、ワカメスープと、ご飯、あとは、サラダ」と答える。唐揚げを喜ぶ声が多数いる中、陽馬が「俺は勇希ママの作る唐揚げの方が好きだな」とこぼす。

「そうそう。僕もお母さんが作る唐揚げの方が、味付けも好きなんだよね」

「また今度作ってくれないかな」

「一緒に作ればいいよ。受験も終わったし、作り方教えてって言おうよ」

「そうだな、久しぶりに勇希と一緒に作って、一緒に食べたいな」

「じゃあ、今日帰ったらお母さんに伝えよ」

「だな」

 母の味付けとは違う唐揚げを食べる。給食も美味しいけど、やっぱり母が作る料理が一番美味しい。そう胸に思いながら、給食を食べ進めた。

 放課後久しぶりに陽馬と寄り道をした。と言っても、いつもの公園に寄り、ベンチに座り、チューリップを眺めただけ。小学生たちがゲーム機を持って騒ぐ声を音楽にしながら、ブランコに揺られたり、どちらが美しく、可憐に咲くチューリップの写真を上手に撮れるか、という勝負をしてみたりと、何気ない日常を楽しんだ。

 「ただいま」

「おかえり。今作り始めたからね」

「今日は何作ってるの?」

「ピーマンの肉詰め。あと、ポテトサラダも。まだ三十分ぐらいかかると思うから、適当に待ってて」

「わかった」

いつものように毛玉が目立つ赤のトレーナーを着て、裾の糸がほつれているデニムを履く。カーテンの隙間から差し込む夕日は、机の上に置いていた手紙を、柔らかな光で照らした。

 「お邪魔します」

一階から陽馬の声が聞こえた。母と何か会話をしているようだが、何を言っているかまではわからない。

「おう、勇希。お疲れ」

「なんだよ。その変な挨拶」

「面白いだろ?」

何となく陽馬が上機嫌な理由がわかった。

「もしかして、もう伝えたの?」

「あれ、わかっちゃった?」

「テンションの上り方的にね。だって、ずっと隣にいるからわかるよ。それぐらい」

僕らが小さな声で話していると、母がフライパンに肉詰めを並べながら、「来週なら作れるけど、それでもいい?」と聞いてきた。

「はい! 問題ないです! お願いします!」

陽馬がハキハキとした声で答える。

「じゃあ、今度は二人で買い物行って、食材を買うところからやってもらおうかな。ちゃんとメモ渡すから」

「え、買い物?」

「自分達で選んで買ってきた食材で作るのも経験になるから」

「はい! 勇希と一緒に行きます!」

「え、本当に行くんだ」

「逆に、買い物の時間も一緒に過ごせるんだぜ?」

完全に乗り気の陽馬は、あまり乗り気じゃない僕とは違って、活き活きとしている。でも、こんなに乗り気でいる陽馬は珍しい。守ってあげたい。ずっと隣で陽馬のことだけを見ていたい。

「わかった。じゃあ、一緒に行こ」

「おう。約束な」

「うん。約束」

母は僕らのやり取りをただ静かに、笑顔で聞いていた。


 合否が出ない中での練習は不安でしかなかった。合格してなかったらどうしよう。僕だけ、もしくは陽馬だけ合格していたらどうしよう。そんな僕を陽馬は隣でずっと支えてくれた。

 十三日の放課後。合格発表を明日に控えているが、僕らは恒例のパンケーキデートに行く。小雨が降る中、一本の傘に身を寄せ合う。中学の学ランを着てデートに行くのは、今日が最後。いや、同じ制服を着てデートに行けるのは今日が最後になるかもしれない。そう思うだけで、少し丈が短くなった学ランが突然大切に思えてきた。隣を歩く陽馬の姿は、いつもよりも堂々としていた。朝からずっと一緒の時を過ごしているのに、理由がわからない。

「陽馬、今日なんかあった?」

「いや、特に何もないけど。勇希の方こそ、なんかあった?」

「僕も何もないよ。でも、陽馬、今日は堂々と歩いてるね」

「この学ランを着て、この道を歩いて、パンケーキを食べに行くのも最後になるし、制服デートしてるとは誰も思わないだろうから、ちょっと堂々としてみたくてさ」

「色んな意味で今日が最後になるもんね」

蹴った小さな石が、側溝の小さな穴へと吸い込まれる。

「色んな意味って?」

「陽馬も言ってたけど、中学の学ランを着て店行くのも最後。あと、もしかしたら、陽馬と同じ制服を着て行けるのも最後かもしれないなって考えてた。だから…」

「勇希、今からそんな弱気になるなよ。大丈夫。俺らは高校生になっても、同じ制服を着てデートに行ける」

陽馬の瞳は濁りなく僕を見ていた。

 ドアベルが鳴る。中に入るといつもの店員が「いらっしゃいませ」と言う。そして僕らの顔を見るなり、「いつもので、いいですか?」と、笑顔で問いかけた。初めて店員から言われた言葉に戸惑っていると、陽馬は「はい、お願いします」と答えた。店員は安堵の表情を見せ、「お好きな席でお待ちください」と言って立ち去った。

「陽馬、これで違うの運ばれてきたらどうするんだよ」

「いや、それはない。あの人、ちゃんと俺たちのことわかって言ってる」

「えっ、何でわかるの?」

「何となく」

陽馬は理由を言わず、一人掛けの席に座った。

 僕は本当にいつものパンケーキが運ばれてくるのか心配していた。そんな僕とは違い、陽馬は天使の絵を眺めていた。

「お待たせしました。イチゴヨーグルトパンケーキです」

本当に店員は僕たちのことをわかっていた。

「ありがとうございます」

「毎月のご来店、誠にありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」

店員は笑みを浮かべて戻っていった。それを確認した陽馬が、「言った通りだろ?」と、誇らしげに言う。

「参りましたっ」

今も雨が降っている。来たときよりも強く、そして、激しい。僕しか傘を持たずにここに来たのが正解なのか、間違いなのか。でも、これは間違いなく、僕と陽馬の距離はもっと近づくだろう。


 入試から八日。木漏れ日の中、僕らは明自学高校に向かって歩を進める。

「今日合格発表、明後日は卒業式って。気持ちの持っていき方がわからねぇな」

「だよね。なんか実感も湧かないんだよね」

「俺も」

 コインパーキングから歩いて五分。校門前は制服を着た生徒と、その保護者と見られる人で溢れている様子が映る。ポケットに入れたお守りをそっと握る。ちょっとした安心感を与えてくれた。

「あと三分か。ドキドキだな」

「陽馬、一瞬手繋いでくれない?」

「ほらよ」

陽馬の手は僕の心に陽を灯す。

 校舎からスーツ姿の男性三人が歩いてくる。その中の一人に面接を担当していた教師がいた。一人は丸められた大きめの白い紙を持ち、一人は磁石がくっついているホワイトボードを軽々と持ち上げ、もう一人、四十代に見える人は、何も持たず僕らの前へとやって来る。生徒たちはざわつき始める。

「いよいよだな」

陽馬は僕の手を少し力強く握り直す。

「えー、ただいまより、明自学高校の合格者番号を貼り出します。お怪我等なさらないようご注意ください」

言い終わったのと同時に、ホワイトボードに紙が広げられながら貼られていく。

「あっ、あった!」

「俺も、俺の番号もある!」

「陽馬!」

「勇希!」

僕らは嬉しいという感情のままに、その場で抱き合った。

「今、この瞬間くらいならいいよね。周りを気にしなくたって」

「あぁ、いいに決まってるだろ!」

さらに抱き付く腕の力が強くなる。熱く交わした抱擁。その場に居合わせた教師が僕らのことを優しい眼差しで見ていた。

「よし、証拠写真だけ撮って帰るか」

「だね、番号だけでいいから撮ろう」

写真を撮る列に並ぶ。大体の生徒は、満面の笑みで番号と一緒に写真を撮っている。僕らの番になり、素早くカメラ機能を立ち上げ、二人の番号だけを写真に収める。

「撮れた。帰ろう」

 公園では、緑色の帽子を被った子どもたちが、大きな声を出したり、奇声を上げながら戯れている。

「あ、思い出した」

「え、何を?」

「この花の名前」

一面の花壇の中に植っている緑色の花。丸い形にふんわりとした花びらが何枚も重なっている。思わず足を止めたくなるような、魅力を持つ。

「何て言うの?」

「ラナンキュラス」

「へぇ。結構可愛い形してるね」

嬉しそうに風に吹かれるラナンキュラス。

「緑のラナンキュラスの花言葉は、お祝い」

「今の僕たちにぴったりな花だね」

「あぁ。俺たちの笑顔も、花も満開だな」

満面の笑みを浮かべた。陽馬はやっぱり陽のような、明るい笑顔が似合う人だ。

 コインパーキングに停められた車の中で、母は僕らの帰りを祈るように待っていた。僕らの姿を見たとき、母は僕らから出る雰囲気を感じ取ったのか、こわばっていた表情筋が一気に解け、いつもの笑顔に戻った。

 「僕たち、ちゃんと合格してました」

撮ったばかりの写真を母親の前に突き出す。

「写真撮ったの?」

「うん。確認してみてよ」

「ちゃんと番号あるわね。勇希、陽馬くん、おめでとう。よく頑張ったね」

「ありがとう」

「ありがとうございます」

「学校まで送るから、早く乗っちゃって」

後部座席のドアを開けると、芳香剤の香りで一気にリラックス状態となる。

「今日の夕食は何がいい? 二人が食べたいもの準備するけど、陽馬くんは何食べたい?」

「俺は、勇希と一緒なら何でも食べます」

「えっ、僕もそう答えようと思ってた。えー決められないじゃん」

「そうねぇ。じゃあ、ステーキにしない? お肉買ってきて、家で焼く。どう?」

「いいね」

「ステーキ、嬉しいです」

「じゃあ、ステーキで決まりね。お母さん、張り切っちゃおうかな」

車内は笑いに包まれる。一羽の鳥が空高く羽ばたいていった。

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