第12話 鉢植えのマーガレット

 三年生最初の登校日の放課後。花壇の花たちに事務員の人が水やりをしている。

「まさか、担任が変わるとはな」

「だね。三条先生よりも、久保先生の方がいいな」

「俺も。久保先生、厳しいところもあったけど、結構面白かったし。好きだったな」

三年生も含め、グラウンドではサッカー部の練習が行われている。掛け声が響く中、僕らの方に向かって、誰かを探している様子の男子生徒二人が目に入った。

「あいつら、何してんだろな」

そう陽馬が隣で呟いた瞬間、「あ、いた!」と背の低い男子がこちらを指差した。

「後ろに探し人でもいるんだろ」

「だろうね」

僕らの方に向かって走ってくる二人。思わず後ろを振り向く。誰もいない。つまり、探しているのは…。

「田代先輩! 三好先輩!」

もう一人の男子が確かにそう言った。近づいてくる二人。誰かわからない。

「あぁ、やっと見つけた」

特に息切れをする様子もなく、二人は顔を見合わせた途端、「弟子にして下さい!」と僕らに向けて頭を下げた。白いスニーカーから小さな石が蹴飛ばされた。

「え、どういうこと?」

「あの、お二人って、そういう関係ですよね?」

動揺のあまり、手に持っていたペットボトルを落としてしまった。陽馬はただカッコよく立っている。背が高い生徒の方が、落としたペットボトルを拾いあげ、「大丈夫ですか」と言って僕に渡してくる。そして、「自分、諏訪理貴すわ りきです。で、コイツが青木直音あおき なおとです」と名乗った。

「理貴と直音か」

「はい、あの、改めてなんですけど」

「俺ら、そういう関係だけど、弟子にはできないな」

「えっ」

理貴と直音は声を揃えた。

「理貴と直音の恋愛対象は?」

「自分たち、どっちも無性なんです。だから、お二人みたいになりたいなって」

「俺は同性愛者。で、勇希は?」

その答えがすぐに出せなかった。幼少期の僕は千夏の姉が好きだった。でも、女子が恋愛対象とは言えない。今の僕は陽馬のことが大好きで、誰にも取られたくない思いが強い。

「僕は、陽馬のことが好きだから」

「な、そういうこと。だから、弟子にはできない」

「だったら、友達になってくれませんか。先輩の友達っていうのは失礼だとわかってます」

「俺は友達ならいいけど、勇希はどう思う?」

「僕も、友達ならいいよ」

「えっ、いいんですか!」

「あぁ。じゃ、そういうことで。俺らは帰るから」

「はい。突然すみませんでした。失礼します」

理貴と直音は僕らに礼をしたあと、来た道を引き返していった。

「弟子にしてくれって、理貴も直音も変な奴だな」

「ねえ、陽馬。本当に二人と友達になるの?」

「なれればいいけどな。まだ俺にもわかんねぇ」

「あのさ、今更聞くのも変だと思うんだけど、陽馬って、同性愛者だったの?」

「あれ? 言ってなかったっけ」

小首を傾げた陽馬。あざとさを前面に出してきた。

「ごめん、初耳だった。でも、何となく気付いてはいたけど」

「そういう勇希はどうなんだよ」

「僕は、昔は女の子だけが好きだったけど、今はどっちも好きみたい。陽馬のおかげで気付けた」

「そっか。じゃあ、俺が勇希のこと独占してもいい?」

メジロの美しい声が鳴り渡っていた。


  *


 六月になり、部活を引退した生徒が多くいるため、本格的な補講が始まった。学校の授業だけでなく、土曜の午前中にある補講も加えて学校に通う日々は忙しかった。それでも陽馬と過ごす時間は大切にするとずっと前から決めていた。たとえ、小さなことだとしても。

「勇希、今日の補講終わったあと、一緒にパンケーキ食べに行ってくれないか?」

「もちろん」

「ありがとな。楽しみにしてる」

 十一時半に終わった補講。その足でいつものパンケーキ店を目指す。

「今日の範囲、俺よくわからなかったんだけど」

「帰ったら教えようか?」

「頼む。あの問題だけがどうしても解けないんだよな」

「いいよ。じゃあ、陽馬の家でやろうか」

「おう」

 土曜昼間のパンケーキ店は、比較的若い女性客で混雑していて、男同士の客である僕らは完全に浮く存在となった。

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

「イチゴヨーグルトパンケーキ二つで」

「かしこまりました。お待ちください」

 先月来たときには何もなかった壁に飾られている一枚の絵。二人の天使がキスするような構図で描かれている。その絵を眺めていると、ドアベルが上質な音を立て客が入ってきた。

「三人座れますか」

どこかで聞いたことのある声がした。

「はい、可能ですよ」

「ありがとうございます」

来店した客は三人で、その内の女子一人が僕らを見てくる。やはり、男子二人が制服を着たまま向かい合って座り、パンケーキが運ばれてくるのを待っているのは変なのだろうか。

「あれ、うちの制服じゃない?」

少し落ち着きのある声の女子が言う。声変わりしている途中の男子が、「確かに」と言ったあと、もう一人の男子が「あっ!」と大きな声を出した。先客たちがその男子の方を一斉に見る。その声の持ち主が疑いから確信へと変わった。

「三好先輩と田代先輩じゃないですか!」

私服に身を包んだ三人を目が捉える。二か月ほど合わないうちに、理貴も直音も成長していた。背は伸び、直音に至っては声変わりをし始めていた。

「注文はお決まりですか?」

何も知らない店員が三人に聞く。

「カルボナーラ、カツサンド、たまごサンドをそれぞれ一つ。あとオレンジジュース三つで」

「かしこまりました。あちらの席でお待ちください」

店員が去るのを確認した理貴が「先輩、何でいるんですか?」と聞いてきた。

「いや、さっきまで学校で補講してたから。甘いの食べに来たくて」

「そういうこと。ほら、三人で楽しみな」

陽馬が理貴の背中を軽く、優しく叩く。直音は理貴の横で、「こいつが和香菜です」と紹介してきた。

「千夏から聞いてるよ。部活、頑張ってね」

「ありがとうございます」

和香菜はなぜか僕ばかり見てくる。

「気持ちに応えられなくて悪かったな」

陽馬がボソッとした声を発した。和香菜は身体を跳ね上げ、「覚えててくれて嬉しいです」と答えた。

「じゃあ、座るか」

「そうだな。じゃあ、失礼します」

「お邪魔しました」

理貴、直音、和香菜の三人はドアから遠く離れたボックス席に座り、楽しそうに会話を続けていた。

「やっぱり」

「陽馬、和香菜と知り合いなの?」

「いや。アイツ、一年のときに俺に告白してきたことがあるから」

「へぇ…、って、そうなの?!」

「俺が転校してきて二か月ぐらいのときに」

「だから少し気まずそうな感じだったんだね」

運ばれてきたパンケーキ。いつものようにナイフで切り、フォークを使い口に運ぶ。今日はベリーの酸味を強めに感じた。


 理貴と直音は僕らが受験生ということもあってか、学校ですれ違う程度のもの以外特に交流することはなかった。しかし、交流するその日は突然訪れた。朝、いつものように学校に行くと、玄関で理貴と直音の二人が立っていたのだ。

「おはようございます」

「おはよう。何かあった?」

「はい。ちょっと相談にのって欲しくて」

「短時間で終わる?」

「はい。終わります」

「じゃ、図書室で話聞く」

 職員室に行き、仕方なく選んだ図書委員という立場を利用して、鍵を借りた。朝の雰囲気に包まれている図書室。僕ら以外誰もいない静けさからか妙な胸騒ぎがした。

「で、相談って?」

陽馬が机に背負っていたリュックを置く。中の教科書が机に当たり鈍い音を立てた。直音が口を開いた。

「あの、自分に告白してきた女子がいるんですけど。自分が無性であることって素直に伝えた方がいいのか、ある程度経ってから伝えた方がいいのかわからなくて」

補足するように理貴が口を挟む。

「結構悩んでるんです。お二人の場合って、どんな感じだったんですか?」

「俺らの場合は、まず俺が告白した。そこでは同性愛者であることは言わなかった。で、そのあとに勇希が告白してくれて。それで今の関係になってる」

「うん。まぁ、あとに陽馬が同性愛者ってことを聞いたんだけどね。それでも僕は嫌じゃなかった。陽馬のことを受け入れようって決めてたからね」

理貴と直音は余程興味があるのか、知らず知らずのうちに身体を前のめりにして話を聞いている。

「告白してきた女子とは、小学校からの知り合い?」

「はい。小学四年生のときも一度だけ告白されました。でもそのときは小学生だからっていう理由で断わったんですけど。まさか中学になっても告白してくるとは思ってなかったんです」

「ほぉーん。でも、俺なら『自分は無性だけど、いい?』って先に伝えるな」

「僕も、先に伝えてもらってる方がいいかな。相手のことも考えるとね」

「なるほど。それで―」

 女子生徒が図書室に入って来るまでの間、僕らは理貴と直音の相談に乗っていた。陽馬は意外と真面目に話し、質問ひとつずつに丁寧に答えていた。

「ありがとうございました。今日、早速試してみます」

「おう。じゃ、またな」

陽馬はリュックを片腕に掛ける。ちょっとしたその仕草に見惚れてしまう。こういうところが、僕は男が好きということになるのだろうか。一年前の読書感想文で読んだ恋愛小説の答え合わせができそうだ。


  *


 二学期の終業式が行われる今日。例年通り降った雪は、何年かぶりに結構な高さで積もっていた。溶けていない雪が残るグラウンドを眺める。つい五分前程まで遊んでいた生徒はいなくなっていた。残る足跡は、降り出した雪によって跡形もなく上書きされていく。

「勇ちゃん、何見てんの?」

「雪。見てたら千夏との思い出が蘇ってきてさ」

換気のために少し開けられた窓を、教師からの指示で全開にする。一気に冷気が流れ込む。

「懐かしいね。五、六年経つのか」

「そうそう。背が小さかった千夏が埋もれかけて、大変だったよね」

その当時を思い出すだけで、自然と笑みが零れてしまう。

「そこ、笑うところじゃないでしょ」

「ごめんごめん。まぁ、こうしてまた千夏と雪が見れて良かったなって」

「私も。楽しかったね、あの頃は」

教室の温度は、外と変わらないほどになってきた。

「勉強は順調?」

「それなりかな。焦らないといけないんだろうけどね」

「でも、千夏なら行けるでしょ」

僕が受験を勧められた高校。千夏は志望校を変えることなく目指している。

「千夏、勉強教えてくれない?」

「今行く!」

ベランダに雪の華が散ってくる。窓から腕を伸ばし、それを手で摑まえる。小さくて儚い結晶は、僕の掌で溶けていった。

 教室よりも冷えている体育館に集まってくる生徒。手にカイロを握っている生徒や、抱き合って互いに温め合っている女子生徒の姿が目に入る。

「俺らも、やる?」

陽馬は屈託のない笑顔を見せながら抱き着くジェスチャーをする。

「ばかっ、やれるわけないじゃん!」

恥ずかしさのあまり、変な声を発してしまい、頬に熱を感じる。

 十時から行われた始業式。校長は、「寒いので、十分以内に話し終わりたいと思います」と宣言したものの、二学期の行事の振り返りや、世間のニュースやらを長々と話続け、結局十五分のときが経っていた。校長の話が終わったかと思うと、次は生徒指導の教師が生徒全体に、冬休みの注意事項について話を始めた。床からの冷気は僕たちの身体を冷やすばかりでなく、苛立ちを加速させていった。

「えー、異常で二学期の終業式を終わります」

教頭の挨拶で一時間の終業式が終わりを迎えた。あとは、陽馬と一緒に帰るだけだ。

 「終業式、お疲れ様でした。今日は補講がないので、家でしっかり課題なり、勉強なりして下さい。明日、また会いましょう」 

「はい」

 粉雪が風に乗って遊ぶ中、僕らは一本の傘に身を寄せ合いながら、滑らないようにゆっくり歩く。陽馬は傘を持って来ているにも拘わらず、「寒いから、入れて」と謎の理由を付けて、僕の傘に入ってきた。周りからは必ずと言っていいほどに変な目で見られるが、付き合い始めた頃よりは気にならなかった。あの本のお陰なのか、周りからどう思われてもいい。そういう感情が芽生え始めていた。

「このあとどうする? お母さんもお父さんもどっちも仕事だから帰ってないよ」

「俺ん家で課題やるか」

「そうだね。じゃあ、あそこのコンビニ寄って、お昼買ってから行こうよ」

「おう」

踊るように降ってくる粉雪は、僕らの距離をグッと近くしてくれる。

 制服のままコンビニに寄り、サンドウィッチとカフェラテ、チョコ菓子を買った。会計は844円だった。

「天使たちが見守ってくれている」

レシートを見るなり、陽馬が横で囁いた。

「何か言ったよね?」

「エンジェルナンバー。昔、母親から教えてもらったんだ」

駐車場に唯一停まっていた車が出て行く。

「へぇ、エンジェルナンバーね」

「ちなみに、俺の部屋番号4は、あなたは一人じゃないって意味なんだ」

「それって」

「そう。自分を鼓舞するために番号が4の部屋を選んだ。そしたら、すぐ近くに大事な人がいて、今もこうして一緒にいられる。俺は一人じゃない」

「まさか、陽馬がエンジェルナンバーで部屋を選んでたなんて」

「意外って言いたいんだろ? でも、母親には感謝だな」

電線に止まるムクドリの群れは、一斉に鳴き声を上げながら街中へと飛んでいった。


  *


 「勇ちゃん、転校生君、おはよう」

「おはよう」

「よかった。無事に待ち合わせできて」

「そうだね」

「俺ら、絶対に合格しような」

「うん!」

 時間通りに入ってきた電車に乗り込み五つ先の駅を目指す。車内は学生で混雑していた。僕らと同じ受験生と見られる中学生らは、持参したテキストに目を通したり、ノートを開いて何かを唱えていたりと、自分の世界に入り込んでいる。中には焦っている様子の人も見受けられる。その雰囲気の中、僕らもそれなりに最終確認をした。千夏は珍しく緊張した様子の表情を浮かべている。

 乗ってからニ十分。到着知らせるアナウンスが流れる。

「千夏、お互い頑張ろうな」

「健闘を祈る!」

「うん。勇ちゃんも、転校生君もね。じゃあね!」

 電車のドアが開いた瞬間に学生が一斉に降り始めた。この駅は二つの高校の最寄り駅となっているために、ほかの駅よりも降車人口が多い。明自学高校の全体生徒数は少ないものの、もう一つの高校は、千夏が受験する高校と、進学率で一、二位を争う学校で、全校生徒数も数多いる。

 駅の北口に出て明自学高校を目指す。道中にはちょっとした飲食店街があったり、大きなスポーツセンターがあったりと、僕らが住む町よりも大分充実しているように感じる。合格して、陽馬と一緒に学生ライフを楽しみたい。妄想は膨らむばかりだ。

 駅から歩くこと十五分。僕らの目の前に大きく聳え立つ高校の建物。校門前には、高校の教員と見られる男性二人が立ち、生徒や連れてきた保護者の誘導をしていた。「勇希。二日間だけちょっとしたライバル。でも、俺は絶対勇希と一緒に合格する」

「うん。僕も陽馬と一緒に合格する」

握手を交わした陽馬の手は、冷気により指先が少し冷たくなっていた。自分の世界に入り込み、ポケットに入れたお守りを握る。少しの勇気をもらえた。


 駅入り口に設置された白色のベンチに腰掛け、千夏の帰りを待った。そのすぐ近くに設置された駅前花壇の前で、スーツ姿の男性が花束を後ろに抱え、誰かが来るのを待ちわびている様子が瞳に映る。少し遅れてやって来たロングワンピース姿の女性は、渡された花束を見て喜んだ表情を浮かべていた。その様子を見ていたのは僕だけじゃなかった。「あれ、マーガレットの花束だな」と、陽馬がスマホで写真を見せてきた。写真と花束を見比べる。確かに、マーガレットの花だと思った。陽馬は何かを調べる。「今の俺らにピッタリな花だな」と言った。

「花言葉?」

「そう。ほら、見て」

スマホの画面を見つめる。「うん、ピッタリだね」と片微笑んだ。

 男性と女性が立ち去ったのとほぼ同時刻に、千夏は駆けてやって来た。

「お待たせ!」

「もっと待つかと思ってたから、大丈夫だよ」

「お疲れ様」

「よし、行こう!」

 千夏の家に向かう道中は、常に試験問題や面接の話をしていた。角を曲がり見えた赤い屋根が目印の一軒家。庭に植えられた梅の花が僕たちを誘う。

「ただいま」

「おかえりなさい」

千夏の母が玄関へと歩いてきた。腕には小さな犬を抱えている。

「お邪魔します」

「こんにちは。いつも千夏がお世話になってます。勇希君、久しぶり」

「お久しぶりです」

家族の帰宅を喜ぶ犬に、千夏はキスをしたあと、母親と小声でやり取りし、一人家の中へと帰って行った。

「初めまして」

「あー、あなたが陽馬君?」

「はい」

「あらぁ、すごくイケメンじゃないの」

「いやいや、全然そんなことないです」

陽馬は千夏の母親に丁寧な言葉遣いをする。

「この子、新しく飼い始めたんですか?」

「そうなの。名前がね―」

犬の名前が判明しようとしたとき、千夏が家の中から「お待たせ!」と叫び、飛んできた。

「これ、二人に渡したくて」

そう言って千夏が僕らに渡してきたのは、大きな星がデザインされた紙袋だった。中を見ると、透明のビニール袋に包まれたクッキーが入っていた。

「手作りしたんだ」

「えっ、いつの間に」

僕らの声はピッタリ重なった。

「昨日、家に帰ってから。気紛らわすためにね」

「そうなの。うちの子、変でしょ?」

千夏の母は、呆れたような表情で笑っていた。

「ありがとう」

「ありがとな、千夏」

「いえいえ。ちゃんと渡せてよかった」

「じゃあ。また明日、学校で」

「うん。またね」

犬はまだ千夏の母親の腕から離れようとはしなかった。

「三人ともお疲れ様」

「ありがとうございました。失礼します」

結局、新しい飼い犬の名前を聞くことができずに、千夏の家を後にした。

 「千夏は流石だよ。クッキー焼いて渡すって」

「翌日に面接があるのに、よく作ったよな」

待ち時間が長い信号で足止めを食らう。陽馬はスマホを取り出し、片手で器用に操作し始める。

「勇希、明日のことだけど」

「あぁ、放課後に新しくできたお店に行くって話?」

「そう。先に行き方を見ておこうと思って調べたら、明日定休日だった」

見せられたスマホの画面には、明日の日付と定休日の文字があった。

「じゃあ、また今度行こうよ」

「ごめんな。次こそちゃんと調べるようにするからよ」

「いいよ。逆に、毎月のデート日にいつもと一緒のパンケーキ食べるのじゃないと、今までのルーティーンが崩れそうな気がするし。新しいお店より、行き慣れたお店の方が安心じゃん」

「確かにな」

陽馬はフフッと笑い、スマホをポケットに入れた。

「勇希、合格してたら一緒に行きたいところがあるんだけど」

「え、陽馬も? 実は僕も陽馬と一緒に行きたいところがあって」

「おぉ、そうなのか。どうしようかな」

「じゃあさ、二日に分けて行かない? 一日だと満喫できないでしょ?」

「いいな、それ。よし、もう今から計画練っちゃえ」

フード付きのアウターで遊ぶ風。身震いしている陽馬を、今すぐにでも僕のこの身体で温めてあげたい。まだ心の中にいる悪魔が天使の邪魔をする。悪魔がいなくなればいいのに。

 「ただいま」

「おかえり! 早かったわね」

シューズボックスの上に置かれた小さな鉢植え。見覚えのある花がそこには植えられていた。

「あれ、こんなところに鉢置いてたっけ?」

「今日ね、円谷さんから鉢植えで頂いたの。増え過ぎたからって」

凛とした花を咲かせている。あぁ、思い出した。マーガレットだ。考え事をしていた僕のことを気にする様子を見せなかった母。手に持つ小さな紙袋が気になったのか、「それ、どうしたの?」と聞いてきた。

「これ、千夏がくれた。手作りのクッキーだって」

そう言って、僕は紙袋からクッキーが入れられた透明の袋を取り出し、母に見せる。

「えー、すごい。ちゃんとお礼の連絡しなさいよ」

「わかってるよ。先、着替えてくるから」

靴を脱ぎ、ボックスの中に入れる。

「あ、これから夕食の買い出しに行ってくるんだけど、何か食べたいのある?」

「僕は特に。陽馬に聞いてみようか?」

「じゃあ、お願い。二時までに返事くれればいいから」

 部屋に入ると暖房が既に付けられていて、暖かな空気が冷えた身体をそっと優しく包み込んでくれる。

「もしもし? 何かあったか?」

「いや、何もないけど、お母さんからの質問。今日の夕食、何か食べたいのある?」「あー、肉かな。肉料理なら何でも」

「いいね。じゃ、お母さんに伝えるね」

「おう。ありがとな」

「じゃあ、またあとで」

電話を切り、制服のまま一階に降りる。

「お母さん、肉料理なら何でもいいって」

「そう。じゃあ、トンカツかハンバーグにしようかしら」

「わかった。あ、お昼何?」

「朝の残りなんだけど、それでもいい?」

「うん。着替えたら食べるね」

「じゃあ、温め直しておくわね」

「ありがとう」

 クローゼットから部屋着を引っ張り出す。グレーのパーカーに、ジャージー素材のズボンという普段と変わらない格好をする。今までと唯一違うのは、入試という鎖が切れたこと。喜懼きくする服を纏うのもアリだと思った。

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