ささやかな祈りをあたしに

犀川 よう

ささやかな祈りをあたしに

 休み時間であっても、あたしの隣の席に座る香織は祈っていることがある。香織の斜め前の席にいる上木かみきという男子の顔を見ながら、ほんのわずかな時間、手を組んで祈っているのだ。どうやら今日は上木が自分の後ろ髪の癖毛を触ってことに対して、祈りを捧げているみたいだ。


 香織は高校二年女子の中でも屈指の日陰の存在で、学校に来ていても、彼女を見る者など誰もいない。せいぜい隣にいるあたしくらいだろう。あたしは香織が手を組んで、誰にも聞こえないような――あるいは口パクなのかもしれないが――声で何かを言っている姿を見て疑問に思う。――香織は上木の何を祈っているのだろう。彼との恋の成就を願っているのだろうか。いや、そんなことはないはず。上木は自分の髪で不機嫌でいる。その顔つきはとてもカッコいいとは言い難い。そんな表情に向かって恋愛祈願するほど香織は間抜けではないだろう。恐らくだけど、香織は上木がウザいと思っている気持ちが晴れるよう、祈っていただけに違いない。ちょっとキモイが、香織はそういうささやかなことを喜びにするヤツだ。うん。やっぱり間違いないだろう。小さな幸福が訪れるように祈っている。誰に対してでもじゃない。香織は上木だけに向かって、ちょっとしたアクシデントや不幸を祓ってあげようとしているのだ。


 実は今まであたしは何度も香織のそんな姿を見てきている。先日、上木が消しゴムを落とした時、香織は自分で取りに行こうか迷っていたことがあった。だけど、彼女がした行動は、ただ祈るだけ。あたしは面白くもない雑誌で顔を隠しながらそれを眺めていた。香織の祈りは「誰かが上木くんの消しゴムを取ってくれますように」ということを願っているような顔をしていた。なんて卑屈でしおらしいヤツだと思った。

 あたしの推察は間違ってはいなかった。クラスの目立つ女に拾われたときの香織の表情でわかったのだ。祈りが通じたという喜びと、一番拾ってほしくなかった人に拾われたという悲しみを浮かべながら、香織はそっと下を向いてしまったのだ。

 拾った女は消しゴムを口実に上木と話し始める。上木は会話のチャンスまで拾った女と話を合わせるのが愉快でないことを、癖毛を指でクルクルさせながら弄ることで表現していた。その指が一回転する度に、女のテンションは上がっていく。香織は上木の横顔を再度一瞬だけ見ると、悲しそうに、目を伏せた。


 そんな出来事を思い出したあたしは、今日こそと席を立ち上がり、香織の前に出る。クラスの女子どもは、ヤンキーであるあたしの行動を、ヒソヒソ声を出しながら遠巻きに見ている。そんなのはどうでもいい。とりあえず無視をして香織に言ってやる。


「アンタは祈ってなよ。アンタがよく祈ってることは、アンタとあたしだけの秘密にしといてやるからさ」


 香織に笑ってみせると、あたしは普段はまったく話をしない上木に声をかける。


「おい上木。香織が何か言いたいらしいよ?」


 驚く上木と、もっと驚く香織。あたしは香織に「上木の後ろ髪のことで言いたかったんじゃなかたの?」と助太刀してやる。香織は三、四回まばたきをしてから、「う、うん」と小さな声を上げる。そして勇気を絞り出して、後ろの癖毛がはねていることを伝えた。あたしは自分の席に戻り、つまらない雑誌に目を通すフリをして、経過を眺める。


 恋の歯車というものは一度回り出せば、あとは勝手に勢いをつけていくものらしい。あたしは周りの女子どもが香織たちに奇異な視線を向けるのを睨みつけて抑える。そんなことなど目に入っていない香織は、上木の笑顔に誘われて勇気が出たのか、ブラシと寝ぐせ直しのスプレーを取り出してから、上木との初めてのを試みようとしている。それはもう、今まで見たことのない笑顔で。

 

 そんな幸せそうな香織を見て、あたしは香織が今後も上木とうまくいくよう祈ってやる。さすがに手は組まない。心の中でだ。

 するとなぜだろう。そうしていると、あたしは香織が祈っているという秘密をバラしたくなってきた。何でかって? だって、それは、あたしだって香織のことを――いや、は、香織にだけではなく、自分に対しても秘密にしておくべきなのだろう。


「……ささやかな祈りでもいいから、あたしにもしてくれよな」


 あたしは、香織に負けないくらいの小さな声で呟いてから、静かに教室を出た。

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