橋が落ちてから

@totukou

第1話

 三日三晩歩き通して、ぼくら一家は、ようやく国境を渡る橋にたどり着いた。

学校で先生が「今度、渓谷に架けられた橋は、沢山の国の援助のおかげで完成したのです」と教えてくれた世界で三番目に高く、五番目に長い橋だ。「私たちの国は独立したばかりの若い国です。次は、私たちが世界の役に立てるよう、みなさん、一生懸命勉強してくださいね」と、先生は続けた。けれど、その学校はもうない。きっとあの町には、もう誰も住んでいない。

 橋の手前には、中立国に向かう人の長い列ができていた。みな着の身着のままでわずかな手荷物を抱え、疲れ切り、殺気立っていた。ぼくたち親子とまるで同じだった。

 何時間も待って列が進むと、姉さんがぼくを励ますように言った。

「ほら、渓谷が見えてきたよ。すごいよ」

 橋がまたぐ渓谷はうねる壁のように長く、底に流れる川が霞んで見えるほどだった。でも、絶景を見たくらいで喜ぶのは子供じみていると思ったぼくは、姉さんに返事をしなかった。

 そのとき、爆音が空を引き裂くように轟いたかと思うと、橋の真ん中にオレンジの炎が高く上がった。橋柱がゆっくり倒れていき、引きちぎれた太いケーブルがのたうつように宙を舞った。火の玉は次から次へと落ちて来て、橋桁が音を立ててへし折れ、人々は一斉に走り出した。母さんは慌ててぼくの手を掴んだが、人の渦の中でつないだ手は切れ、ぼくたちは離れ離れに押し流されていった。

「母さん、姉さん!」

 ぼくが叫びを上げたとき、橋の方から凄まじい勢いで黒い煙が襲って来た。あたりは夜のような闇に閉ざされた。

 気がつくと、ぼく一人だった。国境管理事務所は人でごった返し、何度声を掛けても、誰もぼくのことを振り返らなかった。もしかしたら、さっきの爆撃でぼくは死んでしまって、誰にも見えないのかと思った。けれど、事務所を出たぼくの足元には、くっきりと自分の影が落ちていた。

 当てもなく、ぼくは歩き出した。心細さで、涙が溢れ出るのを止められなかった。もちろん、泣いていても、誰も助けてはくれなかった。声さえ、掛けられることはなかった。みな、自分が生き延びるだけで精いっぱいなのだ。ぼくは自力で旅を続けなければならない。でも、いったいどこに行けばいいのだろう……


 その町の入口に立ったとき、足は鉛のように重く、渇きと空腹で胃が焼けるようだった。その町も、空爆のせいでボロ雑巾のようになっていた。家々は崩れ、街灯は倒れ、歩道はコンクリートの瓦礫で埋もれていた。行き場を失った僅かの人影を見かけるだけだった。

 町をさ迷ううち、ハープのような曲線を描く巨大な建物が見えてきた。その外壁は崩れ落ち、ステージの上でグランドピアノが瓦礫に押し潰されていた。あれはコンサートホールだ。ぼくは思い出した。この町には国立の立派なホールがあり、母さんと何度か、有名なピアニストのコンサートを聞きに来たことを。ピアノ教師だった母さんは、ぼくをプロのピアニストにしようと考えていた。だから、できるだけよい演奏を生で聞かせようとしたのだ。

 でも、ピアノのレッスンは厳しかった。厳しすぎた。ぼくの指がもつれるたびに、母さんはがっかりした表情を浮かべた。ぼくはピアノがどんどん嫌いになっていった。ピアノは凶暴な暴君で、ぼくはその哀れな下僕だった。

 ぼくが「ピアノをやめる」と言っても、母さんは反対しなかった。ぼくには才能がないことに、母さんの方が先に気づいていたのだろう。それから、ぼくは、なんだかいつもすねている子供になった。学校行事も家族との会話も、何もかもがつまらなかった。そんなぼくの様子を見て、母さんは悲しそうな顔をした。嘘でもいいから、もっと明るくしていればよかったのに。でも、もう何もかも手遅れだ。

 ぼくはホールに続く長いスロープの端に腰を降ろした。一度座ってしまうと、その姿勢を保つことさえ苦しくなり、ぼくは石畳の上に身を横たえた。初めのうち、石は氷のように冷たかったのに、どんどん何も感じなくなっていった。目をつぶり、瞼の裏の暗闇を見つめていると、遠くで微かにピアノの音が聞こえた気がした。母さんの好きだった『月の光』だろうか……。でも、違った。それは、石畳を踏むカチカチという足音だった。近づいて来た誰かが、ぼくに声を掛けた。

「こんなところに寝ていてはダメだ」

 ぼくは目を閉じたまま答えた。

「もう動けないんです。昨日から水も飲んでない」

「きれいな水が飲めるところを知っている。ついて来なさい」

 目を開けても、そこには誰もいなかった。でも、空耳のはずはない。慌てて身を起こすと、少し先を白い犬が歩いているのが見えた。犬はぼくの方を振り返ると、頭を上げ下げした。まるで「一緒に来い」と催促するかのように。ぼくは、這うようにして犬の後について行った。

 しばらく行くと、犬は、崩れ落ちた家の梁の間に身を滑り込ませた。ぼくもその隙間をくぐっていくと、小さなパテオに出た。そこで、壊れてねじ曲がった水道管から水が細く流れ出ていた。犬は、その下にたまった水を舌ですくって飲むと、ぼくに場所を譲るように脇にどいた。ぼくは膝をつき、むさぼるように水を飲んだ。

「うまいだろう」

 その声に振り返ると、やはり、誰もいなかった。ただ、さっきの白い犬がぼくを見つめている。ぼくは思い切って犬に話しかけた。

「もしかして、あなたが、しゃべっているのですか」

「そうだ、私だ」

 犬は確かにそう言った。きっと、寂しさと飢えで、ぼくの頭はおかしくなってしまったのだろう。すると、犬は崩れかけた壁の穴から、木箱を引きずり出してきた。中には、缶詰が四つ入っていた。

「二つずつ分けよう。開けてくれ」と、犬は言った。

「缶切はありますか」

「ない」

「だったら、ぼくにも開けられません」

「キミは人間だろう」

「ええ」

「なら、工夫したらいい」

 ぼくは缶切りなしに缶詰を開ける方法を考えて、缶を見つめた。缶の縁を見ていると、そこで蓋が缶の側面に織り込まれていることがわかった。この縁の出っ張りを削り取れば、蓋は外れるだろう。ぼくは缶を石畳に押し当てガリガリと前後に動かした。力を込めて削り続けていると、蓋がパカリと落ち、ミートローフ状の中身が石畳に零れ出た。犬はすぐにそれにかぶりついた。

 次の缶詰は縁がボロボロになったところで削るのを止め、ぼくは両手で缶胴をゆがませた。パキンと音がして蓋が取れた。缶のラベルには、草原で遊ぶ牛と犬が描かれているから、多分、これは犬用の缶詰だ。けれど、そんなことに構ってはいられなかった。むさぼるようにミートローフを食べ尽くすと、すぐさま、ぼくはもう一つの缶に手を伸ばした。すると、犬が言った。

「私が持っている食べ物は、それが最後だ」

 ぼくが慌てて缶から手を離すと、犬は話を続けた。

「だが、残りを大事に食べたとしても、三、四日、飢え死にを遅らせるだけだ」

 黙ってぼくがうなずくと、犬はぼくを元気づけるように言った。

「金を稼ぐのだ。そうすれば、食べ物を買える」

「だけど、どうやってお金を稼ぐんです……」

「腹話術をやるのだ」

「腹話術? そんなものできません」

「心配することはない。誰も、犬がしゃべるとは思わないだろう」

 なるほど、そういうことか。ぼくが口を閉じ、脇にすわる犬が言葉をしゃべったのなら、見物人たちは、ぼくが腹話術をやっていると思うだろう。

「ここから二〇キロほど南には、まだ人が大勢住んでいる町があると聞いた。市場もあるらしい。そこへ行って大道芸をやろう。夜が明けたら出発だ」

「……だけど、どうしてあなたは、そんなに親切にしてくれるのです」

「親切? そうじゃない。犬がしゃべったりしたら、どうなると思う」

 たしかに、そんなことがわかったら、すぐに捕まえられて、研究所送りになるに決まっている。最後には、解剖されて命も落とすだろう。腹話術の振りが、一番安全だ。

 翌朝、ぼくらは、荒廃した景色の中を南に向かって歩き出した。


 その南の町も、激しい戦闘があったのだろう。多くの家屋は天井が落ち、その石壁にはいくつもの弾丸と焼け跡が残り、むき出しとなった部屋はみな伽藍堂だった。それでも、崩れ落ちた瓦礫はすでに街路脇に片づけられ、道には人と車の往来があった。市庁舎の窓にも明かりが点っていた。業務が行われているのだ。

 市庁舎前の広場にはテントが立ち並び、食料や生活必需品が売られる市場になっていた。広場は、買い物に来た大勢の人たちで賑わっていた。ふと見上げると、市庁舎の入口脇には、国旗が掲揚されていた。けれど、風に揺れているのは、一面真っ赤な旗だった。あれは、ぼくらの国に侵攻してきた隣国のものだ。

 白い犬はその国旗掲揚台に昇ると、腹話術の人形のような甲高い声で叫んだ。

「さあさあ、みなさん、お待ちかね、大道芸ですよ!」

 広場を歩いていた小さな子供が驚いて、こちらを指さした。

「母さん、犬がしゃべってるよ!」

「あれはね、腹話術というんだよ。うまいもんだね」

「見たい、見たい」

 子供に手を引かれた親子がぼくらの前にやって来ると、それにつられて十名近い人が集まってきた。どうしたらいいのかわからずに、ぼくがまごついていると、犬が小声で耳打ちした。

「始めよう。私のことはルスランと呼びたまえ」

 ルスランというのは、獅子のことだ。

「それが、あなたの名前ですか」

「もちろん、芸名だ」

 そう答えると、ルスランは集まった客に向かって言った。

「みなさん、今日は、腹を抱えて笑えるジョークを沢山、持ってきましたよ!」

 ぼくは、戸惑いながらも、どうにか調子を合わせた。

「じゃあ、ルスラン。そのジョークを聞かせてよ」

「OK!」と、うなずくとルスランは、ジョークを披露した。

「昨日、サルといっしょにジョギングしてたんだよ」

「サルといっしょに?」と、ぼくは合いの手を入れた。

「そしたら、サルが言ったんだ、『ちょっと待ってくれ!』って。だから、ぼくは聞いたんだよ。『なんで?』って」

「サルは何て言ったんだい?」

「『だって、息切れするから!』って」

 観客から結構な笑い声が上がった。話はへんてこだが、それがよかったのか、それとも、ルスランの話し方がうまいからか。笑い声を聞きつけて、さらに多くの人が、ぼくらの前で足を止め始めた。ルスランは、先に進めるように小声で催促した。

 ぼくは冷や汗をぬぐう仕草をし、苦笑しながら言った。

「悪くないね。ルスラン、もう一つ教えてくれるかい」

「もちろん! そのサルと公園でシーソーに乗って遊んでいたんだ。でも、ぼくは途中で飽きて、降りちゃったんだ」

「そしたら?」

「なのに、サルの奴は、ぼくがまだ乗っていると思い込んで、ずっと空中に浮いたままになっちゃったんだよ」

「そりゃ、大変だ」

「心配しなくてもいいよ。はしご車がやって来て救助したから」

 全員が爆笑した。ルスランは、その間抜けなサルを主人公にしたジョークを話していった。サルが、アルプスの少女ハイジと喧嘩して崖から突き落とされた話やフランダースでなぜかフラメンコを踊りまくる話だ。ジョークに出て来るサルを真似てルスランは踊り出すと、小声で言った。

「いまだ。金を集めて回るんだ。キミの帽子を使え」

 ぼくは帽子をぬいで逆さにし、ルスランの滑稽なフラメンコに腹を抱えて笑っている客たちの間を回った。客たちは気前よく小銭を帽子に入れていった。ぼくが、ルスランの隣に戻って、帽子の中身をチラリと見せると、ルスランは、「オレッ!」と踊りを決めた。それで、ぼくは言った。

「明日も、この時間にここに来ます。また、お会いしましょう!」

 帽子には、思ったより沢山の小銭が貯まっていた。でも、屋台で夕飯用の長パンと焼きソーセージを買うと、それですっかりなくなってしまった。ぼくの知らないうちに、物の値段は何倍にも上がっていたのだ。

次の日、その次の日と、客の数は増えていった。これなら、少しは貯金ができるかもしれないと、ぼくは思った。ところが、その日の腹話術が終わると、サングラスをかけた男が近づいて来て怒鳴り声を上げた。

「おい、小僧。何やってくれてんだ」

チンピラだ。ぼくは売上の入った帽子を抱きしめた。

「ここは俺の縄張りなんだよ」

「縄張り?」

「ああ、そうだ。わかったら、今日の売り上げは全部、寄こせ」

「広場は、みんなのものだ」と、ルスランが言ったが、男は驚かなかった。

「いつまでも、腹話術やってんじゃねえ! 痛い目にあいたいのか……」

 チンピラがぼくの肩を強くつかんだとき、広場を囲む建物の向うに迷彩を施されたヘリコプターが姿を現わした。機体には、ぼくらの国の二色の国旗が描かれている。広場に集まった人たちはヘリコプターを見上げ、大きく手を振った。そのとき、ヘリコプターから黒い塊が落とされるのが見えた。

 ルスランの「伏せろ!」という叫びが響いた。

 けれど、ぼくは咄嗟に動けなかった。すると、ルスランはぼくに駆け寄り、シャツの襟首を噛んで、市庁舎入口の階段の裏へぼくを放り投げた。次の瞬間、広場の真ん中で、千のマグネシウムを焚いたような激しい閃光が放たれ、のたうつ炎が吹き上がった。広場を囲む建物のすべての窓ガラスが割れ落ち、屋台のテントが吹っ飛び、人々がなぎ倒された。


 瓦礫を掻き分けて、ぼくが階段の下から這い出すと、あたりには熱気と焦げた臭いが充満していた。市庁舎の窓という窓から煙と炎が吹き上がり、黒焦げとなったテントと折れた鉄骨が広場を覆い尽くしていた。そのとき、ぼくは、ルスランの姿が見えないことに気づいた。ぼくは出せる限りの声で「ルスラーン!」と叫んだ。返事はない。瓦礫の下敷きになってしまったのか。もう一度、叫ぼうとして、ぼくはうっかり煙を吸い込んでしまった。身を屈めて激しく咳き込んでいると、背後から瓦礫を踏む足音が聞こえた。振り返ると、広場の出口にルスランが立っていた。

「町の様子を見て来たんだ。爆弾が落とされたのは、この広場だけじゃない。この町は壊滅した」と、ルスランは低い声で言った。

「でも、あのヘリコプターに描いてあったのは、ぼくらの国の国旗だったよ」

「だからさ」

「だから?」

「この広場で翻っていたのは、敵国の赤い旗だったろう」

「だって、ここは、ぼくらの国だったんだ。突然、向こうが攻め込んで来て、占領されてしまっただけだよ」

 そう。占領されたからといって、この町に住む人たちが爆弾を落とされる理由になるはずがない。もう、この地には正義はなく、何もかもが滅茶苦茶なのだろうか……。けれど、ルスランは何も答えず、ただ広場を出て行った。

 街路に沿った建物の壁と窓は砕け落ち、メインストリートは廃墟になっていた。

ルスランがぼくを連れて行ったのは、町はずれの公園だった。公園を取り囲む白樺のおかげか、噴水が壊れずに残っていて、そこに水を汲む住民の列ができていた。公園のあちこちで焚火が焚かれていたが、そこに集った人たちは誰も何もしゃべらず、ただ火を見つめていた。もう、この町で腹話術をやっても、誰も笑いはしないだろう。  それどころか、大道芸で暮らせるような場所はこの国には、もうありはしないのだ。味方の町には敵のミサイルが飛んで来て、敵が占領した町には、味方のヘリコプターが爆弾を落としに来るのだから。

 ぼくらが焚火にあたっていると、チラチラと雪が舞い始めた。一度降りだしたら、春までやむことのないこの国の雪が。もうすぐ夜間の最低気温はマイナス十五度まで下がる。もう、野宿をするわけにはいかない。ぼくらは暖炉が壊れずに残っていそうな空き家を探して街道沿いを歩き出した。

 しばらく行くと、迷彩を施されたトラックが走って来て、ぼくらの横に停まった。窓から顔を出した運転手は、軍服を着ていた。

「この辺に水が手に入るところはないかね。ラジエーターがいかれそうなんだ」

と、彼は尋ねた。

「この先を少し行って左折した公園に、水汲み場がありますけど」

「この先を左折か。ありがとう」

 運転手が礼を言うと、助手席の男がこちらへ身を乗り出して言った。

「お前、この辺にいると、危ないぞ。もうすぐ、ノチュヌイリスの原発が爆発する」

 三十年前、事故を起こした原子力発電所について、ぼくは歴史の授業で習っていた。冷却水の循環ポンプが故障して空焚きとなった原子炉が水蒸気爆発を起こしたのだ。核燃料はすべてメルトダウンした。大量の砂やホウ素をヘリコプターで投下して火災だけは収まったが、あたり一帯は飛散した放射性物質で住めなくなった。その原子炉が、また爆発する?

「ノチュヌイリスで激しい戦闘があって、管理技士たちが逃げ出したんだ。壊れた原子炉が、すぐに暴走を始める」

「そんな……」と、ぼくは絶句した。

「敵はな、この国を占領するのは諦めて、ただ誰も住めない場所にすることにしたんだ」

 助手席の男がそう言うと、トラックは公園跡の方へ去って行った。

 車が見えなくなると、ルスランが言った。

「わかった。ならば、ノチュヌイリスに行こう」

「まさか!」と、ぼくは言った。

「この国の冬は世界一寒いからね。雪に埋もれた原子炉は春まで冷温停止を続けるだろう」

「だけど、わざわざ、そんな危ないところへ行かなくてもいいじゃないか」

「だから、行くのさ。世界で一番危険な場所には、敵も味方もやって来ない。ここよりはずっと安全だ」

 ぼくらは市役所前の市場に戻って焼け残った食料を集めるだけ集め、原発の廃墟に向って歩き出した。

 ルスランの後ろについてとぼとぼと歩きながら、ぼくは思った。もう大道芸で稼ぐことはできないのだ。ルスランがぼくといっしょにいる必要なんてない。なのに、どうして彼はぼくに親切にしてくれるのだろう。ぼくに、そんな価値があるはずもないのに……。

 行く手にはいつでも雲が低く垂れこめ、ときどき横殴りの雪が視界を遮った。けれど、そのおかげで、ヘリコプターは飛ばず、戦闘は起きず、雪を溶かせば、水も手に入った。

 持ってきた食料が尽きた次の日に、【ノチュヌイリス原子力発電所十キロ圏内・立ち入り禁止】と書かれた標識が現われた。その少し先には、検問所があったが無人だった。通行止めのゲートをくぐった後は、もう誰とも一台の車ともすれ違わなかった。道のアスファルトには細かなひびが入り、センターラインはかすれて消えかけていた。何年も日が差さなかったように、道端の草木は枯れ果て、見渡す限り空っぽとなったまっすぐの道をぼくらは歩いた。

 日が暮れる頃、道路の先に焼け焦げた戦車や墜落したヘリコプターの残骸が何台も姿を現わした。地面には砲撃でできた穴が無数に空き、そこにたまった泥水には油膜が浮いていた。やがて、二重に張り巡らされた有刺鉄線のフェンスの向こうに、中世の騎士の鎧のような巨大な建物が見えてきた。

「鉛の棺だ」と、ルスランがつぶやくように言った。

 あの中に、事故を起こした原子炉が閉じ込められているのだ。

 粉雪まじりの風が吹く中、フェンスの破れ目をくぐって、ぼくらは敷地に忍び込んだ。息をつめてあたりの様子をうかがったが、サイレンはならず、銃声も轟かなかった。兵士が言っていた通り、原子炉は放棄され、無人の廃墟となっていた。

 半分凍り、半分ぬかるんだ地面に足を取られながら進んで行くと、鉛の棺の手前にある真四角の建物には、がっしりしたダクトが付いていた。

「多分、あれは放射能除去装置だ」と、ルスランが言った。

 ぼくらはその建物へ急いだ。ドアを開けると、壁にスイッチがあったが、どれを押しても蛍光灯はつかなかった。薄暗闇を進んで行くと、明かり取りの小さな窓の下にトイレやシャワー、台所があった。蛇口をひねってみたが、水は出なかった。台所には調理器具も残されていたが、錆びついて使い物になりそうになかった。

けれど、その奥の倉庫には、天井まで届く大きな棚があり、そこを雑貨、工具箱、そして、沢山の保存食が埋め尽くしていた。缶詰、レトルトパウチ、エナジーバー、乾燥果物、ボトル入りの水、長期保存用ミルク。ぼくら二人なら、半年はもつだろう。ぼくとルスランは、ここで冬を越すことに決めた。

 明かり取りの小さな窓から、ぼくらは本降りとなった雪を見つめた。


 不思議なことに、四月になっても、雪は降りやまなかった。雲は低く垂れこめたまま、太陽は姿を現わさない。木々は凍りつき、雪よりほかに動くものはなかった。

その日、ルスランと戸外に雪をすくいに行くと、雪は青みがかった光沢を放っていた。それを見て、ルスランが吠えるように言った。

「触ってはダメだ! この雪は、核汚染されている」

ぼくは深い雪に埋もれた鉛の棺を見上げた。けれど、原子炉が暴走を始めたような兆しは見つけられなかった。すると、ルスランが首を横に振った。

「あの原子炉のせいじゃない。核の冬が始まったんだ」

「核の冬?」

「大規模な核戦争が起こると、舞い上がった灰が太陽光を遮断して、いつまでも終わらない冬がやって来るんだ」

「それで、雪が止まなかったっていうのかい」

「そうだ。それ以外に、この雪を説明できない」

 ぼくらの国は核爆弾なんて持っていなかった。敵の国が使ったのか。それとも、ぼくの知らないうちに、戦争が沢山の国を巻き込んでしまったのか。その日から、雪を溶かして飲むのはやめ、ぼくらは手をつけずにおいたボトル入りの水を飲んだ。

ボトルの数が減っていくと棚に隙間ができ、その奥に古いラジオが見つかった。これで世の中の様子がわかる! ぼくは勇んで電池を入れ換えた。けれど、ラジオからは何の音もしなかった。

「壊れているのか……」

 がっかりしてぼくがそうつぶやくと、「中を確かめてみよう」と、ルスランが言った。ぼくがドライバーを使って裏蓋を開けると、ルスランは回路を見つめた。

「そこだ。スイッチのところの配線が切れている」

 ぼくは工具箱からはんだごてを出して、その赤い線をつなぎ直した。

 もう一度、スイッチを入れると、雑音が聞こえ始めた。けれど、いくら注意深くチューニング・ダイヤルを回しても、人間の言葉は流れてこなかった。

「ラジオが壊れているんじゃないんだ。人類は、もうラジオ放送をしていないんだよ」と、ルスランが言った。 

「人類は、もう滅んでしまったからかい?」

 ぼくはそう尋ねたが、ルスランは何も答えなかった。それどころか、その日から、ぼくが何を話しかけても、ルスランは何もしゃべらなくなってしまった。

何日か経つうちに、ぼくは、ルスランが本当にしゃべっていたのかどうかわからなくなってきた。本当は、ぼくが犬の分までひとりごとをしゃべっていただけじゃなかったのか。最初に出会ったときから、ずっと。


 その日の朝、ストーブに火を入れていると、ルスランが寝床から起き上がった。

「ルスラン。お腹が空いたかい?」

 返事をする代わりに、ルスランは足元にやってきて、ぼくに寄り添うように座った。ぼくはミルクを温め、皿に注いだ。それが、最後のミルクだった。

そのとき、ラジオから切れ切れにピアノの音が聞こえ始めた。ぼくは慌ててラジオに駆け寄り、チューニング・ダイヤルを必死になって調整した。流れ始めたのはドビュッシーの『月の光』だった。

 どこかで、生き残った人たちが、ラジオ放送を始めたんだ! 

 けれど、いつまで経ってもラジオから聞こえてくるのは『月の光』だけだった。もしかしたら、ルスランの話す声のように、これもぼくが自分の頭の中で作り出した演奏なのかもしれない。

 ぼくは椅子に腰かけ、ルスランの背中をゆっくり撫でた。すると、ルスランがぼくを見上げて言った。

「ぼくらの祈りは、月の光と一つになる」

 窓の向うで、雪がやんだのがわかった。


                               了      

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