第43話 対価
見慣れぬ天井を認識した途端、エレナはベッドから飛び起きた。
(あれからどれくらい時間が経った…?)
気を失う直前に聞いた言葉が蘇り、テオの安否が気にかかる。扉を掴むが、びくともせず外から鍵を掛けられているようだ。窓に近づくと遠くに地面が見え、王族専用の居住空間だろうと見当をつける。
『焦った時はまず冷静になれ』
師匠が教えてくれた言葉を思い出し、心を落ち着かせるため深呼吸をする。
不安は相変わらず収まらないが、状況を把握しなければならない。テオが捕らえられたとフェイは言っていた。
(助けなきゃ。でもどうやって――)
無力な自分への苛立ちと焦りで考えが上手くまとまらない。ドールをこの手で殺したこと、テオが傍にいないことで不安定になっているのだとようやく自覚する。
(あいつはどうしたいか尋ねた。答えを変えるわけにはいかないのなら……)
エレナの思考はノックの音によって遮られた。
返事をする前に扉が開き、カールがフェイを伴って現れる。神妙な顔をしているが、心の中ではエレナをあざ笑っているのが丸わかりだ。
「エレナ姫、体調は良くなった?」
「ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
どれだけ見透かされていようが、この男の前で感情を露わにしてはいけない。顎を掬い取られ怜悧な瞳がエレナを見つめていることは、視線を外していても分かった。
「もう少し休んだほうがいい?姫を煩わせるのなら後はこちらで処理をしておくけれど」
「…お気遣いいただきましてありがとうございます。ですが臣下の不始末は私が行います」
答えられる言葉など決まっていた。ドールを殺しておいてフェイの助命を請う訳にはいかない。それは弱みを差し出すことと同義だ。
「ふふ、いい子にはご褒美をあげなきゃね。明日君の騎士を処刑したらアイリス国とアンバー国の講和条約を実現してあげよう」
講和条約が結ばれれば実質戦争の終了を意味し、それはエレナだけでなく父エイドリアンの悲願でもあった。
「寛大なお心に感謝いたします」
深々と礼をすることで溢れ出しそうな感情を抑えつける。
(テオを犠牲にすれば平和が手に入る……)
大切な人を失う戦争を終わらせたかったのに、エレナ自身は大切な人と一緒にいることを許されない。師匠と同じようにいつかテオも戦場に送られるのではないかという恐怖が常にエレナの心につきまとっていた。テオがいなければ生きている価値もない。
だがもしもエレナがテオを殺さなければ、再び戦争が始まり多くの命が犠牲になることは想像に難くなかった。
わざわざ講和条約を褒美としたのは、エレナに手心を加えないように釘を差すためだ。
「血に濡れた君もとても美しいけれど、今後はずっと僕の傍にいて欲しい。明日に備えてゆっくり休んで、愛しい僕のエレナ姫」
指先に口づけを落とされても何も感じず、カールが出て行くとエレナは床にうずくまった。
心の中で繰り返し大切な人の名前を呼び続けても、返答はない。いつだってエレナが泣いていると駆けつけてくれたテオはもう傍にいないのだ。
その事実を突きつけられてエレナはただ唇を噛みしめることしかできなかった。
「本当は、もっとゆっくり囲い込むつもりだったんだけど」
「その割には早々に動いていらっしゃいましたよね」
呆れたようなフェイの口調を咎めることなく、楽しそうにカールは笑った。
「健気で可愛いから独り占めしたくなったんだ」
(姫にとっては災難なことだな)
そう思いはするものの、姫よりもカールの機嫌のほうが大切なのは言うまでもない。
「姫は強くあろうとしているけど、精神的に騎士に依存しているところがある。依存する存在がなくなれば、きっと僕を頼るようになるよ」
「その大切な存在を自分の手で殺すことになった原因は陛下なのに?」
にっこりと微笑む顔を見れば、心を惹かれない女などほとんどいないだろうと思わせるぐらいの美貌の持ち主。内面を知らなければ印象は随分変わる。
「だからこそ健気なんだよ。僕のことを憎んでいるのに姫の祖国を救えるのは僕だけだ。溺れるほど甘やかしてあげれば、葛藤しながらも最終的には僕に堕ちてくる、絶対にね」
確信的なカールの口調にフェイは口を噤んだ。彼がそういうのであればどんな手段を使っても結果的にカールの意に沿うような事態になるのだろう。
くすくすと子供のように無邪気な笑い声だけが、薄暗い室内に響いていた。
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