第42話 テオ

『迎えに来るまでここで大人しくしていなさい』


そう言った両親の言葉が、嘘であることに気が付かないほど幼くはなかった。不作で日々の食事にも事欠く中で、労働力にならない子供は口減らしのために捨てられる。

恨みや憎しみはなかったが、死にたくないとは思ったテオは両親の姿が見えなくなるとすぐに反対方向へと歩き出した。


冷静ではあったが、幼く非力な子供に出来ることは限られている。食べられそうな甘みのある果実をいくつか見つけたが空腹は収まらない。夜が深まるにつれて獣の動きが活発になる。

食糧を諦めて安全な木の上で夜を明かそうとした矢先、獰猛な獣の唸り声が聞こえた。闇夜に浮かぶギラギラとした瞳に身体が動かない。


(嫌だ、死にたくない!)


傍にあった太い枝に手を伸ばした瞬間、獣が飛びかかってくる。

思わず目を閉じるが、背後で何かが動く音がして獣の悲鳴が上がった。


「武器を取ったなら使わないと意味がないな」


月明りを背にした男は諭すように静かな口調で告げる。

親に捨てられたその日、テオは師匠に拾われることとなった。


師匠は決して優しくはなかったが、テオが生き延びる上で必要なことを教えてくれた。だから師匠への恩返しのために師匠のいう事なら何でも聞くようにと考えていた。

たとえその頼まれごとが子守だったとしても――。


師匠は隣に住むルイーザ母子のことを気に掛けているようだった。ルイーザが仕事に出かけている間に幼い娘、エレナの面倒を見るのはテオの仕事だ。


自分より幼い子供の面倒を見るのは初めてで、すぐに壊してしまいそうな幼子に触れることすら怖かった。けれどテオの姿を見るとにっこり笑いかけてくれる子供が、自分を必要としてくれる存在に、乾いた心が満たされていくような充足感を覚えるようになった。


自分を追いかけて一緒に鍛錬を積むようになってからは、心配な気持ちもあったが一層強くなりたいという思いが増していった。


「テオ、お前はエレナが大切か?」


他愛ない質問のようで師匠の目が真剣だったことをよく覚えている。


「はい」


余計な言葉を付け加えず、師匠の言葉を肯定した。

その時に師匠は決断をしたのだとテオが気づくのはそれからずっと後のことだ。


ルイーザが亡くなった後、エレナの叫び声で駆けつけると数人の男がエレナを囲み、そのうちの一人が彼女の細い腕を掴んでいた。その光景を見て身体が怒りで熱くなったのが分かった。師匠が止めなければもっとひどく痛めつけていただろう。


師匠はエレナの出自や予想される未来を説明した後で、エレナにどうしたいか尋ねた。不安そうな瞳が自分に向けられて、抱きしめたくなる気持ちをこらえた。


(エレナの決断を邪魔してはいけない)


『テオも一緒なら行く』


きっぱりとした口調だが、握りしめた手は微かに震えていた。そんなエレナを守ってやりたいと心から思った。師匠のテオに向ける視線は厳しく、テオの覚悟を問うているようだ。

だからテオは迷うことなく頷いて、エレナの頭を撫でた。


その言葉をエレナは後悔しているようだったが、テオにとっては自分を選んでくれた喜びと誇らしさしかない。

何度同じ状況になってもエレナが望んでくれるなら、傍にいる。それがテオの願いであり誓いであった。


そうして向かった王宮は悪意と危険に満ちた場所だった。エレナの母が平民とはいえ現国王の娘である。

それにも関わらず、嫌がらせの域をはるかに超えた振る舞いにテオは唖然とし、エレナのために必死に奔走する日々が続いた。


師匠がエレナに武術を学び続けさせようとしたのは、この状況を見越した上なのだろう。その判断に尊敬の念を抱きながらも、こんな場所だと知っていてエレナを王宮に連れてきたことに対する怒りを覚えてしまう。

そんなテオの不満が解消されたのは師匠が戦場に向かう前日のことだった。



アイリス国との戦争はテオが物心ついた時からずっと続いている。チャーコル国からの提案で一度に犠牲になる人数は少ないが、長きに渡る戦争でその数はかなりの人数になっているはずだ。

そんな戦場に師匠が送られると聞いて、テオは急ぎ師匠の部屋へと駆け出した。


エレナとテオが多少の嫌がらせで済んでいるのは、師匠があらゆる手を使って守ってくれているからだ。

テオは騎士として認められるほど強さを身に付けたが、王宮で生き延びるには純粋な力の強さだけでは駄目だと実感していた。

師匠を訪ねると部屋が妙にすっきりとしていた。胸騒ぎを感じて師匠の顔を見るが、いつもと変わらない表情だ。


「テオ、お前はもう一人前の騎士だ。これからは私の代わりに彼女を守ってやってくれ」


切り出された内容を咄嗟に飲み込むことが出来なかった。


「一時的にという話だが恐らくもう死ぬまで戻って来られないだろう。……少し悪目立ちしすぎたようだ。テオ、頼めるか?」

「師匠、俺にはまだ力が足りません。貴族連中との折衝を師匠に任せきりで、一人でエレナ…姫を守る自信がありません。彼女はここにいなくてはならないのですか?」


長年の疑問を師匠にぶつけてみた。この機会を逃したら二度と聞けなくなる、そんな気がしたからだ。


「運命から逃がしてやれるものなら、逃がしてやりたかった。お前は気づいていなかっただろうが、あの時私たちは彼の方の子飼いどもに囲まれていた。子供二人を庇って逃げ切るには私の力もまた十分ではなかったんだ。……すまない」


彼の方が王妃を示していることは明白だ。師匠から頭を下げられテオは狼狽し、心から湧き上がる思いに涙が出そうになった。師匠は自分もエレナと同じように守ろうとしてくれた、そのことが申し訳なくも嬉しかった。

親に捨てられた自分を拾い育ててくれただけでなく、愛情をもって接してくれていたことを実感する。


「師匠、命に代えてもエレナ姫をお守りいたします。どうかご武運を」

「お前に何かあればエレナ姫も危うい。二人とも無事でいてくれよ」


それが師匠との最後の会話になった。


師匠の遺体は無残なものだった。表情から苦しみ抜いて亡くなったことが分かるほど、その身体は生前だけでなく死後にも付けられたような痕跡が残っていた。執拗なほどの傷に見せしめという言葉がよぎる。


エレナには見せたくなかったが、彼女が納得しないのは分かっていた。遺体袋から出さず顔だけ見せたが、ショックのせいで倒れかける彼女を抱き留める。


『大丈夫だ。俺が必ずエレナを守るから』


彼女を守りつつ自分も守る。それがどれだけ困難を伴うものだとしても――。

エレナが変わったのはそれからだった。


師匠がいなくなってすぐ侍女から紅茶に毒を盛られたのに、平然としたエレナの様子に腹が立った。怒りを侍女に向けると庇うような素振りを見せたかと思うと冷静な指摘を返してきた。


わずか十歳の子供の言葉とは思えないぐらいで、幾度となく命を狙われことで感覚が麻痺しているのではないか。そう考えたこともあったが、実際のところエレナは自分の命に関心を払わなくなったのだということに気づいた。


『テオ、約束して。私を置いて行かないで。もし死ぬなら私を殺してから死んで』


濃い目の下の隈と疲労の濃い顔色でエレナが眠れていないことが分かった。恐らくは悪夢にうなされているのだろう。日当たりのよい庭でうたた寝をしていると思っていたら、自ら手を押えて飛び起きたが、微かに悲鳴が漏れていた。


縋るような目で訴えられて断ることもできずに、テオはエレナと約束した。その後安心したのかエレナは眠れるようになったが、時折不安そうに約束を覚えているかと口にするようになった。

エレナを安心させるための方便は、いつしか絶対に守らなければならない約束になった。


自ら戦場に向かうことも、戦争を停めるためにチャーコル国に輿入れすることもテオは反対した。それでも最終的にはいつもエレナの望みを聞き入れ、叶えることにしたのはいつか果たさなければならない約束を反故にするための免罪符にと無意識に思っていたのかもしれない。


ドールが消えて探ろうとするも侍女の監視が厳しく、焦燥感に駆られているうちに発見されたと連絡があった。エレナと同行することは叶わず、自室で待機しているとノックもなくカールの侍従であるフェイが入ってきた。


「お前に陛下暗殺未遂の疑いがかかっている。大人しく牢屋に入るなら、姫の安全は保障してやるけど、どうする?」


エレナに執着し始めているカールがそんなことを許すわけがない。冤罪で捕らえられれば二度と自由になれないことは明らかだ。目の前の男を倒して逃げる算段を一瞬で立てる。

実行に移そうと重心を移動させると、にやついた笑みを浮かべた男は楽しそうに告げた。


「ああ、姫の安全というのは純潔のことな。一応まだそのつもりはないらしいけど、それくらいの罰は妥当だろう?」


いつか無理やり奪われてしまう可能性があることなど、テオもエレナも互いに分かっていたが口にすることは一度もなかった。

覚悟していたことではあるが、自分の行動でエレナが傷付けられるなど到底許容できるものではない。


(牢に入れるだけならまだ殺すつもりはないということだ。俺はエレナとの約束を果たすまで、絶対に死なない)


勝ち誇ったフェイの顔を睨みつけるようにして、テオは大人しく従うことにした。

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