第37話 嫌がらせの日々
闘技場から戻るなりエレナはテオを相手に刃を交わしていた。木刀とはいえ実戦さながらに攻防を繰り返す中で、先に折れたのはテオのほうだった。
「エレナ、今日はもうここまでだ」
反射的に言い返しそうになるが、テオの有無を言わせない視線に黙って剣を下ろした。気づけば全身汗でぐっしょり濡れているし、身体がだるい。自分の状態を見抜かれたと分かって、苛立ちが申し訳なさに変わった。
「ごめんなさい」
以前であれば優しく撫でてくれた手がエレナに触れることはもうない。カールの側妃であるエレナとは室内で二人きりになることすら許されず、屋外での訓練はギリギリ許容される範囲だった。
「あの騎士はアンバー国出身だと言っていた」
小声で漏らせばそれだけでテオには全て通じた。国民を守るための決断だったのに守るべき命を屠ってしまったことの動揺を減らすために打ち合っていたのだ。
「姫は生き抜かなければならない。それが守ることに繋がるのだから」
独り言のように顔をそむけて呟いた言葉はエレナの耳にきちんと届いていた。慰めの言葉ではなくただの事実に少しだけ気分が浮上した。
例えどんな結末を迎えたとしても、エレナにできるのはカールからの命令通りに処刑を続けることだ。他の誰でもないエレナ自身が選んだ道。
師匠を殺され、そしてアイリス国の人形兵士の変化にエレナは決断した。
(それを正解にするためにこの国に来たのだから、立ち止まることなどできない)
エレナは再び自分自身に言い聞かせると、安心させるようにテオとドールに向かって笑みを見せたが、その夜エレナは久しぶりにあの夢を見た。
顔は見えないが穏やかな声音に、懐かしさと悲しみが混じった感情が胸を打つ。
(これは師匠が戦場に行く前、挨拶に来てくれた時のことだわ)
ぼんやりとした頭でそう思った。
『しばらくの間お傍を離れますことをお許しください』
行かないで、そう言いたいのに声にならなかった。静かに笑った師匠はエレナの頭を撫でると、部屋から出て行く。
(師匠、お願い!行ったら殺される!)
追いかけたいのにエレナの体は動かず、ただ焦りと恐怖に心が塗りつぶされていく。夢だと分かっているのに、思うようにならないことがもどかしい。
一瞬で場面が代わり、エレナは森の中にいた。どこか分からないのにエレナはこの場所が戦場であることを知っていた。
先ほどとは逆に行きたくないと思うのに足は勝手に進んでいく。草むらをかき分けて、それを目にした瞬間――エレナは覚醒した。
暗闇で目を見開くと見慣れない天井が映って、まだ夢を見ているのかと思った。早くなった呼吸を宥めるよう深呼吸を繰り返せば、少しずつ落ち着くことができた。
輿入れしてからもうじき一ヶ月になるが、与えられた私室はいまだによそよそしさを感じさせる。
悪夢とは言えないが、現実と入り混じった生々しい夢を振り払うかのように枕元に準備された水を口に含み、ゆっくりと嚥下した。
口にするものを躊躇なく飲み込むことが出来なくなったのは、いつからだろう。感傷的になっている自分に気づき、エレナは薄く自嘲の笑みを浮かべる。
自分の命を狙われることは構わない。だけどエレナの大切な人たちが傷つくのは我慢できなかった。エ
レナに同情を寄せ、仕えてくれようとした優しい侍女や騎士もいたが、エレナは全て遠ざけた。王妃をはじめとした権力者から彼らを守る術を持っていなかったからだ。
それでも師匠とテオだけはずっと傍にいてくれると信じて疑わなかった幼い自分が愚かしくて、少し羨ましい。
処刑の頻度は週に一度、それと同じ程度の回数でエレナはお茶会に招待されていた。国王直々の招待はもはや命令と同義だ。
「エレナ姫、よく来てくれた」
にこやかな笑みを浮かべたカールは自分の隣の席を指し示す。反対側に座るセシリア王妃は余裕の笑みを浮かべているものの、その瞳は冷ややかだ。内心疎ましく思っていることは分かっているが、エレナにはどうすることもできない。
「お招きいただきありがとうございます」
不敬に思われない程度の微笑みを浮かべて、着座する。お茶会の間カールは茶や菓子を勧め、ほとんどエレナだけに話しかけて、まるで寵姫のように扱う。実際にそう感じている者がほとんどだろうが、実情は大きく異なっている。
「エレナ姫、食べてごらん」
カールが一口大の焼き菓子をつまんでエレナの口元に差し出す。国王自ら手に取ったものを口にしない訳にはいかず、覚悟を決めて口を開いた。
上品な甘さと柔らかな口当たりの菓子を咀嚼すると、中からとろりと酸味と苦みのあるクリームが口の中に広がる。
吐き出したい衝動をこらえて菓子を飲み込んで、エレナは礼を言った。
「美味しゅうございます。ぜひ皆様にもご賞味いただきたいお菓子ですわ」
「気に入ってくれたかな?エレナ姫のためだけに作らせたんだ。遠慮しないで食べるといい」
「ありがとうございます」
誤魔化すために口元に運んだお茶も口を付けずに、飲むふりだけでやり過ごす。恐らくそれ自体もバレているのだろうが、これ以上不用意に毒を口にしたくない。
カールがエレナのために用意した茶と菓子は例外なく毒入りである。
(嫌がらせのためだけに随分手の込んだ真似をする)
心の中であらん限り暴言を吐くが、お茶会はまだ始まったばかりだ。兄姉たちでさえここまで徹底した真似はしなかった。しかも表面上は見事に取り繕っているため、他の妃や侍女、騎士たちまでもがカールの溺愛ぶりを信じている様子だ。
例外なのは常にカールの傍にいる侍従のフェイだけだろう。エレナを見る目や仕草でこの状況を面白がっているのが分かった。
何とかお茶会の時間をやり過ごし、礼の言葉を述べてカーテシーを取ろうとした瞬間、視界が揺れた。
(寝不足と毒の影響か)
ぐらついた体勢を立て直すことができず、諦観ともに衝撃に備えたが体に温かいものが触れる。定まらない視界で顔を上げれば、すぐそばにカールの顔があった。珍しく貼りつけた笑顔ではなく、驚いたような表情をしている。
「申しわけ、ございません」
よりによってカールに向かって倒れ込んでしまったようだ。
(部屋にさえ戻ればドールが何とかしてくれる)
そう思って立ち上がろうとするが力が入らない上に、押さえつけられているような感触がある。
「じっとしていて。部屋で休ませてあげるから」
その言葉に危機感を覚えた。このままだとどこに連れていかれるか、何をされるか分かったものではない。ぐっと左手に填めた指輪に力を込めると、鋭い痛みが走った。
遠のきかけた意識が戻り、素早くカールとの距離を取り非礼を詫びた。
「大変失礼いたしました。非礼のほど、どうかお許しくださいませ」
そっと視線を上げればいつもの玩具を見るような表情に戻っていた。
「疲れているようだね。ゆっくり休むといい」
許しを得たエレナは親指を指輪に抑えつけたまま、足早に部屋へと急いだ。
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