神様2022

石川ライカ

神様2022

 時間はたっぷりあって、たっぷりあると思ったとたんにそれはひとまわり小さなたっぷりになっている。私にはやらなければいけないことがあって、それは文章を書くことなのだけれど、いまはやらなくてもいい文章を書いている。やらなくてもいいことはそれだけで価値がある。いや、価値がないから私にとって必要だと言えばいいのだろうか。こうして書いている時だけ、起きたままうたた寝をしている時みたいな、ぼんやりしたいい気持ちになれる。このぼんやりは不安の反対だ。だから私は少しでも長くぼんやり書いていたくて、まだ何も書こうとはしていない。だって、何かを書いてしまったら、その何かを「おしまい」まで書かなくてはいけなくなってしまう気がするのだ。これは職業病かしら。だから私はこうして書いているだけで、私が何者なのかも書かずに書いていられたらいいと思う。ここではたくさん嘘をついてみることにする。嘘をつくといえば、何を書いても許してもらえるだろう。そうでないとしても、そう書いておく。だから私はこれから純度100%の嘘をつくのだ。これだけは本当。私は決めた。とにかく、三千字ほどの意味のない言葉を書いていくのだ。それはジャズ一曲分。ジャズには終わりがなさそうだから、いつ終わってもいい。それは小説ともいう。


 私は熊で、物書きをしている。なんとなく作家生活を続けてきて、上手くいっているのかはよくわからないけど、まだ嫌になってはいない。最初に書いた、やらなければいけない文章とはその辺のことだ。それを書くと私は責任を果たしたと思ってもらえる。この文章の最初に嘘を書くと書いたけれど、これは約束のようなもので、嘘は嘘ほど丁寧に、本当らしく書かなくてはいけないものらしい。これは読者との約束だ。本当らしいしっかりした嘘ほど、よく読んでもらえる。だから「嘘を書きます」なんて馬鹿正直に書いたのは悪手だったのだろう。でもいいのだ、私は熊で、物書きをしている。こう書こうと思って、私は実際に書いたのだ。私は今、思いついた。そう書かれている自分の文章を読んで思いついたのだから、実際は思いついておらず、思い出しただけかもしれない。私は文章を書こう、と思って書いているけど、小説を書いているわけではない。それは読んだ人が後から思いつく言葉だ。だから私は書くことについて書いていますよ、たのしいですよ、ということだけを書こう。この文章にはやわらかさだけがあればいい。


 世の中にはやわらかい言葉とかたい言葉がある。おそらく、これを読むひと、これを読むあなたは私が熊だとは思っていないでしょう。嘘だから別にいいのだけれど、私は私の嘘を信じてほしいと思っている。どうしたら私が熊だと信じてくれる? こんな風に書けば、これはだんだんかたい言葉になっていく。かたい言葉は読みごたえがあって、私風に言えば新しく入荷した南極の氷(本当に南極から仕入れたかどうかは気にしない)を届いてすぐにガリっと噛むくらいの、噛み応えと言った方が正しい。やわらかさについても書こう。かたさを先に書いたのは、そっちの方が書きやすかったからだ。やわらかさはたとえば……それは測定するのが難しくて、たぶんかたさの反対、かたさを応用して考えるのだろう。一言で言えば、「かたくなさ」になる。ためしにかたさを人間がどう測るか辞書を引いてみよう。「硬さとは試料に加えた荷重を試料にできたくぼみの面積で割った値である」……なんてかたそうな言葉! 人間はかたい言葉が好きだ。たしかに新氷の歯ごたえは熊の人生になくてはならないけど、しょせん熊は毛におおわれた生きものだ。くまはやわらかさによって生きている。やわらかい言葉をしゃべる人を私は何人か知っている。それはよく執筆の邪魔をしてくるナメクジとか、たまに窓に降りてくるクロヒョウとかのことだけど……今わたしは一つの矛盾を見つけた。ナメクジとか、クロヒョウには名前はないのだろうか。いや、私が熊であるように、彼らにはそれ以上の名前はない、顔と、においで十分だ。でも、この文章にそれは書くことができない。書いてしまったら嘘になる、そんな気さえしてきた。


 熊が手探りで穴を掘るような、穴を掘ることと文章を書くことは似ている。穴の中に入っている時しか書くことはできない。それじゃ、穴はどうしたらいい? 私は実家のあなぐらを思い出している。あの穴自体を、いま私が住んでいる建物自体を文章にするにはどうしたらいい? 私はここにいます、それだけでいいのに、書いてしまったらそれはどうなってしまうのだろう。そんな「家」を書くことができたとして、それを読んだ人は、それがあると思うのだろうか。ないと思うのだろうか。ないと思ってくれたのなら、それが一番いい気がする。こんな文章って、ないよ。そう言ってもらえたら、そんな文章は「おれはただ書かれただけだね!」って胸を張れるんじゃないかな。でもそうなると、読んでもらえないかもしれない。読んでもらえない文章が、一番幸福なのかしら? これは何についての文章なのだろう。わからなくなったときは、読むに限る。私は私の書いたものを読み返す。糊職人の話、穴倉の話、かえると小熊が泳ぐ話……ああ書いたな、とは思うけど、なぜ書いたのかはわからない。書いているうちに、じわじわと思い出してきた。私は熊だから、熊の話を書こうと思ったのだ。なぜなら、熊はやわらかい言葉が好きで、そもそも文章をあまり書こうとしない。文章って、書いた後はインクの染みや溝になって、まるで彫刻家が「自分自身を刻み付けてやったぞ!」と言っているみたいで、すぐかたくなってしまうから。そうだ、私は少年と熊の話を書いた。カエルと小熊の話を書いた。これはみんなやわらかそうな生きものたちだ。やわらかそうな生きものたちが、やわらかなままに眠ったり泳いだりすれば、やわらかな言葉になるんじゃないかと思ったのだ。


 でも、熊は書かない方がいい、喋らない方がいいという熊だっている。私はやわらかなまま喋って、書くこともできるんじゃないかと思う。ただ、私の言葉だけがあるような、そんな小説がいい。むこうの書斎にある冷たい木製の机(それにはもちろん漆が塗ってある。ああ漆! 貴方はあんなにやわらかかったのに!)から、やらなければいけない書き仕事が私を呼んでいる。まるで冬の一人ぼっちの日に、珈琲を淹れて暖房をつけて、暖かい部屋を作り上げると、窓の向こうの寒さが自分の体の中に移って来たような、身体の中だけが吹雪いているような気持になる、そういう冷たさがまだ書いていない仕事から伝わってくる。ここは思い切って熊流に、部屋の温度を氷点下まで下げてみよう。炬燵をひっくり返して、暖炉に水をかけて、大きな盥に氷のタワーを建てるのだ。そうすると、私の爪の内側、鼻の奥から段々と蒸気が沸いてくる。だから、冬は寒い部屋でもっと寒い世界の小説を読むのがいい。タイトルに「雪」とか「氷」とか「凍」とかが入っているともっといい。氷の世界はかたい言葉に感じるかもしれないけど、氷の形はいつだって滑らかだ。年が明けたら、みんなで散歩に行こう。この文章みたいなやわらかで形のないおしゃべりをしよう。私の寂しさは、未来への愛だ。

 冷たい世界にやわらかな言葉を、やわらかな生き物を。私は書き続けたい。書き終わりたくない。今年が終わる。あと少しで。

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