恋心と危機一髪(『霧向こうのキリヤ君』②)

喜楽寛々斎

第1話

鈴ケ嶺すずがみね、大丈夫か?」


 霧彌きりやがたびたび目を細めていることに気づいたらしい北条先生が、心配そうにこちらを見ている気配がした。


 気配がしたというのは、実際には霧彌の周りに常時発生している霧に阻まれて彼の姿は視認できず、経験則で感覚を補っているからだ。北条先生は一見無骨に見える人だが、いつもとても細やかに気遣ってくれる。


「すみません、今日はちょっと調子が悪いみたいで見えにくくて……」

「おう、大丈夫だ。じゃ、前みたいに板書の写メを送るな」

「はい、ありがとうございます」


 スマホで写真を撮ることを〝写メ〟という癖がある彼は、教室の後ろへと遠ざかっていき、カシャとシャッター音が鳴った。


 最前列の席で、ほんの一メートル先の黒板すら見えないのは難儀だよなぁ、と思いつつも、我が身を守るための霧だから仕方がない。


 どういうわけかここ数日、近年稀に見るほどに霧が濃く出ていて、正直ほとんど視界が利かなかった。



 * * *



 キーンコーンとチャイムが鳴り、昼休みになった。


 いつものようにパンを手に近づいてきたひいらぎ柚四郎ゆしろうが、開口一番に聞いてくる。


「週末、なんか変なことなかったか?」


 彼の家は古くからの拝み屋だか祓い屋だかで、普通の人には認識できないまじなの存在がわかる、数少ない人間の一人だ。


「ううん。特に思いつかないけど……元旦の時はほら、びっくりなことはあったけど、あれ以来そういうことはないし……」


 もう二週間ほど前のことだが、霧彌は新年早々に狂ったように昇り続ける朝日、という不可思議な現象に遭遇した。今年の元旦は雲が出ていたため、あんなにも煌々こうこうと照る初日の出が見れたのは、ある意味ラッキーだったのかもしれない。


「そういや、その初詣の時も霧はそんな感じで濃かったのか?」

「いや、あの時は特に濃くはなかったよ。いたって通常仕様というか……まぁ霧が出てるのが普通かっていったら、首を傾げるとこだけど……」


 思い返してみれば、その時は霧に特に変化はなかった。今はそれとは比べ物にならないほどに濃い霧だ。


「……じゃあ、


 ぽつりと呟いた柚四郎の言葉が、妙に耳に残った。



 * * *



 午後の移動教室から戻ってきて教室に入った途端、霧彌は首を傾げた。


 ———なにかあったのかな……


 霧彌は視覚がききにくい分、耳と空気感で察知するところがある。どうも空気がざわついているような気がした。


「あ、柊君。ちょっと相談したいことがあるんだけど……」

「ん?なに?」


 柚四郎に声をかけたのは、クラス委員長の澤山ほとりだろう。


「なんかね、年末くらいから、新田あらた陽菜ひなちゃんを見かけたって人がいるみたいなの。しかも一人じゃなくて、何人も」


 新田陽菜というのは、隣のクラスの同級生である。元々身体が弱くたびたび入院していたが、去年の十一月の終わり頃に風邪をこじらせて亡くなったのだ。


 霧彌も以前同じクラスになったことがあり、時々話をしたりいていたから葬式に参列した。急にもう彼女はいないのだと言われてもピンとこなかったが、その優しい笑顔の遺影を前にして、ひどく悲しい気持ちになったのを覚えている。


「それはどこで?」


 柚四郎が尋ねた。


「私はまだ一度も見てないけど、学校で見た人とか、道で見たって話を聞いたの。それから楚古そこ公園ってあるでしょう?ほら、通学路の途中のとこにある、あの小さな公園。そこで見かけたって人もいるみたい」


 彼女はなにかをこらえるように間を置いてから、ぽつりと呟く。


「もし……もしあの子に何か未練でもあって、迷ってたらどうしようって……」


 確か、新田陽菜と澤山ほとりは仲が良かったはずだ。その友人が〝出る〟と言われて、心残りでもあるのか心配になったらしい。


「わかった。親父と兄貴たちに伝えておくわ。心配しなくていいぞ」

「ありがとう、柊君」


 柚四郎がそう請け合い、彼女はほっとしたように礼を言った。



 * * *



 コン、コン、コン、コン

 コッ、コッ、コッ、コッ


 慣れた通学路とはいえ、こうも視界不良だと本当に白杖が頼りだ。道に昨日までなかった障害物が現れることもあるし、人がそこ立っていることもある。大抵は音か白杖に気づいて、あちらが避けてくれるが。


 コン、コン、コン、コン

 コッ、コッ、コッ、コッ


 杖とローファーの二重奏を奏でること、しばし。


鈴ケ嶺すずがみね君」


 ふいに脇にある公園の方から名前を呼ばれ、一瞬、誰の声か考えた。それから思い至ってどきりとする。


「……新田さん?」

「……うん。久しぶり。ごめんね、急に声をかけて」


 顔をそちらに向けたところで姿は見えないが、その声は以前と変わらなかった。


「あの……少し、話がしたいんだけど……いいかな」

「……うん、じゃあ奥のベンチに座ろうか」


 澤山ほとりの話を聞いていただけに無下にする気にもなれず、霧彌は小さな公園の奥側にあるベンチへと向かった。


 コン、コン、コン、コン

 じゃ、じゃり、じゃ、じゃり


 腰を下ろすと、霧彌の足のすぐ隣のあたりに、可愛らしい小ぶりな爪が並んだ手が見えた。視認できるのはそれだけで、後は全て濃い霧向こうに隠れてしまっている。


 ———元気?っていうのはおかしいよな……亡くなっているわけだし……


 内心どう話しかけたものか首を傾げていた霧彌だったが、彼女が先に口を開いてくれた。


「あのね……私、前から鈴ケ嶺君にね……伝えたいことがあったの」


 柔らかなその声は、記憶にあるそのままだ。


「あの……今さらこんなこと言われても、困らせちゃうかもしれないけど……どうしても伝えたかったことだから、言わせてね。……私ね、鈴ケ嶺君のことが好きだったの」


 思いもよらない言葉に、一瞬、刻が止まった。


「……えっ、そ、そうだったの?」


 なにかもう少しマシな返答はできなかったのかと、霧彌は自分の恋愛経験不足を恨めしく思う。


「だから、あのね。どうしても、どうしても、ひとつだけお願いを聞いてほしいの」


 彼女の華奢な手が自分の二の腕のあたりに触れ、霧彌の内側は勝手に暴走してにわかに恐慌をきたす。


 ———最後に、デートしてほしいとか……?も、もしも、もしも……キスしてほしいとかだったらどうしよう……どうしよう……!!


 今は幽霊とはいえ、可愛い女の子が好意を寄せてくれるとは霧彌の人生においてはなかなかない大事で、ちょっと脳細胞が浮かれていたのだと思う。自分で言うのもなんだが、ウブな男子高校生であるから仕方がない。


「……いいよ」


 うっかり答えてしまった後で、しまったと思った。どんなに霧で認識を誤魔化して、その存在をあやふやな状態にしたところで、はっきりと約束してしまえば意味はなくなる。相手の存在を認めていなければ、そんなものは交わせないからだ。そして認識するということは、良くも悪くも相手に力を与えることになる。それがたとえ普通の人々の目には、映らないものであっても。


「嬉しい……!ありがとう!!鈴ケ嶺君!!」


 なにしろ顔は見えないので声と手だけだが、その花がほころぶような喜びを感じて霧彌は考え直した。


 ———いや、僕も男だ。二言はない。たとえ彼女がなにを望んでも……


「あのね、今日一日ね。夜の十二時を過ぎるまでは、誰に何を頼まれても〝いいよ〟って言わないで」

「えっ!?」


 どういうことだろう、と思う間もなく、彼女が勢いよくたたみかけてくる。


「誰に何を頼まれても、絶対に断って!!〝うん〟って言わないで!!お願い!!」

「わ、わかった。断るよ」


「よかった!約束だよ!絶対絶対、約束だからね!!」

「う、うん」


 困惑しながら霧彌が返事をすると、彼女の可愛い手は柔らかく光を帯び溶けるように消えていった。どうやら成仏というか、行くべきところへ行ってしまったらしい。


 ———なんだったんだろう……


 霧彌はしばらく呆然とした後、コン、コン、コン、コン、といつもの音を響かせて家路についた。



 * * *



 家に帰りつき、夕ご飯もお風呂も終えた霧彌は、自室でベッドに横になっていた。


 別に寝ていたわけではない。イヤホンから聞こえてくる音声に集中していたのだ。


 非常に稀なことではあったが、今のように手元のスマホ画面やノートさえ危うい時は、読み上げアプリに音声にしてもらって頭に叩き込むことにしていた。できれば視界が戻ってからにしたいところだが、小テストは明日なのだから仕方がない。


 繰り返し繰り返し授業内容を聴き、日付も変わる頃だからそろそろ寝ようかな、と思った時だった。


「夜遅くにごめんね、鈴ケ嶺君」


 ふいに彼女の声がした。見れば、霧の向こうからあの可愛らしい小さな爪が並んだ華奢な手が、ベッドのふちに乗せられている。


「あのね、私、最後の最後に皆と遊んだ公園に行きたくて……よかったら、一緒に行ってくれないかな?」


 それくらいなら、と思ったが、なぜか口が動かなかった。喉に何かがつっかえてしまったように、声が出ない。


「……鈴ケ嶺君?」


 なぜ返事ができないのかと考えて、ふいに気づく。


「……その、新田さんと約束したじゃない?誰に何をお願いされても、絶対に断るって。だから行けないよ」


 霧彌が迷いながらもそう言った瞬間、見えていた愛らしい手がじわりと滲むように赤黒くなり、どろっと形をその失った。


「……残念、先を越されたか」


 彼女のものではない、なにかざりざりとノイズが混じったような声がそう呟き——————それきり、なにも聞こえなくなる。手も消えて、ふぅと霧の濃度が軽くなっていった。


「……」


 これはもしかすると、危機一髪だったのかもしれない。

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恋心と危機一髪(『霧向こうのキリヤ君』②) 喜楽寛々斎 @kankansai

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