善意

明日出木琴堂

善意

「クロちゃん。おはよう。今日も寒いねぇ~。」

「…んぁ?!よお、ばあさんか。おはよう。寒い中、また、宝探しか?」

「あんたこそ、お馬さんかね。」

「…。当たったら美味いもんでも買って帰るよ。」

「そう言えば、この前、スーツ姿の幸子ちゃん見かけたよ。当たったら幸子ちゃんにもお土産忘れずにな。」

「…ん?!じゃあ〜行くわ。」ばあさん、今、幸子っつたか…。本当、親も嫌味な名前つけやがったもんだ…。アイツのどこが幸せな子なんだよ…。




「ピッ、ピー。」「ピッ、ピー。」

紅葉が美しい山間部の温泉の風景を映しているテレビ画面。その上部にテロップが流れる。

「番組の途中ではございますが、緊急速報です。少し前に東武スカイツリーライン内で無差別通り魔事件が発生したもようです。負傷者が出ているもようです。繰り返します…。」

自然の中の温泉の映像は霧消し、若い男性アナウンサーが顔を引つらせながら早口で同じ文言を繰り返す画像に変わる。

日曜日の朝ののほほんとした、決して集中して見る必要のない生放送の情報番組は、一瞬にして注目すべき緊迫した緊急特別報道番組に変更された。

のんびり気分の日曜日の始まりだったが、嫌でも事件の重大さをおもんばかってしまう。





テレビ放送された緊急報道は街角の大型スクリーンやインターネットにも同時に映し出され、そしてそれは瞬時にして、ネット上の人々の手によってあらゆる方向へ拡散される事になる。


≪日曜の朝から重大事件発生。≫

≪のんびりさせてえや!≫

≪通り魔、こえぇぇぇぇぇぇぇ~。≫

≪今日は出歩かないに限る。≫

≪犯人は捕まったの?≫

≪怪我人は?≫

≪犯人ってどんな奴だ?≫

≪電車内はめっちゃパニックだろうなぁ…。≫

≪死者出たの?≫

≪犯人の画像ヨロ。≫

≪何人殺られた?≫

≪こわくっておちおち電車にも乗れやしないよォ~。≫

≪情報よろしく。≫

≪今日の外出やめる…。≫


瞬く間にネット上に様々な書き込みが乱立する。

そこには、知らず知らずのうちに仕切り屋、リポーター、解説者、お囃子、ボケ・ツッコミ、合の手…、等々の様々な役割を担っている顔無き老若男女たちが善意を持って主張を繰り広げる。

ただ、この今の段階では、大事件に対する情報量が決定的に乏しい。故に書き込まれる内容は、興味と感想程度に留まっていた。





「続報です。犯人とおぼしき人物は同乗していた乗客数名により取り押さえられ、東武スカイツリーラインの浅草駅で警察官に逮捕された模様…。」

テレビでは、先程の若い男性アナウンサーが通り魔事件の第二報を慌てふためいた様子で語っている。

このビッグニュースを他局よりも一歩でも早く、漏れなく伝えようとする青年アナウンサーの切羽詰まった心情が手に取るように伺える映像が流れている。


≪早期逮捕おめ。≫

≪即時解決。これにて一件落着~。≫

≪乗客の皆さん、良い仕事してますなぁ〜。≫

≪怪我人は?≫

さらせ。さらせ。≫

≪現場映像希望。≫

≪そんなことしたらアカウント消されるよ。≫

≪これで出かけられるわ。≫


新しい情報が出ると、待ってました!とばかりにネット上では無数の書き込みが行われる。




テレビではやっと報道クルーが現場に到着出来たのか、パニック状態の東武スカイツリーライン浅草駅周辺の画像を映し出した。

そのパニック状態の人混みの中、犯人とおぼしき人物が連行されている映像が飛び込んできた。

新たなる情報を得たネット上は、水を得た魚の如くお祭り騒ぎが開始される。


≪あのスーツおやじが犯人?≫

≪極悪人。≫

≪いたって普通じゃん。≫

≪日曜日にスーツって、友達いない系。≫

≪ワーカーホリック。≫

≪社畜ちゃん。≫

≪ブラック企業戦士。≫

≪鬱憤晴らしでやったんか?≫

≪パワハラ上司への当てつけ。≫

≪鬱病カッ!≫

≪出勤まえにひと仕事…てかっ。≫

≪今日、日曜だけど…。≫

≪スカイツリーに行く前にひと仕事…。≫

≪それ意味不明。≫

≪普通に見える人が一番こわいよねぇ…。≫

≪悪い奴ほど善人面。≫

≪同僚かも…。≫

≪マジで?!≫

≪こわいこわい。≫


ネット上の無責任な書き込みはよそに、テレビ側では掴んだ視聴者を離さないために新しい情報をゴリ押し、目白押しで出してくる。





「現場では数名の怪我人が出ている模様で…。えーっと…、負傷が6名…、命に…、別状はないようです…。えっ…。えっ…。1名が意識不明の重体…。」

現場から送られて来る不明瞭、不鮮明、ただ速さのみに重きを置いている情報に対して若い男性のアナウンサーは、言葉を慎重に選びながら公共の電波に乗せる事に必死に努めていた。

その言葉には、視聴者の気分を害さないためにストレートな表現は避け、視聴者の不安を無意味に掻き立て無いように、視聴者の好奇心を無闇に煽らないように、細心の注意を払っているのがよく分かった。

しかしその半面、その万全を期する慎重さは、現場の凄惨さを視聴者に容易に想像させていた。


次の情報が来るまでの間を番組内は、この日、この場にいたゲスト出演者のつまらない的外れなトークで埋めていく。

元々、日曜日の朝のバラエティー番組に呼ばれているゲスト出演者である、重大事件に対応出来るだけのスキルなど持ち合わせていない。

故に、視聴者もネット民も、そんなみえみえの尺を埋めるためだけの粗末な話には耳を貸すことはない。

特にネット民に於いては、この虚無な時間を使って犯行動機に対して独自的、独創的な考察(ボケ合戦・妄想合戦)をネット上に数多あまた繰り広げるのであった。


≪たぶん…、朝から別れ話でキレた…、上での犯行。≫

≪休みの予定に仕事が入ってむしゃくしゃ。≫

≪母さんと喧嘩。≫

≪仕事に失敗!!!≫

≪取引先に謝罪へ向かう途中で…。≫

≪介護疲れじゃない?≫

≪使い込みばれて自暴自棄。≫

≪離婚調停中。親権問題に養育費で四苦八苦…。≫

≪人生に疲れ果てて自殺願望。自殺の道ずれ?!≫

≪パワハラ・モラハラ・セクハラ上司への当てつけ。≫

≪なんもかんもやんなった症候群。≫

≪ストレス発散。≫

≪ファイト一発!!!≫

≪ギャンブル・マチ金・取り立て屋の三重苦。≫

≪被害妄想中年男の暴走。≫

≪サイコパス。≫

≪何でもいいから有名になりたい。承認欲求強すぎぃ~。≫


そんな折、番組は新たなる情報を提供した。





捜査本部の置かれた浅草警察署の記者会見映像を生中継で放送した。

「ええ…。被疑者は都内在住の会社員、百々多寿志ももたひさし、43歳。凶行は西新井駅から浅草線に向かう20分弱の間に行われたもよう。軽傷者6名。うち、女性4名、男性2名。凶器はカッターナイフ。浅い切り傷程度で全員命には別状ありません。」

警察署の報道官の低くよく通る声の発表内容は、放送を見ている全ての視聴者に安堵を与えた。会見場内のホッとした雰囲気が画面から漏れ溢れる。

「重傷者1名。凶器は刃渡り20センチの出刃包丁。腹部を数ヶ所刺されており、一つは心臓近くを通り、肺に穴を開けている状態。只今、警察病院へ救急搬送し…。」


突如として、警察発表が中断される。


メモ書きの伝言が浅草警察署の報道官に渡される。浅草警察署の報道官は寸時メモに目を通すと、目をつぶって発表を再開し出す。

「重傷で警察病院へ救急搬送されていた被害者の方は手当の甲斐なく…、先程亡くなられたもよう…。お悔やみを申し上げます…。」

浅草警察署の報道官の低くよく通る声を押し殺しての発表内容は、放送を見ている全ての視聴者に忸怩じくじたる思いを与えた。

会見場にいる事件記者たちが騒然となる。会見場内に緊張が走る。

「お亡くなりになられた方は、持ち物より、都内足立区在住。お名前、黒川遼一さん、年齢42歳、男性です。」

記者たちの聞き逃さないという姿勢が画面からひしひしと伝わってくる。

「百々多寿志の犯行動機は今のところ不明。取り調べに対して黙秘を続けている状況…。」


ここでテレビ画面が浅草警察署の中継からスタジオに切り替わる。

一瞬遅れてネット上での投稿もハイペースで再開された。実名報道で書き込みが色めき出す。


≪もしかしてだけど…、被害者の黒川遼一って竹ノ塚の黒川遼一か?≫

≪誰?誰?≫

≪お知り合い?≫

≪竹ノ塚の不良オヤジだよねー。≫

≪近所じゃあ有名人。≫

≪有名人は言い過ぎ。奇人変人。≫

≪竹ノ塚駅前でよく騒いでる。≫

≪今時、昭和のチンピラ風。≫

≪とにかく声がでかいんだよねー。≫

≪取り立て屋だとか…。薬の売人だとか…。とか、言う噂。≫

≪見た目からヤバい…。≫

≪人も殺してそう…。≫

≪社会のゴミが一つ消滅。ナイス百々多。≫

≪グッジョブ!!!≫


ネット上では被害者を見知る輩から、印象だけの黒川遼一に対する不真面目で不謹慎、無責任で好き勝手な書き込みが多く展開されることになった。




第一報を報道したテレビ番組では、事件の新しい進展が無くなると、その場に偶然いただけのゲスト出演者が何やら当たらず触らずなコメントを繰り返していた。

膠着状態に陥った緊急特番は、本来の情報バラエティー番組の司会を務めているお笑い芸人たちに進行をバトンタッチする。

しかし、急に進行を元へ戻された彼らも、緊急特番による中断からペースを戻せない様子であった。

番組終了時間までしどろもどろ進行で、タレントとしての力量不足を露呈してしまうことになった。彼らにとっても最悪の日曜日になってしまった。


≪いつも偉そうな事を言ってる割には、想定外の事が起こるとアドリブ利かないなぁ…。≫

≪五月蝿いだけ。≫

≪台本ありき。フリートークは無理。≫

≪昔から面白くなかったけど、本当に面白味がない。≫

≪お笑い芸人がMCなんて…。≫

≪全ては事務所のお力。≫


ネット民の書き込みは、容赦なく木偶の坊な司会を務めるお笑い芸人たちにも襲いかかる。

思わぬ状況から毒にも薬にもならない長いことやっているだけのお笑い芸人たちもとばっちりを受ける破目になってしまった。





翌日もテレビでは早朝から日曜日の通り魔事件で持ち切りだった。

朝刊の記事をわざわざおさらいしながら番組を進めていく月曜朝のモーニングショー。

昨日の今日で然程目新しい情報が無いためか、時間を持たせるために、話の間にコメンテーターが終始コメントを差し込んでくる。

しかし、24時間という途方もない時間はネット上に、事件のあった電車内の状況、容疑者や被害者の行動や詳細まで、真偽不明な書き込みを際限なく書き連ねさせた。


≪電車が西新井駅を出発した途端、スーツ姿のおじさんが急に座ってたいかついおじさんに倒れ込んだんだよ。≫

≪つまづいた様に見えた。≫

≪見てたの?≫

≪電車が揺れでよろけたのかなぁ…、って思ってた。≫

≪それでそれで。詳細希望。≫

≪しばらくしたら乗客が別の車両に走り出してて…。≫

≪恐怖!!パニック映画じゃん。≫

≪うちも一緒になって逃げた。≫

≪そんなオチ!!!≫

≪刺されたヤツ、偉そうに座ってたぜ。≫

≪競馬新聞片手に思いっ切り股、おっぴろげて…。≫

≪ろくなもんじゃねぇ。≫

≪座れない腹いせから刺したとか…。≫

≪あの電車そんな混んでなかったし。≫

≪スーツのおっさんのいたら、グラサンおっさんの胸に包丁刺さってた。≫

≪リアルがち!!!≫

≪見たの?トラウマもんじゃん。≫

≪グロ。≫

≪おちゃん、ピクピク痙攣してた。≫

≪断末魔…。≫

≪座席、血だらけ。床、血の海。≫

≪地獄絵図…。≫

≪血生臭そう…。≫

≪読んでるだけで吐きそう…。≫


何故か、被害者の黒川遼一に対しては、被害者を気の毒に思う書き込みよりも被害者を中傷するような内容が多かった。


≪スーツのおっちゃん、小っちゃいカッターナイフ振り回してた。≫

≪猫パンチぽかったなぁ…。≫

≪速攻、取り押さえられてた(笑)≫

≪百々多っうおやじ、結構エリートだよ。≫

≪マジで?!≫

≪○○グループの本社勤務。≫

≪マジっすか?!≫

≪リアル情報???≫

≪Eコマースのあれか?≫

≪社内公用語が英語のあっこかいな…。英語ペラペラの殺人犯やん…。≫

≪インテリがなして無差別殺人なんぞ…?≫

≪横領かっ!≫

≪ストレス多そう…。発散したのかねぇ…。≫

≪打たれ弱かったんじゃねぇ。≫

≪家族が大変。≫

≪天涯孤独。独身。婚姻歴ナシ。交際歴ナシ。≫

≪マジでマジで…?≫

≪童貞?≫

≪わちゃあ~。ボッチの闇中年。≫

≪根が深そう…。≫

≪社内イジメ。≫

≪独身中年男の末路…。≫

≪俺もだけどね。 www≫


通り魔事件の犯人に百々多容疑者に対してはネット内のにわか私立探偵たちの拠出不明な身辺調査内容が多く投稿された。




朝刊紙上には百々多容疑者の詳細、取り調べの内容報告などが掲載されていた。

が…、ネット上に書き込まれた以上には、事件発生時の状況、容疑者の詳細に関して新しい情報は無く、ネットの書き込みへの信憑性が上がっただけであった。


ただ、警察発表の取り調べの内容報告だけには注目する点があった。

それは、容疑者、百々多寿志の言動におかしな点が多く、事件を起した当時、心神耗弱状態であったのではないか?という疑念が取り調べ官の間で出ているという点であった。

容疑者逮捕時の検査では、アルコールや薬物等による心身に対する影響は見当たらなかったという。そうなると、精神鑑定の可能性も視野に入れながら今後の取り調べを行うという警察発表の内容であった。

これにより、百々多容疑者の責任能力が今後の争点となるだろうと、記事は締めくくられていた。


≪基地外に刃物。≫

≪確かに、会社じゃあ〜ボッチだったけど…。≫

≪えっ?!同僚?≫

≪孤独中年サラリーマン。積年のストレス。上司からのパワハラ。社内ボッチの凶行。≫

≪火サスの題名かっ!≫

≪単なる精神異常者だって。≫

≪落ちこぼれ中年。≫

≪いやいや。必殺仕事人でしょう。≫

≪金星。≫

≪ごっつあんです。≫

≪大物キラー。≫

≪キラ様~。≫

≪頭イカれてても社会クズを抹殺。≫

≪売人に制裁を!≫

≪己の身を呈して、我々の生活を守ってくれた救世主。≫

≪メシア様~。≫

≪一つ、人世の生き血をすすり。二つ、不埒な悪行三昧。三つ、醜い浮世の鬼を退治てくれよ百々多郎〜。≫

上手うまいね。上手うまいね。上手じょうずだねぇ。≫

≪減刑もの。≫

≪恩赦。恩赦。≫

≪会社では貢献できなかったけど、社会には貢献できた。≫

≪座布団一枚やっとくれ。≫





時間の経過とともにネット上では、黒川遼一被害者の悪しきイメージがひとり歩きしていた。

何故故なぜゆえか、黒川遼一被害者がネット民に叩かれている。

事件当初のネット上での黒川遼一被害者に対する書き込みの印象からか、まるで「黒川遼一は殺されて当たり前。」的な風潮が、この時点では蔓延はびこっていた。


≪これで竹ノ塚も静かになりますなぁ〜。≫

≪被害者の人、酔っ払ってよく、竹ノ塚駅前で怒鳴ってたわよねぇ…。≫

≪見たことある。見たことある。≫

≪なに怒鳴ってっかよく分からんかったけど…。≫

≪どこぞの会社の悪口言ってたよ。≫

≪あの会社の商品は買うな!とか、あの会社は人殺し企業だ!とか。≫

≪それって、○○グループのことじゃないの?≫

≪百々多容疑者と接点見っけ。取ったどぉぉぉぉぉぉ(笑)≫

≪違うと思う。単なるアル中の戯言。≫

≪呂律も回ってなかったし…。≫

≪はぐれチンピラ。社会派。≫

≪テレ☆☆の刑事ドラマかっ!≫

≪くわえタバコにサングラス。スカジャン、ダボシャツ…、腹巻き…、昭和の香り…。香ばしいぃぃぃぃぃ。≫

≪絶滅危惧種が絶滅。≫

≪早口言葉かっ!≫


この日の午後からは、テレビのワイドショーがこぞって容疑者と被害者の周辺の取材内容を生中継で流し始める。

どの局も何故だか初めは、百々多容疑者の住む町内での聞き込み中継の映像であった。


「え~っ。こちらが百々多容疑者の住んでいた集合住宅です。」色黒のスポーツマン風な中年男性のリポーターが、視聴者から不躾にとられない様に体裁をよそおいながら画面を横切っていく。テレビの画面にはモザイクがかけられた建物が映し出されている。

リポーターは、はばかることなく集合住宅の敷地内に進入し、遠慮なく手当たり次第に容疑者の住んでいた集合住宅の部屋の周辺の呼び鈴を押していく。その中の一つが反応する。

「…はい。」女性の声。

「テレビ○○の△△と申します。少しお時間、大丈夫でしょうか?」

薄っぺらい扉が軋みながら開く。

「昨日の東武スカイツリーライン通り魔事件についてお伺いしています。こちらに住んでいた百々多容疑者はどんな人物でしたか?」開いた扉の隙間にマイクを突っ込み、強引にインタビューを開始する。

敢えて顔を映さぬようにされ、音声を変えられた百々多容疑者と同じ集合住宅に住まう中年とおぼしき女性が語り出す。

「そうねぇ…。ごくごく、普通の方でしたよ。挨拶をすればちゃんと返してくれるような。」

「普段から変な感じはありましたか?」色黒のリポーターは中年とおぼしき女性の顔を覗き込む様にして、意図を持って誘導するような質問を投げかける。

「そうねぇ…。もの静かで、問題なんか起したことない人よ。」しかし、中年とおぼしき女性の口からは期待外れの答えが返ってきただけだった。


ここで中継は一旦切られスタジオでのトークが挟まれた。


5分程度の内容の無いスタジオトークの後、次の中継場所は近所のコンビニとなった。

許可を取っているのかいないのか知る由も無く、色黒の中年男性リポーターはやけに真っ白な歯を見せびらかせながらコンビニの店内にずかずかと入って行く。そしてレジに立つ若い女性のコンビニの店員に遠慮無しにマイクを向ける。

「テレビ○○の△△と申します。」リポーターは先程と同じ文言を並べ立て百々多容疑者への質問に入る。

が…。

「買い物終わりにはいつも『ありがとう』って言ってくれる人でしたよ。」と、レジに立つ若い女性の店員は眩しい程の笑顔で見当違いの答えを返してきた。

「いつも何を買っていましたか?」期待した答えとあまりにもかけ離れていたせいか、色黒のリポーターも意味不明な質問をしてしまう。

「お弁当とチューハイですね。のり弁とグレープフルーツサワーがお気に入りでしたよ。」笑顔の店員の答えも今回も番組の意図とは的が大きく外れていた。


この中継はネット民にも新たなる印象を与えていた。


≪百々多容疑者は絶対、多重人格者。≫

≪ビリーミリガンかっ!≫

≪善人の撹乱。≫

≪闇に隠れて生きる…。必殺仕事人だよ。≫

≪ずっと印象操作。某国諜報員かも。≫

≪突発的衝動からの…。≫

≪人は見かけによらぬもの…。≫





次は同様に、被害者の黒川遼一の周辺もリポートされる。この局ではこちらはショートヘアーで小太りの中年女性リポーターが担当していた。

「ここが被害に合われた黒川遼一さんが住まれていたアパートです。ご近所の方にお話しを伺いましょう。」

今回は事前に約束していたのか、迷いなく目当ての扉の前に立ち、躊躇なく呼び鈴を押した。

「はい。」瞬く間に返事があり、木目の柄のダイノックシートが貼られたドアが開く。

「テレビ○○の◇◇でございます。2~3、ご質問してよろしいでしょうか?」

「ええ。」同じアパートに住む中年男性が質問に応える。腹の出た体に季節外れのヨレヨレのTシャツにシミだらけのスエットという出で立ちだが、テレビには顔は映らないよう配慮されている。

「被害に合われた黒川さんはどういう方でしたでしょうか?」

「声の大きい人だったよ。顔を合わせたら挨拶をする程度の付き合いしかなったけどね。」

「その時の印象は?」

「強面だけど気さくに挨拶を返してくれる元気な人だったよ。」

これまた番組の期待した返答ではなかった。もこの場面では被害者の黒川遼一の汚点となる部分を聞き出したかったに違いない。

「他には…。」小太りの中年女性のリポーターは気を取り直して再度探りを入れる。

「そうだね…。挨拶してもたま〜に、無視される事はあったよ。」

「それは…、なぜ?」面白そうなネタに答えに期待する小太りの中年女性のリポーター。

「多分…、あの人、耳が悪かったんじゃないかなぁ…。」

「そ、そうですか…。」小太りの中年女性のリポーターは、あまりにも肩透かしの返答にインタビューを上手く収める事もできない。

「は、はい。そ、それでは後ほど、別の場所からリポートをお願いします。」話を締めくくれないリポーターに代わり、スタジオの司会者がかなり強引にインタビューを終わらせた。





十数分後、先ほどの小太りの中年女性のリポーターは別の場所から中継を始めた。

「今度は竹ノ塚駅前で被害者の黒川さんについてお聞きしたいと思います。」

お昼過ぎの番組という事もあり、駅前を行き交う人はまばらな中、リポーターは目に入った一人の老婆に何の気無しに話しかける。

「こんにちは。テレビ○○の△△と申します。今、お時間よろしいでしょうか?」

「私かい?大丈夫だけど、なんだい?」

「先日、東武スカイツリーラインで起こった通り魔事件はご存知でしょうか?」

「勿論さ。」

「あの時に犠牲になられた黒川さん…。」

「クロちゃんの事、聞きたいのかい?」レポーターの話しが終わらないうちに、老婆が話をもぎ取った。

「ええ。ご存知なのでしょうか?」期待に胸膨らませる小太りの中年女性のリポーター。

「ご存知もなにも。一番親しかったと思うよ。あの朝もここで見送ったんだよ。」

「そうでしたか。この度は、残念な事に…。」

「本当に残念だよ。あんないい男の命を奪いやがって。本当に許せないよ。」

「黒川さんはどんな人物でしたか?」

「クロちゃんかい…。妹を残して先立ったのは無念だっただろうねぇ…。」

「黒川さんには妹さんが…。」

「体の悪い妹がいるんだよ…。」

「それは無念でしょうね。」

「クロちゃん自身も障害持ってたし…。」

「えっ!」

「見た目があれだからさ、かなり損してたのさ。」

「そうだったんですね。」

「そこの呑み屋のおやじに聞いてごらん。前にあそこでやくざもんが暴れた事があってさ。それを止めたのが居合わせたクロちゃんだったんだよ。」

「そうなんですね。」

「その時に大怪我負っちゃって…。クロちゃん、目や耳や脳に障害が残っちゃったんだよ。」

「だからいつもサングラスを…。」

「あれは昔から…。」

「はあ…。」

「でも、あの風貌だからこそ良かった事もあった。」

「どういう事でしょうか?」

「幸子ちゃん…、クロちゃんの妹さん。」

「はい。」

「前に変な男につきまとわれててさ…。」

「それで…。」

「幸子ちゃん、結構、器量良しの美人さんなんだよ。クロちゃんと同じでスラ〜っとした長身だし…。」

「ええ。」

「スーツ姿も颯爽としててさ…。いつでもきれいな手袋して…。おしゃれさんなんだよ。」

「はぁ…。」

「それで、それっぽい奴、見かけたから…。」

「はいはい。」

「私、言ってやったのさ『あの娘の兄貴、ヤバい奴なんだよ。』って…。」

「それで。」

「そしたら幸子ちゃんの前にに二度と現れなくなったんだよ。」

「へぇ…。」

「見た目だけなら誰でも尻尾巻いて逃げてくよ。」

「そんな事があったんですね。」

「兄妹二人、肩寄せ合って、頑張って生きてただけなのにねぇ…。」

ここで映像は静まり返えったスタジオに切り替わる。

「犠牲になられた黒川さんは、街の方々から愛されていた人物だったんですね。」思いの他、上手く話をまとめられた司会者は「これでもかッ。」と、言わんばかりのドヤ顔でインタビューを切り上げた。


≪被害者の黒川さんの御冥福をお祈りいたします。≫

≪街のダニじゃないニダ。≫

≪誰だ、がせネタ書き込んだの。≫

≪人は見た目で判断しちゃいけない。昔から言われてる。≫

≪黒川幸子さんの画像よろしく。≫

≪それは個人情報だろう。≫

≪もしかして、ストーカー。ワナワナ。≫

≪違うから。興味本位だから。≫

≪噓くせぇ~。www≫

≪お前がつきまとい犯?≫

≪異議あり!≫


ネット上では、被害者の黒川遼一に対する批判的で誹謗中傷な書き込みから180度変わった意見が投稿されるようになった。






東武スカイツリーライン通り魔事件発生から一週間後に発刊された週刊誌において、百々多寿志容疑者の特集記事が掲載される。

【都内の有名私立大学を卒業後、教師を目指し就職活動をするも叶わず、進学塾の非常勤講師として10年程勤める。その後、○○グループに再就職。事件を起こす前までは、○○グループ本社、総務部人事課の係長代理に就いていた。

勤務態度はすこぶる良好であった。無遅刻無欠勤。急な追加業務や残業にも柔軟に仕事に対応していた。

しかしながら、半年程前より、百々多寿志容疑者に変化が現れ始める。同僚の話では「何か悩み事があるように見受けられた。」とのことであった。

百々多寿志容疑者のこれまでになかった服装の乱れ、髪型の乱れ、体臭、…等々、身なりに気配りが無くなる。

体調の不良からの病欠、細かな仕事のミス、遅刻早退、…等々、今までに無かったあからさまな行動の変化。


また、違う同僚の話では、ここ数か月、五反田駅周辺の歓楽街で百々多容疑者の姿ををしばしば見かけたことがあったようだ。

百々多寿志容疑者は未婚であり、成人男性が欲求を満足させる行動と考えれば、然程不可解な点はない。騒ぎ立てる程のものでもないが、これも百々多容疑者の一連の変化の一つである事は間違いない。


依然として取り調べは進んでおらず、百々多寿志容疑者の犯行の動機に繋がるようなものに見当はついていない。

この後も百々多寿志の犯行の動機に繋がるものを追い求め取材を敢行する。】と、取材記事は締め括られていた。


≪週刊誌にも目新しい情報、ナッシング。≫

≪百々多のゴシップ希望。≫

≪五反田の風俗店に入り浸り。≫

≪嬢に貢ぐ君。≫

≪もしかして…、会社の金に手をつけた≫

≪横領かっ!≫

≪…んでもって、嬢に逃げられ凶行。≫

≪泣き面に蜂。チクッと。≫

≪ありそう。ありそう。≫

≪どこまでが事実なの?≫

≪全てフェイク。≫

≪半々。≫

≪容疑者の見た目だと…、せいぜい小口経費の精算のちょろまかし…。≫

≪小銭を貯めて風俗へ。泣けるねぇ…。≫

≪ちりツモ。≫

≪無遅刻、無欠勤、残業OK、コツコツ、コツコツ努力の男。≫

≪…で、動機は?≫

≪店から出禁食らった。≫

≪マナー違反かっ!≫

≪ルール厳守。≫

≪一発、レッドカード。≫

≪それじゃあ〜ヤケになるかも。 www≫


ネット上では外野による百々多容疑者に対する好き勝手な妄想合戦が繰り広げられていた。





しかし、最初こそ派手な大事件だったが、遅々として進展せず、新しい情報が少なく、スキャンダラスな話題性に乏しい事件と判断した各メディアは、早々に鎮静化していった。

それに応じるかのようにネット上でも書き込み件数が一気に激減していくった。

そんな状況が1か月も続くとこの通り魔事件自体がメディアからも大衆からも忘れ去られていた…。






話題に上ることがなくなったそんな中、新聞に小さく孤独死を伝える記事が掲載された。場所は竹ノ塚にあるアパートだった…。





新聞に孤独死の記事が掲載されたその日から、ネット上で通り魔事件の書き込みが再度動き出した。


≪竹ノ塚のアパートの孤独死、黒川遼一の妹さん。≫

≪スクープ!!!≫

≪後追いか?≫

≪兄をたずねて…、三途の川。≫

≪母をたずねて三千里みたいやん。≫

≪黒川の妹、実は薬中。コレ実話。≫

≪独占スクープ!!!≫

≪黒川の妹って普通のOLだろ。≫

≪それはないわ。≫

≪そんな風には見えなかったなぁ…。≫

≪いつもぼーっとしてたよ。≫

≪やっぱ、黒川って薬の売人だったんだよ。≫

≪妹の死因はドラッグのオーバードーズらしい。≫

≪どこ筋の情報?≫

≪薬物乱用。≫

≪人間、止めますか?覚醒剤、止めますか? 覚醒剤、止めません。人間、止めます。≫

≪国からアニキの見舞金出たから、薬を買い込み。≫

≪快楽に溺れまくり。≫

≪やっぱ、ろくでもない兄妹。≫

≪また一つ竹ノ塚がきれいになりましたな。≫


黒川遼一の妹、幸子が遺体でみつかった。

アパートの近隣の住人から「異臭がする。」との連絡を受け、警察と消防が出動。

部屋に入ってみると、一部腐敗した女性の遺体を発見した。

身元を確認したところ、この部屋に住む、黒川幸子さんと断定。

部屋には争った形跡も無く、何かを盗まれたような形跡も無く、自然死と断定される。

司法解剖の結果、死因は大量の薬物摂取による心停止と断定。

警察の捜査、分析で事件性は見つからなかったため、孤独死として処理された。

身寄りの無い黒川幸子は部屋にあった黒川遼一の骨壷と共にさっさと無縁仏として葬られ、住んでいた部屋も専門業者の手によってさっさと片付けられた。


ありがちな事故のせいか、この件でネットが賑やかになったのはほんの一瞬のことであった。

だが、黒川幸子の死後、ひと月程して、一つの書き込みが波紋を広げることになる。この投稿が発端となって、またネットがにわかに騒がしくなる。




≪黒川遼一の死亡保険金、5000万円。黒川の妹は生前、全額引き出している。≫




匿名のこの書き込みが、沈静化していたネット民の心にに火をつけた。

そして事態を急変させた。


いの一番にこの書き込みを見つけたネット民がネット上に拡散し始める。

その次にこの書き込みに目を付けたのがタブロイドというたぐいの即売誌だった。センセーショナルな事件報道やゴシップ報道に力を入れた大衆誌であるタブロイド。

売上至上主義だけのこのメディアは、事実確認などすることなく虚実入り乱れた内容を面白可笑しく無責任に記事にして提供するだけだった。

だが、このコンビニや駅の売店で販売されるタブロイドは、然程ネットを使わない層にまで興味を持たせることになる。


【あの通り魔事件の被害者の妹!!保険金目当てで殺されていた!!!】


タブロイドのキャッチーな見出しは、見事に大衆の心を鷲掴みにした。

ネット上にも同様の書き込みが多く出現した。


≪警察発表は事件性のない孤独死。≫

≪でも、彼女は5000万円持っていた。≫

≪事件性が見当たらない。= 現場には大金が無かった。≫

≪謎が謎呼ぶ殺人事件〜♪♪♪≫

≪じっちゃんの名に懸けて…。≫

≪誰かに盗まれた。≫

≪誰かに殺された。≫

≪真実はいつも一つ!!!≫

≪大金の行方は?≫

≪江戸っ子は宵越しの金は持たねぇ~。≫

≪全て薬と消えた…。≫

≪あり得るあり得る。≫

≪ダークサイドの手に落ちた…。≫

≪5000万円で悪魔に魂売った。≫

≪寄付してたりして…。≫

≪それ意味不明。≫

≪泡銭…。こわいこわい。≫


それと時を同じくして、竹ノ塚では有名なゴミ屋敷から出火する。

業火は燃える物が山とあったゴミ屋敷を一瞬にして焼き尽くした。

そして焼跡からは1名の遺体が発見された。

その際、大量の焼けた一万円札が発見された…。

この火災は、テレビのニュース番組で取り上げられた。火災によって亡くなった被害者の映像まで報道された。

なぜ?準備良く、亡くなった被害者の映像までがあったのか?まるで、その人物が被害に合うことが分かっていたかのように…。

それは偶然にも、火災の被害者が先日の東武スカイツリーラインでの通り魔事件のインタビューに応えていたからだった。

そう。黒川遼一や妹の幸子の事を詳しげに語っていた老婆が火事の被害者だったのだ。全焼したゴミ屋敷も彼女が長年にわたり住まう家だった。

この事でまたネット上では、真偽不明な書き込みが我先にと乱立することになる。


≪黒川幸子さんの死とゴミ屋敷のばあさんの死は、関係あるの?≫

≪どう考えても関係あるでしょう。≫

≪そのこころは?≫

≪消えた大金と燃えた大金。≫

≪ばあさんが殺ったのか?≫

≪ばあさんがドラッグ使って?無理スジじゃねぇ~。≫

≪ばあさんは悪の組織の元締め。≫

≪ショッカー軍団。≫

≪売人の親玉。≫

≪ばあさんがショッカーの首領?!≫

≪ばあさん、ボケボケだったよ。≫

≪それも演技かも…。≫

≪アカデミー主演女優賞もんだね。≫

≪こわいこわい。≫




ここまでの経緯いきさつの元凶となる東武スカイツリーライン通り魔事件を起した百々多寿志容疑者は、逮捕、簡易鑑定が行われたが、精神耗弱の判断がつかなかった。

そのため、鑑定勾留が現在も続いていた。百々多容疑者の相変わらず意味不明な事を口走りる態度は現在も変わっていなかった。


『あと、もう少しの辛抱だ…。』

『絶対に誰にも知られるわけにはいかない…。』

『精神鑑定を受け、責任能力無しを勝取る…。』

『病院には入れられるだろう…。』

『ただ、極刑は免れるはずだ…。』

『私はあの女性ひとを助けるなければならない…。』

『私のせいで人生を狂わされたあの女性ひとを…。』

私には私の全てをしてでも助けなければならない女性ひとがいる。

その女性ひとの名は黒川幸子さん。

私と彼女との出会いは、私が○○グループの総務部人事課に在籍していた頃だった。

もう数年前になる。上司より、当社が新しく始めるモバイル事業、その携帯電話販売のフラッグショップとなる銀座店のスタッフの面接を私が仰せづかった。

私にとっては、この会社に再就職して初めての大任だった。

そして、その希望者の中に黒川幸子さんはいた。

彼女は背が高く、痩せ型だが、女性らしい体つきで顔も整っていてモデルのようだった。

私は他数名とともに、直ぐに彼女の採用を決めた。


それから数カ月して、上司から「会社がお得意様を招待する船上パーティーを開く。手伝ってもらえる女子社員を何名か用意してくれ。」と、命を受けた。

私はこの会社に入ってまだまだ日が浅かった。気軽に物事を頼めるような女子社員もよくは知らない。

その時に、前に面接した携帯電話販売店の数名の女性スタッフの事を思い出した。

私は銀座店に電話をし、要件を伝えた。しかし、あの時面接採用した女性スタッフは黒川幸子さんしか残ってはいなかった。

彼女は私の話を受け、私のためならと快くお願いをきいてくれた。

とりあえず1名だけだったが、私もどうにかこうにか上司への面目が立った。


バタバタと繁忙な日々を過ごす中、船上パーティーのことなどはすっかりと忘れていた。ただ、黒川幸子さんにお礼をしなくては…、という気持ちだけは忘れないでいた。

それから数カ月して、黒川幸子さんにお礼を言っておこうと銀座店に寄った。しかし、黒川幸子さんはもう退社していた。それも、手伝ってもらった船上パーティーの後、直ぐであった。

私はショックを受けた。私が初めて面接し、採用した社員がいともあっさりと全員辞めていた事に自分自身の見る目の無さを痛感した。

「こんなことで人事課なんてやっていけるのだろうか…。」


しかし、ある時、意図せず本社女子社員たちの変な会話を耳にする事になる。それは女子社員たちの溜まり場である給湯室での井戸端会議だった。

「また、あの、お手伝いで結構辞めたらしいよ…。」

「接待要員…。やだねぇ~。」

「本当、ろくでもないパーティーだね。」

「そんな事までして、大手取引先や政治家に気に入られたいのかしらねぇ…。」

「うちの会社って、でっかいけど、まだ新興企業って位置づけらしいし…。」

「ちょっとでもパイプ太くしたいんじゃないの…。」

「そうしてもらわないと私たちも困るもんね。」

「寿退社までは頑張ってもらわないと…。」

「まぁ…、体を張って私たちの礎になってくれた犠牲者たちには悪いけど…。」

「あんなトコにのこのこ乗り出して行くのが間違いなのよ。」

「また、新しいピチピチの生贄入れりやぁいいだけだから…。」

「体張って会社のためになる。美談じゃん。」

「女子社員の鏡よねぇ~。」

「アハハハハ。」

「アハハハハ。」

「アハハハハ。」


『どういう事だ…。』

あの船上パーティーで何かあったのか…。

しかし、こんな噂話の裏付けをいちいち聞いて回るわけにもいかない。

自分が上司からの命を受け、黒川幸子さんに依頼したことで黒川幸子さんは辞める事になってしまったのだろうか…。

もしそうなら、私は知らないとは言え、一人の女性の人生を棒に振らせてしまったのかも知れない。

この時ほど自分の浅はかな行動に嫌悪を覚えた事はなかった…。


会社に失望し、他人に不信を覚え、自分に嫌悪した、そんなやりきれない日々を送る中、私は偶然にも外回りの途中で黒川幸子さんと再会した。思わず神が下さったチャンスだと思った。

その時の彼女は、大崎をフラフラと歩いていた。宛もない様子だった。私はなぜか声をかけられ無かった。多分、それは、彼女が私の記憶にある黒川幸子と言う女性の印象からはかけ離れていたせいだと思う。

まるで生気のない幽霊のように歩いていた。

彼女は大崎駅から電車に乗るようだった。私は考え無しに彼女を尾行した。


彼女は五反田で電車を降りた。私は仕事中だが、構わず尾行を続けた。黒川幸子さんは五反田駅の西口出口を出た。

彼女は相変わらず幽霊のように10分程歩くと、小さなビルの裏口に入って行った。そのビルの表にはいかがわしい看板が掲げられていた。

『なぜ?彼女はこんな所に…。』


私は思い切って看板に書かれた電話番号に電話した。

「はい。ピーチ俱楽部五反田店です。」ワンコールで若い元気な男性の声が返ってきた。

「初めてなんだが、さっき入って行った女性はお宅の方かい?」

「少々お待ち下さい。お待たせしました。左様ですが、何かご用でも…。」

「いや。単純にタイプだったもので…。そちらのビルに入って行くのが見えたので…。」

「左様でございましたか。それでどうなさいます。」

「なんにしても、初めてなんだ。どうすればいいのか…。」

「では、指名でよろしいでしょうか?」

「そうして下さい。」

「では,五反田駅東口にあるホテル✕✕へお向かい下さい。」

「ええ。」

「ピーチ俱楽部だとフロントで言っていただければ、係員がお部屋をご案内いたします。」

「はい。」

「お客様の入店の確認後、10分程でスミレさんがお伺いいたします。」

「分かった。」

「それでご料金ですが…。」

支払い方法やプレイのコース、合計金額、禁止事項などの説明を受ける。

私は全てを了承して指定されたホテルへ向かった。指示通りにフロントでピーチ俱楽部と伝えると直ぐに部屋に案内された。ベッド以外何もない狭い部屋だった。

仕方なくベッドに腰掛け10分程待っていると約束通りドアがノックされた。

私はベッドから飛び起き大急ぎでドアを開ける。そこには、さっきより少しだけ化粧をし、さっきより少しだけおしゃれをした黒川幸子さんが立っていた。


しかし、私の顔を見ても彼女は何もリアクションしない。

『これは職業上の態度なのか…?それとももう私を忘れてしまったのか…?』


「中に入って良いですか?」黒川幸子さんは蚊の鳴く様な声で聞いてきた。

「すまない。どうぞ中へ。」

「この度はご指名ありがとうございます。ピーチ俱楽部五反田店のスミレです。」

「こちらこそ。急な呼びたてで申し訳ない。私は…。」

「ニックネームで大丈夫ですよ。」

「そうかい。なら…、私のことは、桃太郎と呼んで下さい。」

「桃太郎さん。分かりました。そのニックネームで登録しますね。」

「よろしくお願いします。」

「では、シャワー浴びて…。」

「いや。そのままでいい。」

「それは衛生規定上できないの…。」

「そういう意味じゃないんだ。服を脱がなくっていいって事だよ。」

「えっ!それはチェンジってことですか?」

「違う違う。今日は何もしなくてもいいってことだよ。」

「それでもご料金はいただくことに…。」

「大丈夫。分かってますよ。」

「じゃあ…、何を?」

「話でもしようよ。」

「桃太郎さんがそれでいいなら…。」


この後、制限時間いっぱい迄、スミレこと、黒川幸子さんと過ごさせてもらった。

会話の感じから彼女は私の事を覚えていないようだった…。

色々と細かい事まで突っ込んで聞きたかったが、彼女にとって私は今日初めて会っただけの客。根掘り葉掘り聞くことは不審に思われる。神が下さった奇跡のようなチャンス、二度と会えなくなることも彼女が消え去ってしまうことも困る。

黒川幸子さんに礼を述べ、また、呼んでいいか確認だけをした。

彼女は営業スマイルで快諾してくれた。





そうして私はこの後も何度となく彼女に会った。

最初のうちは何もしない、何も求めない私に黒川幸子さんは警戒を強めていた。

しかし、指名が10回を超えて来ると彼女も警戒を解き始め出した。

私は『今がチャンスだ。』と、直感し、彼女に対して少し根掘り葉掘り詮索することにしてみた。

「スミレさん、前職は何をしてたの?」

「何でそんなこと聞くの?」質問を質問で返された。警戒しているのだろう。

「スミレさんは会話が上手いし、気が利くし、仕草もしっかりしてる。とても興味があってね…。」

「そうなんだ。前は携帯電話の販売。」やっぱり。間違いなかった。

「何で辞めたの?給料?」

「ん…。記憶が曖昧なんだけどね。なんか仕事ですごく嫌な思いして…、精神を患っちゃったの…。」

「えっ?!覚えていないの?」

「うん。今も薬でどうにか、って感じなんだ。」

「そうだったんだ。」

「精神病じゃ、まともな仕事に就けないでしょ。だからこれ…。」

「そうなんだ。」

私の想像通り…。あの船上パーティーで彼女は精神を患う程の嫌な思いをし、精神を壊した…。

そこで何があったか分からないが、大人の女性が精神を病む様な事が行われたことに間違いはない…。

あの時、私が彼女にお願いしなければこんなことにはなっていなかったはずだ…。

自分の軽はずみな行動が一人の女性の人生を壊してしまった…。

「何でそんな顔してるの?」

スミレこと黒川幸子さんが私の顔を覗き込見ながら聞いてきた。それ程に私は苦々しい顔を晒していたのだろう。

「あたしといるの楽しくない?」

「ごめん。少し違うことをかんがえていた。」

「お仕事とか?」

「うん。そんなとこさ。」

「時間がもったいないから、難しい事は考えちゃダメ。」

「そうだね。」私はこんな屈託の無い優しい女性の輝く未来を奪ってしまったのだ…。また、顔がしかめっ面になりそうだ…。






こんな付き合いが半年も続いた頃、私は黒川幸子さんのもう一つの秘密を知ることとなる。それは心置きなく戯れに会話をしていた時のほんの一言が教えてくれた…。

「スミレさんは結婚とかしないのかい?」

この一言がその場の雰囲気を一気に曇らせた。私は地雷を踏んだようだ。

それまで甲斐甲斐しく動いていた彼女はあっちの方向を見たまま微動だにしなくなる。私も次の会話が出ない。

すると…。

「あたしね。犯罪者なの。薬中なの。」と…。

「えっ。冗談だよね。」

「本当。」

「でも、注射痕なんて…。」

「鼻から吸うから。」

「そ、そうなんだ。」

「嫌な人間でしょ。こんな人間が結婚出来るはずないでしょ。」

「…。止められないのかい…。」

「思い出せない嫌な事があってから、ずっと悪夢を見るの…。怖いの…。」

「…。」

「気が狂いそうになるの…。」

「…。」

「そんな発狂寸前のあたしにこれをくれた人がいて…。誰だったか忘れちゃったけどね。」彼女はハンドバッグから小さなビニール袋に入った白い結晶を取り出した。そしてそれを私の目の前でひらひらと振った。

「これのおかげで正気を保ててる…。本当、廃人だよね。」と、皮肉った様な冷めた笑顔を私に向けた。

彼女が負った傷は、治るどころか彼女を更に傷つけていた。

それもこれも全ての原因、全ての発端は私にある。

私はこの時、決意した『黒川幸子さんをおとしめた全ての者に復讐する。』と…。

それは、私自身を含めてである。




この日を境に私はスミレこと黒川幸子さんに会うことを止めた。

彼女をおとしめた対象に復讐をするための作戦を練るためである。

ひとつは私の働く○○グループ。ひとつは黒川幸子さんに覚醒剤を売っている人間。そしてもうひとつは、黒川幸子さん貶める発端となった私自身。

この三者のうち像がはっきりしないのが、黒川幸子さんに覚醒剤を売っている人間だった。

私は時間の許す限り黒川幸子さんの身辺を調査することにした。

 




そんな折、竹ノ塚で黒川幸子さんを尾行つけていると見知らぬ老婆から急に声をかけられた。

「あんた、幸子ちゃんに何か用かい?」

「えっ!?」

「見てただろう、幸子ちゃんのこと。」

「え、いやぁ…。」

「あの娘のコレ、ヤバい奴なんだよ。」と、老婆は親指を立てながら言った。

私はその言葉を聞いてその場を足早に無言で離れた。


この後、黒川幸子さん住まい周辺では彼女に近づくことは止めた。遠巻きに監視することにした。

数日、竹ノ塚駅で周辺を監視していると、黒川幸子さんに言い寄る見るからに危ない男を見つける事が出来た。

サングラスにスカジャンの猫背で歩く中年男。私の直感は『この男が黒川幸子さんを貶めたもうひとりだ。』と、確信していた。

この日以降、私はこの男を監視することにした。


この男の行動は単調だった。

平日はただ竹ノ塚界隈を宛もなくぶらぶらしているだけ。昼間から酒を飲み、酔うと大声で何かを叫ぶ。仕事には就いてないようだ。そして、日曜日には浅草の場外馬券場に足運ぶ。2週間、この男を張ったが、全く同じ日常を送っているだけ。どう見ても気質かたぎとは考察出来ない。典型的なクズ人間だ。

私の中では『こいつが黒川幸子さんに覚醒剤を売っている売人だ。』と、帰結していた。

私はこの三者にどうやって復讐し、どうやって黒川幸子さんに平穏を取り戻させるか何もかも捨て、一心不乱考えた。

その結果が今回の事件となる。


この事件によりこのやくざ者の男と私には直接的な罰が下る。

そして、○○グループには、会社から凶悪犯罪者を出したという汚点を残す。風評により○○グループは少なからずの制裁を受けるだろう。そして、私の事件の捜査が進み私の会社での使用物品が押収された時、時限爆弾が爆発する。

私は私のパソコンの中に会社が行っている不埒なパーティーの件を書き綴っておいた。

そして私のパソコンを起動させた瞬間、様々な場所にこの書き置きは送られるように細工しておいた。

これは間違いなく企業倫理問題へ発展するはずだ。

ホワイト社会のこの時代に女子社員を上納するような大時代的経営が認められるはずがない。

この情報で公安委員会は動くだろう。この情報が世にこぼれ出れば、大衆も黙ってはいないだろう。

これで三つ目にも復讐は出来る。


あとは…。


私の精神鑑定が始まり責任能力無しの判決をもぎ取れば、私の償いの第一歩を開始出来る。

色々な法的拘束はつくだろうが、刑務所でジッと死刑執行の日を待つよりかはましだ。

同じ死ぬなら、黒川幸子さんに尽くしきってから死にたい。

全ては私の我儘だ。理解している。でも…、これで…、私は楽になれるのだから…。








「間もなく次は、東京、東京です。JR各線へのお乗り換えは…。」

これはあの人の善意がくれた運。私は有効に使わせてもらうわ。

もう忌々しいこの手袋とも、お別れ出来るはず…。


あの時あの人が乱暴に部屋のドアを開けて入って来なかったら、今の私は無かったわ。

あの時のあの人の形相、忘れることが出来ない。怖かった。

あの時のあの人の力強さ、抱えられた体が覚えている。


私はこの数年、DV夫から逃げて、身を潜める様にして生きてきた。

色々な町を点々とし、色々な職を点々とし、色々な姿に変えてきた。

そして、先日まで生きてきたのが竹ノ塚の安アパート。この場所で保険の外交員をしながら細々と生きていた。


しかし、私はミスをした。

潜伏生活を送るにあたって、慎重に生きることを肝に銘じていたはずなのに…。

一番やってはいけない失敗を犯してしまった。

それは、末締め計上の保険料の預り金の紛失…。約50万円…。

単純に疲れていたのだろう。どこかに置き忘れたか…、間違えて捨ててしまったか…、盗まれたか…。

色々考えても思い出せない。行った場所を探し回った。あちこちの交番で尋ねた。アパートの部屋に戻り全てをひっくり返した。出てこない…。

通常であれば、支店に報告をすれば、私が調査を受け、然るべきペナルティーを受けた後、紛失金額は何らかの形で補填されるだろう。

だが、私には、支店への報告が出来ない事情がある。


報告をすれば私の保証人にしている夫に連絡が行ってしまう…。


私には身よりは無い。唯一の縁者がDV夫となってしまう。


アパートを借りるにも、仕事に就くにも、保証人としてDV夫の連絡先を書かざるをえない。

知らず知らずのうちにこの忌々しい手袋を見てしまう。

あの夫につけられた傷。手に残る無数のタバコで焼かれた痕。

誰にも見せる事の出来ない気味悪い手…。

だから、年がら年中、手袋をせざる得ない…。

自己資金で弁済できるだけの蓄えなんて無い。かと言って、給料日前の今、ここを逃げる資金すらも無い。

はっきり言って疲れ果てた…。生きることの意味も分からなくなった…。


『何もかも…、疲れたわ…。』


だから私は死ぬことにした…。





安アパートの鴨居。その上の壁には拳大の穴が開いている。そこにベルトを掛けた。安普請に今日ほど感謝したことはなかった。

小さな卓袱台ちゃぶだいに立ちベルトに首をかける。

『これで終われる…。そう言えば、他人に見られてもいいような下着付けてたかしら…。そんな良い下着、持ってないじゃない…。』馬鹿みたい。死ぬ前に考えることがこんなことなんて…。

気楽な気持ちでベルトに首を通せた。あとは卓袱台ちゃぶだいから飛び降りれば…。

刹那…。

大きな物音と共に私は抱きかかえられたいた。



「えっ!!!」

「悪い。邪魔して。」私を抱えた人が静かに低い声で謝罪した。

「ええ…。」

「同じ階の黒川だ。あんたの決意は分かるけど、見ちゃった俺はそれを知らんぷりは出来ないもんで…。出鼻を折って悪いが、止めてくんねぇか…。」

「はぁ…。」私には今起きていることが理解不能だった。

黒川と名乗った人間はゆっくりと私の首からベルトを外した。そして、ゆっくりと私を床に座らせた。私は死ぬ覚悟からか無意識に体が硬直していて、上手く座ることも出来なかった。どうにかこうにか畳に座れた瞬間…。


「パーン」


左の頬に灼熱の痛みを感じた。黒川という人物が私の頬を平手で打った。それと同時に私の体はガタガタと震え出した。歯がガチガチ鳴る。視点が定まらない。尿も少し漏らした。熱い液体が頬を伝わる。

「わあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…。」

私は大声で泣いていた。



どれくらい泣いたのだろう。

私の嗚咽が治まると、黒川という隣人は理由を聞かせてくれと言ってきた。

私は幼女のように考える事無く頭に浮かんだ言葉を全て黒川という隣人にぶつけた。

体裁も無く、様子もつけず、ただ単に子供が言い訳する様に涙を流しながら今日までの全てを黒川という見知らぬ人間に吐露していた。

この忌々しい手袋の事も包み隠さず話した。

焼かれた手も見せた。

全てを話し終えた私のわだかまりはすっかり息を潜めていた。

話を聞き終わった黒川という男は「俺のお願いを聞いてくれないか…。」と、話しかけてきた。


「球磨川佐知さんさ。あんた保険屋なんだよね。」

「はい。」

「じゃあ、俺を保険に入れてくんねぇか?」

「えっ?」

「俺さ、障害者なんだよね。」

「障害者手帳はお持ちなのでしょうか…?」

「…ん。ああ。持ってるよ。」

「…かなり、難しいですね。」

「俺さ、ひと回り年下の妹がいるのよ。ちょっと病んでてさ…。」

「はい…。」

「あいつになんか残してやりたくってね。」

「…。」

「やっぱ、ダメか…。」

「…。」

「あのさ、あんたの50万。俺が出してやるよ。」

「えっ?」

「あんたの一世一代の決意をおじゃんにした詫び金っうことで。」

「そんな…。」

「気にすんな。そうしないと俺の寝覚めが悪だけだから。」と、言うと黒川という人間は寸刻で50万円という大金を私の目の前に持ってきた。

即座に『裏があるのでは…。』と疑ったけど、藁をも掴む気持ちで私は50万円を受け取ってしまった。



翌日、私は隣人の黒川さんから借りた50万円で保険料の預り金を支店に納めた。これにより私の目の前の災難は雲散霧消した。

その後も何事もなかったかのように変わらず保険の外交員を続けていた。

一週間、二週間と、日が経過しても隣人の黒川さんは何も言って来ない。

静かなことが逆に不安にさせる。私は何も無い平穏にジッとしていられなくなり、菓子折りを持って隣人の黒川さんを訪ねた。


「ああ。球磨川さんか。顔色良くなったね。」

「先日はありが…。」

「まぁ、中でも入んなよ。」

「は、はい。」私は藪をつついて蛇を出してしまったのかもしれない。覚悟を決めて彼の部屋に入った。

「狭いけど…って、同じ間取りか。どこでも座って。」同じ間取りに折り畳みテーブルが置かれているだけ。何も無い。でも、掃除は行き届いている。

「お茶でいい?それしかないんだけどね。」

「はい。」

「で、今日は?」

「先日のお礼を…。」

「…ん。ああ。そんなんいいって。」

「お金は必ず…。」

「…ん。ああ。それもいつでもいいから。」

「そんなに甘えるわけには…。」

「ごめん。ここしばらく補聴器の調子が悪くってさ。よく聞こえないんだ。」

「えっ?」

「俺さ、脳に障害あってさ。目とか耳とかイマイチでさ。」と、言いながら隣人の黒川さんは硬そうな髪の頭を掻いた。

「そうなんですね…。」

「なんも気にしなくっていいから。俺もなんも気にしてないから。」

「…。」

「あんたさぁ、俺の妹に似てんだよ。顔も背恰好も…。それに偶然だけど名前もそっくり…。笑っちゃうよ。」

「そうなんですか。」

「だからお節介しただけだからさ…。」

「…あの、ご提案があります。」私は覚悟を決めた。

「…ん。何だろう?」


私は黒川さんを審査の甘い外資系のネット申し込みの掛け捨て生命保険に加入させた。

死亡時の受け取り保険金額は5000万円。月々の掛け金は黒川さんの年齢だと4万円弱。黒川さんは掛け金の金額は問題無いと言った。

保健金受取人は妹の黒川幸子さん。この受け取りに関して彼は私に一つの頼み事をした。

「もし、俺がさっさとくたばっちまったら、保険金の請求をあんたにやってもらいたいんだ。妹にはたぶん…、無理だから。その保険金のうち一割を竹ノ塚駅近くにある、あのゴミ屋敷に住むばあさんにくれてやってくれ。それともし、妹が受け取れ無かったら…、あんたが好きに使ってくれていいから。まぁ…、あんたが覚えてたらでいいんで…。」と…。


黒川さんは月々、滞りなく掛け金を納めていてくれた。

そうして生命保険加入1年が過ぎた寒い日、黒川さんは通り魔事件に巻き込まれ帰らぬ人となった…。


私は黒川さんの依頼通りに、生命保険金の請求を行った。

ただ、金額が金額だけにスッキリとは支払いはされなかった。保険会社も調査に時間をかけた。通常よりも長く時間はかかったものの、黒川さんが亡くなってひと月近くなって、保険金は満額黒川幸子さん名義の口座に支払われた。


私は同じアパートの同じ階に住む黒川幸子さんへこの事を知らせに行った。

しかし、ドアをノックするが返答が無い。留守だと思い出直すことにした。

夕方に再訪する。部屋の電気はついている。

ドアをノックするが、また、返答が無い…。

翌朝にも訪れた。しかし、返答が無い。ただ、部屋の電気がついている…。

その日の仕事の途中でアパートに戻り黒川さんの部屋のドアをノックする。

やはり返事は無い…。

何か嫌なイメージが浮かぶ…。テレビの刑事ドラマを真似てドアノブを回してみた。

『鍵がかかってない…。』

私はゆっくりとドアを開け恐る恐る部屋に入ってみた。玄関に入った途端、狭い室内は一瞬で見渡せた。

折り畳みテーブルの後ろに誰かが寝ている。下着姿の女性だ。

あれが黒川幸子さんなのだろう。

「黒川幸子さん。黒川幸子さん。」私は横たわる女性に小声で声をかけながら近づいた。

『はっ!』横たわる女性の全体像が目に入った瞬間、息を飲んだ。肌が変色している…。汚物を漏らしている…。彼女は…、亡くなっている…。


私は急ぎ消防と警察に連絡しようとした。しかし、それを止めた。

タンスの上の骨壷が目に入った。私は死者の前で逡巡した。

『私はここに何をしに来たの…?』

寸時の思考は次の瞬間、私に行動をさせていた。

『あのタンスの一番上の引き出し…。』

何の迷いも無く引き出しを開けていた。

『やっぱりあった。』それは黒川兄弟の通帳と印鑑。黒川さんの保険契約を行う際、あそこから通帳などを取り出していたことを覚えたいた。

私は黒川幸子さんの通帳と印鑑を取り出した。そして黒川幸子さんのバッグの中身を丁寧に取り出し、免許証と保健書を拝借した。その後、エアコンの設定を冷房に替え、温度を下げ、照明を切って部屋をあとにした…。


翌日、ボストンバッグを持ち黒川幸子さんの口座がある銀行へ赴く。ATMで記帳を行う。残高は国からの遺族見舞金と生命保険金の振り込みで6000万円を優に超えていた。

私は窓口に向かい残高のうち6000万円を引き出すことを伝える。すると小部屋に案内され銀行員から根掘り葉掘り尋問を受けることになった。

その際に身分証明書として黒川幸子さんの運転免許証と保健書を提出する。行員はそれらのコピーを取りたいと申し出てきた。私には拒否する理由はない。二つ返事で了承した。

私は銀行に赴くに際して黒川幸子さんの運転免許証の顔写真に似せ化粧を施してきた。

確かに黒川さんが言っていた通り、運転免許証の顔写真の黒川幸子さんは私に似ていた。ここに来る前も竹ノ塚駅前で老婆から「幸子ちゃん、今から仕事かい?」と、声をかけられた。以前もよくこの老婆からは同じ様に声をかけられた。それ程に似ているらしい。

おかげで30分もしない間に、私の目の前にに6000万円の札束が積み上げられた。私は行員に手伝ってもらいながらボストンバッグに札束を詰めた。

詰めながら行員が「このお金、どうされるのですか?」と、尋ねるので「嫌な事ばかりあったものですから、心機一転やり直すつもりです。」と、答えると、この大金の出所を周知しているのか「頑張って下さい。」と、励まされた。


私はお金を持ち帰ると、黒川幸子さんの遺体の傍にボストンバッグに入ったそれを置いた。そして私は手を合わせて目をつぶり、心の中で呟いた。

『黒川幸子さん。あなたのお兄さんに言われた通り、保険金を持ってきました。ただ…、間に合わなかったね…。』呟き終わると、私は黒川幸子さん遺体に頭を下げた。

今度はタンスの上の骨壷に手を合わせ『黒川さん、あなたのお言葉に甘えさせてもらいます。このお金、使わせてもらいます。』と、骨壷に向かって頭を下げた。

その後、黒川幸子さんから拝借した通帳や免許証を元通りに戻し、そしてエアコンの設定を元に戻してボストンバッグを持って部屋を出た。


次の日には、アパートの解約を管理会社に通達し、退去期限までの家賃の振込みを行い、保険会社には退職の意思を伝え、退職日の合意を取り付けた。そして翌日には私の所有する数少ない持ち物を廃棄し、大金と必要品だけを昨日会社の帰りがけに購入した65リットルのリュックサックひとつにまとめ上げた。

そして、3日目の午後、旅立ちの日に公衆電話から警察に「異臭がする。」と、黒川幸子さんの死を暗に伝えた。





竹ノ塚のアパートを引き払った後、池袋のビジネスホテルに滞在していた。ここから退職日を迎えるまで仕事に通いこの地を去るためである。

そしてもう一つの理由は、黒川幸子さんの事故が明らかになるのを待っていたからである。

黒川幸子さんの死は私の通報した翌日には新聞に小さく取り上げられていた。

次の日の新聞には「捜査の結果、事件性は無く、司法解剖の結果、自然死。」と、結論付けられていおり黒川遼一さんの遺骨と共に無縁仏として葬られると記されていた。私は黒川幸子さんが何事もなく荼毘に伏されたことに胸をなでおろすと共に、黒川さんとのもう一つ約束を遂行するタイミングを計っていた。




「ピンポン。ピンポン。」

「はいはい。どなた?」扉の向こうでガサゴソと動く音がする。

黒川幸子さんの記事が出た1か月後、私は竹ノ塚に戻っていた。今日で保険会社も円満に退職出来た。残る黒川さんとのもう一つ約束を果たすためにこの地に立ち寄った。

「ピンポン。ピンポン。」

「はいはい。今行きますよ…。ガチャ。ギィィィィィィ。あれ、幸子ちゃんじゃないの。」

扉を開けて出てきたのは竹ノ塚の駅前で私によく声をかけてきた老婆だった。

「久し振りだねぇ~。どっか行ってた?」

老婆は完璧に私を黒川幸子さんと勘違いしている。今日は全く黒川幸子さんに似せていないのに…。出で立ちも登山にでも行くような格好なのに…。

それに、老婆は黒川幸子さんが亡くなった事を知らないようだ。

「兎に角、中に入んな。」と、老婆は足の踏み処も無い玄関に私を誘う。

「お、おばあちゃん。私、これを渡しに来ただけだから。」と、紙包みを差し出した。紙包みの中には600万円分の紙幣が入っている。

「なんだい。お土産かい。うれしいねぇ。今、火かけてるとこだからお茶でも飲んでいきな。ストーブもつけたから。」

「まだ、仕事中だから、今日は遠慮しとくね。」と、真っ赤な噓の言い訳をして紙包みだけを手渡した。

「つれないねぇ…。仕事じゃしゃあないねぇ…。」

「それじゃあ、おばあちゃん、またね。」

「気をつけてね。クロちゃんにもたまには顔出すように言っといて。」

「うん。それじゃあ…。」年が年だけに呆けているのかしら…。

何か胸に引っかかるものを感じた。後ろ髪を引かれる思いはあった。…が、足早にこの場を去った。

これで黒川さんとの約束も果たせた。

あとは黒川さんからいただいた運で新しい人生を始める。それが黒川兄妹に報いる事のように思えた。





「東京〜。東京〜。JR各線へのお乗り換えはお間違えの無いよう…。」

私の目の前の電車のドアがゆっくりと左右に開く。開いた隙間から桃色の夕陽と冷たい外の空気が車内に流れ込んでくる。

『さあ。私の新しい人生の第一歩。』意気揚々と東京駅のホームへ右足を着こうとした、瞬間…。


私は正面から凄い力で体当たりをくらい大きなリュックサックを背負ったまま仰向けに倒されていた。

私の回りにいた乗客たちが叫び声を上げながら逃げていく。

胸に灼熱を感じる。

なぜか目が見えなくなってきた…。





「緊急速報です。只今東京駅で通り魔事件が発生した模様…。」





≪またなのぉ~。こわいこわい。≫





おわり



































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善意 明日出木琴堂 @lucifershanmmer

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