真昼の月

銀色小鳩

真昼の月

 依子よりこかずらがこの公園に入っていったのは、遊ぶためではない。引っ越し前に最後に見ておきたかったからだ。氷も解けて静かに黒く街灯の光を揺らめかせる小さな池、黄色い像の鼻を滑るように作られた一基の滑り台と、二台の大きさの違う鉄棒、そしてブランコ。柔らかい明かりのように、夜のなかに浮かび上がっているのは、二人が「こんぺいとうのはな」と勝手に呼んでいた姫蔓蕎麦ひめつるそばだ。石垣に群生する姫蔓蕎麦の丸い花が金平糖のように甘く園内を包み込んでいる。淡いピンクの花は、小さな柔らかい手のひらで包んだ幼い日を思い起こさせる。

「依子、おいでよ」

 ブランコに腰かけた葛は、依子を手招く。

「膝の上に? 隣に?」

 葛の膝に乗れ、という意味なのかを問うた依子は、葛に小首をかしげて微笑まれたのを見て、頬をピンクにした。金平糖みたいだ、と葛は思う。ぷっくりと頬を膨らませて、柔らかい髪をふわりと靡かせて、依子は葛の所まで来ると葛の膝に座った。ブランコが揺れてきいと音を立てた。

「ブランコに座ると、少し昔の目線の高さになって、懐かしくなれるよって意味だったけどね?」

 葛は依子の体をきゅんとしめつけて、髪をよける。

「髪の毛、鼻に当たって、くすぐったい」

 葛の指先が髪をよけるたびに、短く切りそろえられた細い爪の先が依子の頬をかすめる。

「葛の爪のほうがくすぐったい」

「もっとくすぐったくする?」

 葛が髪の間に指を探り入れるようにして撫でると、依子はぼうっとして大人しくなる。

「くすぐったい?」

「…………」

「お客様、痒いところはございませんか?」

「唇」

 葛の、からかうような声が、いったん止まる。

 無言で依子の顔を自分の側に向けると、葛は依子の唇にふわんと柔らかく自分の唇を触れさせた。

「いーけないんだ!」

 背後から飛んできた声に二人が振り向くと、小さな男の子が立っていた。

「公園はこどもの遊ぶところだぞ! 大人がいちゃいちゃして」

 わんぱくざかりの男の子の黒いTシャツは所々破け、泥が付いている。ズボンは破け、膝小僧が見えている。小学二年生ぐらいだろう。声変わりしてしまった弟たちとは違うあどけない声が高く響く。

「大人だって、公園を使うんだよーだ」

 いーだ、という口の動きをしして、依子はふふんと笑った。葛は眉を八の字にして二人を見比べる。依子は子供に負けないような子供っぽい返し方をする。

「そもそも夜の公園は、子供のいるところじゃないから」

「おばけが出るよ。さっさと帰りなさい」

 二人で代わる代わる、説得する。それで帰らないのは、わかっているけれど。

「子供は夜は遊ばないの。見えにくくなるからね。黒い服とか着てると特にね。気を付けないとね?」

 男の子は大きな石の上に登り、飛び降りる。飛び降りてはまた登る。

「おばあちゃんも、そう言ってた。明るいの着て、洋服は気を遣いなさいって。いつもボロボロの黒いの着てないで、おばあちゃんが買ってやるから大事に着ろって」

 男の子は呟き、池を指さす。

「あそこで遊ぶと、すぐ泥なんかつくんだよ」

「そうだろうね……」

「見てみる?」

 公園の少し端にある池には、水の上を歩けるような石が飛び飛びに置いてある。中央の大きな岩に向かうためのステップになっている。しかし、ぐるりと柵がめぐらされていて、柵に池に入るような切れ目はない。

 男の子は池に行こうとし、振り向き、二人が動かないのを見て迎えに来る。小さな手が依子の袖を引っぱるが、依子は動かない。

「きて」

「私たちはいかないかな」

「きてよ」

 依子が動かないので、男の子は今度は葛の服の袖をつまんで引っ張る。

「池の真ん中に石があってね、そこに立つと、ちょうど桜で囲まれた空の真ん中から月も見えるんだよ」

 男の子の声は柔らかく、あくまでお願いといった響きになった。

「誰も見てないんだ。きれいなのに、この景色、ぼくしか見てない」

 声に寂しさと泣くような哀願の響きが混ざってくる。

「月がかわいそうだ。桜のなかで、ひとりぼっちで」

 ブランコをのボールを掴む葛の指を、押さえるように、依子の手が包んだ。その手を葛が振り払う。

「葛、だめ、」

「最後だから」

 一回くらい、一回くらい、一緒に月を見よう。ひとりぼっちでかわいそうな月を。

 依子を押しのけて、葛が池に向かう。走り出した男の子を追うと、ひやりと水の気配を帯びた空気が頬をかすめる。

「葛! 戻って!」

 男の子が池の柵を乗り越え、石の上を器用にぴょんぴょんと跳ねて進んでいくのを追う。葛が柵を越えて、石の上に足をかけたとき、何かぬるついたものが靴の裏で滑った。金平糖のような白い泡をぶくぶくと立てながら、葛の腕が舞う。溺れるような池じゃない――大人なら。焦る気持ちごと覆うように、黒い水はまるでもったりとした重い藻のように葛の腕に絡まり、体勢を保てない。水底で手が滑り、尻餅をつく。危機一髪、葛の顔がそのまま水面に沈もうというとき、白い手が伸びてきた。葛はその手に縋り、しがみついた。黒い水面に映った男の子の顔は白く浮かび上がり、月の光を受けて一瞬赤黒く見えた。

「昼だって、別に、どこにいたって、まえからぼくは、見えなかったよ。おばあちゃんにしか、見えなかった」

 中央の岩の上に、子供が立っている。月光を浴びて白く浮かび上がる顔は少し悲し気に見える。

「何回誘っても、誰もここまで来れない」

 かける言葉が見つからず、葛は白い顔をただ見つめた。

「葛、――葛!」

 ぼうっとしていたのが、どのくらいの時間だったのか、葛には分からなかった。依子に呼ばれて初めて、依子がしっかりと脇の下から体を支えていたことに気が付いた。依子の支えに頼って池から這い出して下を見ると、泥だらけになった白い膝やくるぶしに小さな傷がたくさんついていた。

 ふと顔をあげると、岩の上に男の子の姿はもう無かった。



「呼ばれた。絶対呼ばれたんだって、あの子に」

 帰り路にポツンとあるコンビニで、消毒液を買う。消毒し、依子が怒ったように葛の膝に絆創膏を貼る。

 大人が尻餅をついてちょうどぎりぎり顔が出る高さのあの池で、今まで何回か、子供だけでなく大人までが溺れていた。浅いのにも関わらず事故が続いた池は、埋め立てが決まっている。葛たちが懐かしさを求めてまたふらりと来るときには、もう別の姿になっているだろう。

「傷、浅そうに見えるけど、池だしね。明日、病院行こう。破傷風とか怖い」

「うん……」

「一緒に行ってよかったね」

 葛が公園に行こうと言った時、嫌な感じがしなくはなかったのに。依子にとっても子供の頃の風景の見納めはしたかったのだ。夕方や夜に何度か会った男の子にまた会う気はしていたが、葛が池に入ろうとするとは思わなかった。そんな葛は初めてだった。

「危機一髪だったんじゃない? ああいうふうに溺れるんだね、あの池」

 最後の事故者になりかねなかった恋人に、温かいカップのコーヒーを差し出す。イートインコーナーからタクシーを呼ぼうと、依子は携帯でタクシー会社を調べ始めた。

「初めて」

 葛が、小さな声でぽつんと言った。

「初めて会った時、池に行こうって、あの子が言ったとき、止めればよかった」

 二人で遊んだ小学生の、眩しい真昼に、声をかけられたことを葛は思い出していた。あの子と昼に会ったのは、それ一回だけだった。葛と依子は姫蔓蕎麦の花でいっぱいに着飾り、お姫様ごっこをして遊んでいた。池に落ちると洋服が汚れると思ったのだ。

「今度ね!」

 そう言って男の子に手を振り、二人で手を繋いで帰った。

「あの服、あの時からずっと同じだから。あの時止めてたら」

 葛は顔を覆ってしまった。よく現れる男の子がどうやら生きた人間ではない、とわかり始めてから今まで、葛の中に、ずっと苦い思いがあった。あの時に止めていれば。あの時に自分たちが止めなかったから、何度も何度もあの子は現れるのではないかと。

「それは違うよ、葛」

 あの後に事故が起こったと、葛はずっと思っていたのか。依子は驚いた。

「私たちが幼稚園に入るよりずっと前に、うちの親は池が危ないってもう言ってたよ。事故があったからダメだって。あの年、小学校では、池の事何も言われなかった。あのとき、もう、生きてる子じゃなかったよ」

「え……」

 葛の脳裏に、白い男の子の顔が浮かぶ。ゆらゆらと黒い水に映る顔と、昼に見たはずの顔が。真昼に見たはずの男の子の顔は、ゆらりと記憶の中に溶けて、どんな顔だったのかをもう思い出せない。

「顔がわからなくなってきた。服装は覚えてるのに。記憶なのか、夢だったのか、よく分からなくなってきた……」

 ふっと照明の明かりが暗く感じたのを振り切るように、依子は言った。

「生きてること自体、夢みたいなものだしね。さ、夢の新居に追加するものでも考えよ!」

 ぎゅうと葛の腕に抱き着く依子の太陽のような笑顔を見て、葛は今更になって思った。真昼の月に惑わされて、あの幼い日、池の岩に登らなくて良かったのだ。



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