明日間薫子のエピローグ

 あっつーい。エアコン点けててもなんか暑く感じてきたよ。というか今さらだけど佐渡原先生はこの時間、一体何をやってるのかな。生徒が真っ先に部室にきてること知ってるよね? そこは気を遣って早くきてほしいものだよまったく。というか眠い。もう寝ようかな。寝ます。

 ──……がらっと扉が開いたので私は勢いよく上体を持ち上げた。

 入ってきた佐渡原先生が私を見る目がとても妙なものであることに気づく。

「お前のその芸、見てる側からすると怖いんだけど……」

「佐渡原先生がこんな身体にしたんですよ。もっと早くきてくださいよ」

 寝ぼけた目で時計を見るともう四時半を過ぎていた。

 佐渡原先生はボリボリとボサついた髪を掻く。

「俺も忙しいんだよ。あれやらこれやらな。今日だってお前に命令を下すためにここにきたんだから」

「命令……?」

 嫌な予感がして眉をひそめてしまった。

「ちょっと用事ができたから、淡水魚の餌やりと観葉植物への水やりをやっといてくれ。あと部屋の掃除も」

「えー。どれか一つにしてくださいよ」

「じゃあウサギの世話やるか?」

「餌やり水やりお掃除頑張るぞー」

 私は立ち上がって淡水魚の水槽のもとへ向かう。

「本当は一番時間のかかるウサギの世話をやってほしいんだけどな。桂川ならいざ知らず、遊間一人にウサギを任せるのは不安すぎる」

 信頼ないなあ。任された仕事は完璧にこなす女ですよ、私は。……なんてことを言うと、ウサギの世話を押し付けられそうなので黙っておこう。

 佐渡原先生は、

「終わったら帰っていいぞ。鍵置いてくから戸締まりもよろしく」

 と告げて退散していった。私は仕方なしにせっせと淡水魚たちに餌をやり、観葉植物に水をあげ、明らかに落ちていたら目立つサイズのゴミを始末していく。

 エアコンの駆動が鳴り響く部室はそれでも静けさを感じられる。うるさいはうるさいんだけど、音の有無とは違う静かさがある気がした。寝る分にはいいけど作業をするとなると少し物足りないかもしれない。部員が私一人だけになってこの部室の静謐さを真に理解できた。

 佐渡原先生から仰せつかったことを全部やり遂げたのでエアコンの電源を切った。バッグを肩にかけて扉を開ける。

 廊下へ出て、扉を閉める前にじっと生物部の部室を見回した。淡水魚の水槽、観葉植物、黒板、エアコン、一箇所に集めれた席の数々、そして私が座る席と、片付けるのが面倒で前に出したままになっている席……。去年から何も変わっていない静かな部屋。いや、静かというより、何というか……何だろう。寂しげな部屋、みたいな? まあ何でもいいか。

 扉をぴしゃりと閉めて鍵をかけた。その鍵を職員室に返して昇降口へ向かい、下駄箱で靴を履き替えて外へ出た。……あっつい。陽に当たると、校舎にいたときよりダイレクトに熱波を感じて屋内に引っ込みたくなる。

 けどどうせ建物の中だって暑いので、我慢して下校することにした。校門を抜けて坂を下る。半端な時間なだけあって、周りには私以外に帰宅中の四ツ高生はいない。

 こうして歩いていて一つわかったことがある。生物部の部室が静かなのだと思っていたけれど、単に私の周囲が静かなだけなのだ。

 ミノが転部して一週間、今さらそのことに気がついた。何だかんだ、放課後こうして一人で過ごすのは高校に入学してからの数日以来なのだ。中学まではずっとこうだったけれど。久しぶりの感覚に慣れるまで時間がかかってしまった。

 とはいえ、ミノがいてもいなくても、結局やってることは佐渡原先生がくるまで部室にいるだけなので、生活が何か変わったのかと言ったら何も変化はないんだけどね。ただ静かになったというだけで。

 坂を下って歩道橋を使わず、隙を突いて道路を渡った。そのまま、また坂を降りていく。道なりに沿って進むと、ミノの住むアパートが見えてきた。

 何となく立ち止まって、じっとそのアパートを見つめる。……どうしてミノは急に生物部を辞めたのだろうか? 兆候が何もなかったから怖いよ。身体を動かすのは得意そうだし、嫌いでもなさそうだったけど、このクソ暑い時期に運動部に転部するのはミノのキャラじゃない気がする。まあ私がミノの何を知ってるんだと言われたら、あんまり知らないんだけども。

 何だろう。あれかな? 模倣犯であることを私に見抜かれてプライドが大いに傷ついちゃったとか? いやー、でもあれは自分が犯人だと私にバレるのは完全に織り込み済みでやったことだよね。ミノが考えたにしては杜撰すぎるし。むしろ計画通りのはず。

 うーん、謎だ。そんなに陸上部が魅力的だったのかな。確かにグラウンド数周で帰れるのは熱いかも。

 ……でも私はミノと違って謎に直面したら解いてやろうなんて、殊勝なことは思わない。何か理由があったんだろう、で済ますものだ。

 そう結論づけて二歩三歩歩いて、再び足を止める。謎と言えば、もう一つあった。そもそもあの告発書の模倣は一体何だったのかな。自分が犯人だと私に気づかれることを前提とした所業だとは思うけど……。

 私はあのエキセントリックなミノさんがどんなことをしでかそうとも驚かない。殺人事件の捜査に乱入することに比べたら、大半の行動が可愛く思えてくるもん。だからこそあのときは別段気にしなかったのだけど、

「なんでミノ、あんなことやったんだろう?」

 白い雲と青い空に向かって今さらながらに呟いた。けれど、自分が思っていたよりもずっと小さな声だったようで、タイミングよく吹いてきた風に溶けて消えてしまう。

 私はまた歩き出す。今度は、もうどこにも立ち止まることはなかった。

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青春破綻者たちの事件簿 赤衣カラス @nu48

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