ロジックール・ライブラリー【解決編③】
アスマが全部説明してよとばかりにこちらを見てきたが、あたしが顎をしゃくって指示を飛ばすと諦めたように一同に向き直る。
「纐纈さんの言う勝算があったという部分は合ってると思います。蕨野さんは正解を見たわけでも、正解を予想したわけでもない。他の誰もエアコンに近づいていないみたいだから不正解を見ることもできない。残る可能性は不正解を予想した……つまり、蕨野さんは設定温度を下げた人を間違えて予想してしまった。そこに勝算を見出しちゃったんだ」
「間違えた……?」
誰かが小声で反芻した。
「図書委員に無断で推奨されている設定温度から下げるのは多少いただけないけれど、殺人事件と比べたら些末極まりないことだよね。下げた人としても、黙っておく理由はない。それが殺人と関係なければ、だけど」
これは蕨野視点での思考である。事実としては良雪が部屋が暑かったから設定温度を下げただけだ。
「蕨野さんは設定温度を下げたのが犯人で、それが殺人に関係していると考えちゃったんだね。設定温度が下がったのが犯人の工作なら、犯人がそのことを言うはずがない。だから黙っていられた。犯人ならエアコンに指紋を残していないと考えても不自然じゃないし。部屋の温度を下げる理由も……まあないこともないし」
「どんな理由ですか?」
陣内が首を傾げながら訊いた。
「死体を冷やして死後硬直をどうのこうのするためだよ」
締まらないので補足しておこう。
「遅らせるため、ね。まあ、シチュエーション的にも死体周りの温度的にも時間的にも何の意味もない工作だけど、突発的に殺人を行った犯人までそう考えたかはわからない……と、蕨野は思った」
そういえば蕨野は推理小説を嗜んでいるとか言っていたか。
「人知れず下げられていた設定温度と良雪さんの死体を前に、蕨野さんは全く関係ないこの二つをそんな感じで結びつけちゃったんだね」
ここで狂犬・陣内が手を挙げる。
「犯人なら自分の指紋を拭き取っているだろうと予想したのはわかりました。でも、自分の指紋は残っていてもよかったのですか? 警察に調べられたら設定温度が上げられたことがわかりますよね。となれば事前に下げられていたことも発覚しかねないのでは?」
やはりこいつはなかなかに鋭い。しかしアスナはのらりくらりと噛みついてくる彼女を迎え撃った。
「蕨野さんは図書委員だよ? 自分の指紋がエアコンに付いていったって、いくらでも言い訳ができるんだ。本来はね。彼女は図書室にやってくる直前に吉村さんがエアコンをふきふきしたことを知らなかったんだよ」
蕨野の予想では、下げるボタンの指紋は犯人が拭き取ったので何も検出されず、上げるボタンの方は自身を筆頭にこれまで触った者たちの指紋が重なっているはずだったのだ。これならば多少不自然だが、今日エアコンの設定温度がいじられたとは指紋からは読み取れない。
実際には吉村が操作盤に雑巾をかけていたため、ボタンに付いていた指紋がそれ以降に付着したものだと確定してしまったのだが。
陣内は顎に手を添えて思案すると、こくりと頷いて納得したようだった。
すると今度は纐纈が我慢ならんとばかりに手を挙げ、
「蕨野さんは何で黙っておく必要があったの? 予想の材料はわからないけど、犯人に見当はついていたんでしょ?」
「それはもちろん犯人を庇うという王道な理由です。庇うというか、隠すと言った方が適当かな? どっちでもいっか。殺人犯が別の人間を犯人と推測して庇おうとするわけがないので、犯人は佐川さんってことになります。ということで、犯人はあなただー」
事務的な口調で人差し指をだらりと佐川へ向けた。
佐川は瞳に動揺の色を映しながら慌てて立ち上がる。
「な、何よ、それ! あなたの推理、全部都合よく話を転がしただけで、まともな証拠が一つもないじゃない!」
確かに、この推理は主観で蓋然性の高い方を選んで推理を展開しているだけだ。極論、蕨野がめっちゃ馬鹿な犯人だった、で反論できる。合理的ではあるが論理的な推理ではない。
証拠がないからこそ明月たちはここに立ち会っていない。問題になりかねないので警察は関わっておらず、あたしたちが勝手にやっているという体を取っているのだ。……ここで認めてくれるのが一番ありがたかったが、あたしたちの真の目的はその先にある。
佐川は俯いて黙りこくっている蕨野を指差した。
「嘘を吐いてた結華がどう考えたって一番怪しいに決まってる! 犯人はこの子よ!」
糾弾されている蕨野は俯いたまま固く目を閉ざしている。心が酷く揺らいでいるように見えた。もうひと押し必要かしらね……。
「いいの? 庇ってた友達に犯人扱いされてるけど」
蕨野がはっと顔を上げてこちらを見てきた。そして、息を荒らげている佐川にちらりと視線をやる。蕨野の怯えたような瞳と、佐川の怒気をはらんだ瞳、二つの視線が交錯した。
「私たちが知りたいのは、蕨野さんが佐川さんを犯人だと判断した材料なんだよね。動揺しているように見えたとかそんな話でもいいけど、できれば証拠になりそうなのがいいかな」
というアスマの言葉。蕨野を精神的に追い詰めて佐川が犯人である証拠を吐き出させる。これがあたしたちの策だ。
長いこと口を開いていなかった蕨野だったが、やがて緊張の糸が切れたように大きく息を吐いた。
「茉莉花に本を貸し出したとき……図書室に入ってきたときにはなかったはずの痕が、両手のひらについているのを見たの。横線が一本入ってた。手を振り合ったから間違いない」
佐川は目を見開いて反射的に自分の手のひらを見た。当然もう消えているだろうが、
「延長コードを強く握りしめたときにできたのね。その後絞殺された死体が見つかって、犯人がわかった、と」
「そんなの、でたらめよ! 私を犯人にするためにそんな嘘を……!」
やはり佐川は認めようとせず反論してくる。面白い証拠ではあるが、証明はできそうもないわね。
気まずい空気が空き教室に流れた。アスマだけがどうでもよさそうにあくびをしている。どうしたものかと思っていると扉が開いて明月と十塚が入ってくる。
「話は聞かせてもらったよ。蕨野さんの話、大変興味深かった」
刑事の介入に佐川の表情が引きつった。明月は彼女を睨みながら、
「昨日、君が下校する際に校門を抜けたときの監視カメラの映像だけど、我々が重要視していたのが図書室の出入りの時間だったから詳しく調べなかったんだ。もしやと思って今しがた鑑識に調べてもらったんだけど……」
十塚が自身のスマホを取り出してあたしたちに突きつけた。
校門を出たの佐川を背後から監視カメラが撮影した際の映像。彼女の手のひらが映り込んだ瞬間の切り抜きの拡大画像だ。
「この学校の監視カメラが良いやつでよかったよ。拡大してさらに解像度を上げたものだけど、手のひらに痕がついているのがわかる」
得意げに告げる十塚。確かに、手のひらに不自然な赤い横線が入っていた。
「図書室から校門までの道のりで、何をしたらこんな痕がつくのかな?」
佐川は何かを訴えようとしたが、言葉がまるで出なかったようで意気消沈したように椅子に座った。彼女は蕨野を恨めしそうに睨んだ。
「庇うつもりなら……こんな中途半端なやり方じゃなくて、もっと他に色々あったでしょ……」
蕨野は悲痛な面持ちで目を伏せ、
「ごめん……。そこまでの覚悟は、なかった」
と、ぽつりと呟いた。
佐川の語った動機としては、高価な化粧品を万引きしているところを良雪にスマホで撮影され、動画をばら撒くと脅されたことによるものだった。いや、正確には脅しではないか。佐川は何も要求せず、ただばら撒くと宣言して佐川を煽っただけらしい。
良雪から図書室に呼び出された佐川はそんな性格の悪いことをされて、ぷっつんきてしまったのだとか。自分の優等生のイメージが完璧に崩れてしまう……殺人の方がよっぽどあれだというのに、佐川は凶行に走った。
青春を守るためにを青春から逸脱した行為を取る……よく見る青春破綻者だ。
◇◆◇
佐川は警察に連れていかれ、蕨野はお叱りを受けるために学校に残った。和田と石田は安堵しながらもどこか複雑そうな表情で、しかし素早く去っていった。
あたしとアスマ、新聞部の二人はのろのろと職員玄関で靴を履き替えている。
「いやあ、二人が解決編やってるところを見るの久しぶりだけど、やっぱり格好いいねぇ」
纐纈が両手を後頭部で組んで感心したように言った。あたしは肩をすくめ、
「殆どアスマの手柄だけどね」
「いやいや。桂川さんも、美織ちゃんを華麗にあしらったじゃん」
「勉強になりました」
何を学んだのかはわからないが、陣内が微笑みながら軽く頭を下げてきた。
纐纈が陽気な声で、
「二人はずっと事件に向き合ってればいいのに。そうすれば私も絡みやすいし」
「あんたもたまに不謹慎なこと言うわよね」
「冗談だよ」
そう言って笑うと、纐纈はしみじみとした表情で腕を組み、
「私も一回でいいから探偵役みたいなことしてみたいなあ」
その一言にアスマが勢いよく振り向いて反応する。
「あ、じゃあ今度死体を発見したら呼びますね。私と入れ替わりましょうよ」
「いや、流石に殺人事件は勘弁だけども。この前二人が話してくれた麻騒動みたいな、ライトなやつがいいかな。まあ二人のような推理力なんてないんだけどね……」
苦笑する纐纈に陣内が首を横に振り、
「いえ、怜奈さんならすぐに推理力だって磨けますよ。毎日推理小説読みましょう」
「受験生にそれはキツイってば」
二人はぺらぺら話しながら職員玄関を出ていった。
あたしは靴を履き替えるのも遅いアスマを見る。彼女は腰を降ろして靴紐を結び直していた。
研究メモに佐川について書き込んでいると、アスマがこちらに顔を上げ、
「この事件、蕨野さんがとっとと話してくれてればすぐに終わったのにね」
「そうね。でも咄嗟に庇ってしまうのが、友情ってやつなんじゃない?」
あたしにはそんな感情、まだとてもわかりそうにないけれど。
アスマは立ち上がると呆れたように目を細めた。
「佐川さんも言ってたけど、それならもっとがっつり庇えばいいのに」
「友情由来の行動の限界値があれだったんでしょう」
佐川の醜聞を書き込む手を止め、あたしたちは職員玄関を抜けて外へ出た。静まり返った敷地内を二人で歩いていく。アスマがさして興味なさげに、
「佐川さんも酷いよね。庇ってくれた友達を犯人扱いするなんてさ」
「良く悪くも、友情というのはその程度のものなのかもしれないわね。顔色を伺ったり相手に合わせたりして縛られる割に、脆いときは脆い」
そこのところはよくわからないのでテキトーに喋った。
アスマは立ち止まって灼熱の青空を仰ぐ。眩い陽光を手で遮っていた。
「友情っていうのも面倒だね。まあ、私があの二人のようになることは絶対ないんだけどさ」
あたしは黙ったまま再び歩き出したアスマの歩幅とスピードに合わせる。横目で彼女の姿を見ながら考えた。……今アスマが言ったのは、どういう意味なのだろう。自分は友達を裏切ることも庇い立てることもない高潔な精神性の持ち主という意味なのか。それとも自分には友達なんていないから関係ないという意味なのか。あるいは、自分の友達が悪事を働くことなんてないという意味なのか。
例によって、尋ねることなどできるはずもなく、ただ心にもやもやした感情だけが残るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます