図書室にて

 部室はとうに冷え、頑なに設定温度を戻そうとしないアスマに根負けして席を交換した。流石に二十五度を維持するための涼風を至近距離で受け続けるのはいくらなんでも肌寒い。

 それから佐渡原が部室に現れたのは、なんと五時半も近づいてきたタイミングであった。事情は知らないが外に出払っていたようで、おっさん臭い汗をかいて部室に転がり込んできたのだ。

「あ、お前らまだいたのか。絶対帰ってると思ったわ」

「この学校に部活出席日数なんて概念がなければとっくに帰ってたわよ」

 スマホでゲームをしていた私はそれをスカートのポケットにしまった。それほど大きな機種ではないが、ポケットが小さいためジャストフィットする。

 机に突っ伏して眠っていたアスマは佐渡原の登場と同時に一瞬で覚醒した。おそらく家でもあんな感じでクーラーの風を直に浴びているのだろうが、よくもあれで風邪をひかないものだ。

 私たちは今さら佐渡原に対する嫌味を言う気力もなく扉を開けて廊下へ出た。むわっとした熱気の壁をぶち抜く。一方のアスマは一瞬だけ弾き返されたがすぐに一歩踏み出して壁を突破していた。

 一時間半以上も心地の良い空間にいたため廊下が随分と過酷に感じる。夕方だというのにまだ全然暑い。

 ダラダラと歩くアスマの少し前を歩いていると、そういえばと思い出したことがあった。

「あっ」

 その一声とともに立ち止まったあたしの脇をアスマがだらだらと通り抜けていった。

「ぐへっ」

 あたしにセーラー服の後ろ襟を掴まれたアスマから声が漏れる。ため息混じりに振り向いてきた。

「なに?」

「図書室で借りたい本があったのを忘れていたわ。休み時間にいったけど、誰もいなかったのよね」

 うちの司書教諭は結構な頻度で席を外すので、よく図書室が留守になっている。昼休みか図書委員がいる放課後くらいにしかまともに本を借りられないのだ。

「借りてくればいいじゃん」

「じゃあいくわよ」

「ちょっ──ぐへぇっ」

 アスマの後ろ襟を掴んだまま図書室のある方向へと歩き出す。不平が飛んできた。

「私図書室に用なんてないんだけど……」

「あたしの目当ての本が高いところにあったらどうするのよ。あんたの無駄に高い背丈の活かしどころでしょう」

「いや、踏み台とか椅子とかあるでしょ」

「それは、ほら……そう。あたし高いところ苦手なのよ。今の目線から少しでも上がるだけもうブルッとくるわ」

「ミノさんともあろう者がそんな理由で私を頼らないでよ。というか絶対嘘でしょ! 透明人間事件のとき四階の窓から中庭見てたじゃん!」

「あれがトラウマになって高所恐怖症と化したのよ」

「トラウマになる要素なんて何もなかったよね」

 弱々しく抵抗していた足取りが軽くなる。どうやら諦めたようだ。アスマの瞬発力なら逃げ出されてもすぐに捕らえられるので手を離してやってもよかったが、引っ張りながら歩いた方が早いので掴んだままにしておこう。一応、危ないので掴む箇所を後ろ襟から左腕に変更しておいた。

 我ながらいつも以上に強引ね……。毎回のように一人で帰ろうとするアスマを引き止めているのは、こいつにも謎解きをさせようという思惑もあれど、本当のところはあたしが一人で帰りたくないからという理由だ。たった五分の道のりでも、一人で下校するのは虚しくて嫌いだった。アスマ本人には絶対言えないことだけれど。

 図書室がある北棟へと向かう。ひとけのない廊下を突き進み、渡り廊下を越え、図書室のある三階を目指す。

 三階に足を踏み入れたところでさらに北へ向かう。図書室は廊下の端にあるのでここからもまあまあ遠い。

 アスマを引っ張って図書室の目前までやってきた。図書室のすぐ隣にあたる新聞部の部室の扉が全開になっており、歩きながらちらりと中を覗くと大勢の新聞部員の中にいた纐纈と目が合う。だが、別にお互い話すことなどなかったので、一瞬だけ視線を交錯させて通り過ぎた。

「あれ、今、纐纈さんいなかった?」

 どうやらアスマはあそこが新聞部の部室であることを知らなかったようだ。そりゃそうか。アスマだし。

 図書室の扉を開ける。普通の教室よりも広いので、涼しいと諸手を挙げて喜べるほどではなかったが、それでも中は廊下と比べると幾分か低い気温に感じられた。。

 扉の正面方向には北向きのカウンター、壁際で安心の駆動音を発する──これで安心するのはさっきまで死にそうな音を聞いていたからだ──部室と同型のエアコン、そして南側の壁に作られたトイレがある。その他、学生たちが勉強するための長机と椅子がいくつか並んでいる。

 本があるのは勉強スペースの北側で、背の高い本棚が立ち並んでいる。東と西にあたる廊下側と裏庭側にそれぞれ両面を使用できる大型本棚が六台並んでおり、二つの列を形成していた。二つの列の間は通路のように空いている。また、左右の壁際にも雑誌や文庫本が収納された背の低い本棚が鎮座している。

 ここからでは本棚が邪魔で見えないが、図書室の最奥──北側の壁際には個人で使うための机と椅子が揃っているのを知っている。

 何度か利用しているので、今さら改めて観察する必要もないのだが。

 見たところ、今はカウンターでイヤホンを耳にして勉強をしている図書委員の女子しかいないようだ。長い髪に怜悧な目つきのクールな雰囲気を醸し出しているあれは蕨野結華だ。クラスメイト兼柘植の二人目の彼女。一瞬だけこちらを見てきた。

「二冊借りたいから一冊探しなさい」

「はいはい」

 本のタイトルも著者名をアスマに伝えると、あたしたちは本棚の列へと向かった。学術書や自己啓発本など、ジャンルごとにまとまっているが、あたしが読みたいのは二冊とも小説だったので列の奥にある。

 一応、二冊とも前にきたとき見た憶えがあるので借りられていなければあるはずだ。そして、この学校の図書室は試験が近づかなければ利用者が殆どいないので大丈夫だろう。

 アスマと二手に別れて、記憶を掘り起こして本を目撃したあたりを彷徨く。本棚の並びは五十音順なので著者名と照らし合わせて……あった。本棚の一番上の段に目当ての本が納まっていた。

 まいったわね……。この図書室の本棚は無駄に段数があって高いので、小柄な私では届かないのだ。ジャンプすれば取れるだろうが、巻き添えで他の本も落ちてきかねない。

 踏み台を使えばいいが、確かカウンターのすぐ傍にあったわね。椅子はすぐ後ろにあるけれど、アスマに取ってもらった方が早そうだ。高いところにあったらアスマに取ってもらうというのは、テキトー言っただけなのだが……仕方がないか。

「アスマ。カモン」

 本棚の列の最後尾で裏庭の方向をぼうっと見つめていたアスマを呼び寄せる。

「何か?」

「あれ、取って」

 目当ての本を指差すと、アスマは背伸びして本を抜き出してくれる。

「ありがと」

 受け取りながら礼を言う。恩着せがましいことを言われると思ったのだが、どういうわけかアスマは面倒くさそうに顔をしかめていた。

「ミノ……ちょっときて」

 アスマは先ほどまで突っ立っていた場所へ向かうと、裏庭の方を指差す。いや、指はやや壁の方向を向いているので、おそらく壁際に並ぶ席の一角を示しているのだろう。

 促されるままにアスマの隣へ移動した。彼女の指差す先で一人の女子生徒が椅子に座り、机に突っ伏している。爆睡でもしているのかと思ったが、睡眠中の生徒をアスマが気にするわけもない。

 もっとよく見てみる。寝ているにしては体勢が少し変か。額を机にくっつけて、両手をだらりと下に垂らしている。そして特に気になるのは、

「起きなさい。もう閉まるわよ」

 呼びかけるも、予想通りの返答なし。あたしは近づくと首をしっかりと見た。……どう見ても索条痕よね、これ。

 垂れ下がっていた右腕の手首を軽く握って脈を測る。……脈拍なし。人肌ほどの体温もなし。

 あたしはアスマに告げる。

「ばっちり死んでるわね」

「あっちゃー」

 静かな図書室にアスマの間の抜けた声が響き渡った。

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