第四章 ロジックール・ライブラリー

夏、到来

 青春破綻者が発生する二つの説。一つは、偽っていた自分が青春という強烈な環境下に耐えきれずに発露してしまったという説。もう一つは、青春に侵されてパーソナリティを歪められてしまったという説。

 混迷極まるこの仮説をここ最近遭遇した青春を破綻者に当て嵌めて考えてみたが、よくわからなかった。

 阿久津理香が最初から歪んでいたのか、それとも青春の途中で歪んだのかなんてあたしには伺えない。柘植狛人が最初からおかしかったのか、日々の暮らしの中でおかしくなってしまったのかも知りようがない。園芸部の連中が悪ノリをしたのは、たまたまそういう奴らが集まっていたのか、青春に浮かれてしまったのかも判断がつかない。

 ここをもう少し調べなければ、あたしは一歩も動けそうにない。……いえ、研究を一歩も進まない言い訳にしているだけね、これは。

 自分を偽って青春に飛び込むことは青春破綻者に落ちることに繋がるかもしれない……。この研究の始まりはこれだったか。それがどうだ。自分を偽れば青春を謳歌できるかも〜、という中学のときからまったく変わらない答えに帰結している。

 結局、ありのままの桂川美濃が他人に受け入れられるわけがないという、実体験をもとにした確信があるからこそ、根本の解決方法も変わらないのだろう。そしてそれは、心の中に自分を偽りたくない、ありのままの自分で他人と関わりたい、という欲求が依然として燻っていることの証左でもある気がした。無理に決まっているというのに……。

 いや、でも少なくとも一人はいるか。……遊間薫子。あたしと違って青春に対する執着が皆無な女にして、どこまでもマイペースで能天気、面識のある人間の中でぶっちぎりで頭のおかしい女。

 果たして、彼女は懐が大きいからあたしを許容しているのか、他人に限りなく無関心だからあたしを許容できているのか。わからない。わからないが、一つだけ漠然と思っていることがある。

 仮にあたしが青春に飛び込めたとしても、その輪の中にアスマはいないのだろうな……と。そしてきっと、そのときのあたしは、あたしじゃないに違いない。


       ◇◆◇


 雨こそ少なかったもののどことなくジメジメしていた六月が過ぎ去り、灼熱の陽光が大地へと降り注ぐ七月になった。本格的な夏の始まりである。ここ数年の流れからいくと、おそらく九月の半ば……いや、下旬までは三十度オーバーの最悪の日々が続くのだろう。どっちが先に滅びるか、地球と人類による生存競争というわけだ。

 この時期、家から一歩外に出るだけで別世界に移動したのではないかと思うほどの熱波に辟易し、徒歩五分もかからない学校までの道のりだけで汗だくになってしまう。そして蒸し風呂のごとき教室で授業を受ける……と、いうようなことは流石になく、この四ツ川高校は全教室にエアコンが設置されているので教室はそれなりに快適な空間となっていた。

 放課後の生物部の部室。裏庭側の壁際に設置された横幅のある置型エアコンが、唸り声のような駆動音を発しながら涼しい息を吐いている。大きさは申し分ないが、リモコン操作も不可能な古い機種ゆえか出力が微妙に弱い。とはいえ、教室一部屋を賄う分にはさして問題はなかった。

 部室にやってきた直後なのでまだ部屋全体は涼しくないけれど、私の定位置にあたる場所はエアコンの正面なので風がガンガンに当たって心地がいい。佐渡原が気を利かせて予め点けておいてくれれば立派なのだが、あのボンクラ教師にそんな期待をするのは愚の骨頂というものだろう。

 天井を仰ぎながら風を浴びていると、扉ががらっと開いてアスマが入ってきた。期待感に胸を膨らませていた彼女の表情が絶望に染まる。

「まだあっついじゃん……」

「今きたばかりなんだから当たり前じゃない」

 ため息を一つ吐いたアスマは自分の定位置……あたしから廊下側に四歩ほど離れた真横の席に座った。

 しばらくの無言タイム。いつもは沈黙を彩っている水槽のフィルター音は、エアコンの駆動音にかき消されて聞こえない。

 唐突にアスマがこちらを向いてきた。

「ミノ。場所代わって?」

「嫌よ」

 そろそろ言ってくると思った。あたしとアスマの位置はエアコンの口の直線上にある。そしてあたしがエアコン寄りにいる関係上、風があたしの身体でシャットアウトされて彼女の方まで殆どいかないのだ。ここ最近ずっと恨めしそうに見られていた。

「ここに座りたいならあたしより早く部室にくることね。別に誰の席って決まりはないんだし」

「私のクラスの担任、話長いから無理だよ」

「それは残念だこと」 

 私だって暑いのだ。ウサギ小屋の掃除は引き受けてやったけれど、ここは譲ってやれるわけがない。

 アスマは不満そうに唇を尖らせた。すると椅子から立ち上がり、こちらへ向かってくる。こいつに強引なことはできないのであたしから力ずくで席を奪おうという魂胆ではないだろう。仮にしてきても返り討ちにするけど。

 案の定、アスマはあたしの前を通り過ぎてエアコンの前に立つと、ボタンに手をかけてピピピと設定温度を三つも下げた。途端、ただでさえ大きめだったエアコンの駆動音がさらに肥大化し、苦しそうに呻き始める。ボコボコ、ガコガコと、内側で小人でも暴れているのではないかと勘繰ってしまうほどの大音量。口から黒煙でも吹くのではないかと心配になってきた。

「ちょっとアスマ! 二十八度から下げるんじゃないわよ! 故障したらどうするの!?」

「大丈夫だよ。どの教室のエアコンもこんななんだから、調子が悪いとかじゃなくてそういう仕様なだけだって」

 そう言って彼女はエアコンの真ん前を陣取り、屈み込んで顔に涼風を浴びている。

 この学校のエアコンは途中で故障して買い替えたものを除いて、全てこの部室にあるものと同じ機種なのだが、再三言うように年代もののため駆動音がうるさい。温風を吹いているときは比較的静かなのだが、冷房になるとまあやかましい。特に二十八度を下回ったときの駆動音は、聞く者の不安を煽ってやまない断末魔のごとき音量と不快感を誇っている。とても授業に集中できないレベルであるため、学校はクーラーの温度は二十八度を推奨していた。部活中にも適用されるとは言われていないが、いつか壊れるんじゃないかと思ってしまうほど苦しそうな声を上げるので二十八度より下げる者はそう多くないようだ。

 尤も、当然のごとくアスマはそのマイノリティの一員であるため、機械の悲鳴など何のそのといった風にエアコンのすぐ目の前でくつろいでいる。

 アスマの腰まで伸びた黒髪がふわふわ舞い上がって、毛先があたしの頬を何度もくすぐってくる。うっとしい。

「扇風機とかがあればいいのにねー。エアコンとの合せ技で二人ともハッピーになれるよ」

「あんたはまず、この長ったらしい髪を切りなさい。暑がりのくせに髪を腰まで伸ばして被害者面とか、誰にも同情されないわよ」

「床屋さんいくの面倒なんだもん」

 美容室ではないあたりが実にアスマらしい。煩わしく舞い上がっていた髪の数本を握る。ろくに手入れなどしていないだろうに、こいつの髪は相変わらず無駄にさらさら艶々していた。

「見てるだけ暑苦しいからあたしが切ってあげましょうか?」

「頭皮から毟り取られそうだから遠慮しておくよ」

 今握っている髪を引っ張って本当に毟り取ってやろうかと思ったがやめておいた。

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