山の音

石川ライカ

山の音

 黄色い生木のまわりを余白なしに塗りこめる青空、油絵のような有無を言わせないシッカリした青色だ。水色というにはもっと濃厚な、塗り込められた絵具の重さを感じる。途端に彼は青に塗り込められているのはこの放り出された普請中の骸骨であり、自分そのものなのだと思った。電車に乗って東京からやってきた自分はもうどこにもいない。あえて言うならば水彩画のようだった過去の自分を、いま彼は別世界をもって眺め返した。

 鮮明な青には薄暗い緑がよく映える。薄汚れた入道雲を彼は畏れた。車列が停止した時、下車しようと銀色の手摺りにふれた彼を弾き返した静電気がそこにも鱈腹溜まっているように思えた。しかし降り立ったからには歩かねばならない。彼は当てもなく二本の足を動かしていた。こんな辺鄙な所にもコンビニがあるものなのかと彼は驚いた。それは商店なのか民家なのかも判断がつかない、まるでそこに自生する建物のように彼を拒んだ。平らな駐車場には黒黒とした外車が停まっていた。彼にはその人工的な黒さがどこか安心として映った。霊柩車のようだ。いかにも顔が長くてスーツを着た親戚連中が車の形に造り替えられてしまったようにも思える。俊寛彼は視線を感じた。サイドミラーにぼやけた誰かの顔が写る。それに視線を合わせるわけにはいかない、彼は怖ろしくなったというよりは瑞々しく瞬発力のある動きで身体をターンさせた。彼はこうして街角の風景に拒絶されることに慣れてしまっていた。

 彼は青空を穢すために山に入った。しかし青空は樹々に遮られてその面積を減らすばかりか、むしろ枝枝の向こうから切れ切れとして彼を見つめた。彼は後悔した。焦って思考力を失った彼はともかく頂上に行きさえすればいいのだと結論を出してしまった。というよりも、彼は無意識の力に強く動かされてはいたが、おそらくは彼の目の前に突然現れた坂が岸田劉生の描くそれに似ていたことが彼にその道を選択させたのであろう。それは誰も上ろうとしない坂だった。むしろ、上られるものとしての坂から解放された現前する坂そのものとでもいうべきだろうか。彼は中学生の頃美術室で一人開いた画集にその坂を見た。もしそれからまた違った道のりを歩いてきた彼だったら、その坂と自身の過去にもっと充実した意味を持たせようとしたのかもしれない。彼は誰も上らなさそうだ、と判断しただけだった。

 坂を上り切るとその坂に身を隠すようにして一軒の民家があった。彼はただここにも誰も訪れはしないのだろうな、と思った。勿論そうであってほしいという気持ちがむらむら湧いていた。民家の中から物音がした。それは音ではなかった。サウンドと名状するしかない電子的な波だった。磨りガラスが細く切り分けられそれぞれが等間隔の隙間を空けるように並べられた小窓から、それはかすかにしかしはっきりと彼に届いた。それはノイズまみれのロックンロールであったろう。彼にとってはノイズまみれであることが救いだった。稚拙な指つかいの雑音こそがその民家の内部の情景を朧気に彼に伝えるのであった。しかし彼の薄曇りの頭はこんなもので感化されるようなものではなかった。彼の脳みそは瞬時にこれはロックンロールであると結論づけた。そしてそこにアメリカの体臭を嗅ぎ取った。彼はロックンロールも、アメリカ国旗の青も許せなかった。と同時にこの出会いをなかったことにするのが惜しかった。それらはかつての彼が美しいと思ったものに相違なかった。背後で猫が鳴いた。ニャーという響きに彼は持て得る限りの正気を委ねて走り去った。

 寺に至り仏像を見るともなく見る。勝手な批評を加える。仏像の中に納められたエレキギターの観念が彼につきまとう。夜に山に登ってはいけないと彼は昔から教えられていた。またそれを彼に教え込んだのは他ならぬ彼自身だった。暗くなって引き返さなくてはならないと気づいた彼ははじめて背後を振り向いた。そこにはただ薄墨で視界一面を浸したような暗闇があるばかりであった。彼の頭の上には薄橙の半月が乗っかっていた。アームストロング大尉が手を振っている。真っ黒なヘルメットのむこうでお地蔵様のように笑っている……


――刹那、彼と全てはピカッと照らされた。彼の瞳は一度きりのシャッターとして彼と樹々の間に収まる闇を写し取った。天球型の黒い青空がポッカリ被さっていた。やがてやってくるであろう轟音を彼はいつまでも耳を澄まして待っていた。

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山の音 石川ライカ @hal_inu_

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