奏和音と香憐蓮

 部屋もだいぶ広くなった。

 明日には引越し業者がやってくるという夜になって、ようやく当初の予定に追いついた。本当ならふた月前には片付いてるはずのとこ、いろんな些事に引っ張り回されて、何度も明日が伸びてった。

 長いようで短い603号室の暮らしだった。長かったことは、梱包のダンボールがいくつも必要だった点から伺い知れる、短かったことは、そうしたダンボールのうち、越してきてからついに開封されることのなかった数に証明される。サービスルームの奥にいくつも埃を被ってた。

 けれども入退居に際して未開封のボックスをそのまま右のベルトコンベアから左のベルトコンベアに移し替えるだけってわけにもいかない。荷物は体重とおんなじで増えてしまった分はきっかり減らすのが理想だ。それも可能であれば古びて使われなくなった老廃物の方から。

 引っ越しにまつわる大部分の時間はこうした断捨離の作業に割かれてしまう。何度も引っ越しを繰り返して手慣れた二人でも、こればっかりはどうにも時短が叶わない。転居後すぐには「物を増やさないでおこうね」と取り決めるのが、いつの間にかおざなりになってしまうのも、多分おんなじ理屈だ。

 思い出と実利との格闘――その苦戦から解放されたのが、やっと数時間前のこと。金曜からの連休のうち、ほぼ二日がこの作業に費やされた。まだ明日に本番が控えているけれど、夕食ののち、ひとまず二人は前祝い兼「お疲れ様」のワインをあけることにした。

 適度な疲労がほんのちょっぴりのアルコールに彼らを酔わす。

「もっと長く住む気もしてたけど」

「妥当だよ。お隣さんの顔もずいぶん変わったし」

「前に住んでたのは、何さんだっけ」

 やがて揮発してしまうアルコールと同様の、刹那的な感傷を、二人は味わう。

 渡り鳥のように移り気な彼らはいつからか、住む家も、またはその周辺環境のことも、単なる生活上の空間としか認識しなくなっていた。場所に思い出は存在しない。いや、存在したとしても、それを人生の拠り所とまでは位置づけられない。よりも、彼らにとっては、時間が流れる中で起こしてきたこと――会話や、経験や――そういったことの方がいくらも大切だった。

 終わりの夜、彼はこんなことを口にする。

「表札も外しておかないと」

「向こうのマンション、そのまま使える?」

「多分ね。だから『A』のプレートは探さなくて良さそうだよ」

 A?

 だけど彼女もふっと思い出す。

「ああ、識別記号がどうとか、言ってたね」

 たしか、ここに引っ越してきて初日に交わした会話だ。もうずいぶん昔のような気がする。よく覚えてるなあ、と彼女は感心する。

「でも田中さんがうんたらって話じゃなかったっけ」と彼女は続ける。

「そういう話もしてた」と彼は同意する。「名字には由来があるとか、そういう話」

「懐かしいね」と彼女は言った。

 彼はカシューナッツを一口つまんで、微笑んだ。

「あのとき君は」と彼は言った。「架空の物語にも現実的な筋道や道理が設定されてなければならない、というようなことを口にしていたけれど」

 彼女がうなずいたのを見て彼は続ける。

「そういうことは、創作活動に携わる人たちの常識であったりするの? というのは、あらゆる登場人物の名前や、バックボーンや、つまりそういった背景をあまねく熟慮しようなんて、僕には途方もない作業に思われて」

「作り手によるんじゃないかな」と彼女はあっさり答える。「創作活動っていったって、人それぞれだし、方法も『茫洋たる』だからね。なんだっていいと思うよ、実際」

「なんだか以前とは異なった意見のようだけど」

「多少は酔ってるし?」

 聞いて彼は微笑の強度を高めた。

「酔ってると、考えも改まる」と彼は白ワインの甘い香りを鼻孔に嗜みながら言う。「それとも経年変化ヴィンテージという可能性は」

「時間をかけて私の考えが変わってしまったというようなこと? たぶん、それはないよ。私は昔から、創作にはルールなんて存在しない、そんなのは作り手の自由にしたらいいって考えだから。

 だから私が考える創作の理屈というやつは、ただ私の考える理屈でしかない。そんなのに正しいも間違いもないし、聞き入れようが無視しようが、個人の勝手。もちろん私の方でも相容れない考えや表現には苛立ちを覚えたりぶつぶつ文句を言ったりする。でもそういうこと全部ひっくるめて個性でしょ。個性のない作品ほどつまらないものはないんだから、それでいいんだよ。

 もちろん最低限の技術や技巧や思考法や、そういうことは必修項目のようにも思うけどね。でもその考えさえ私の個性によるものだ。それよりもさ、こうやって誰かが喧伝する『こうするべきだ』『こうしてはいけない』を無考えに鵜呑みにするほど、危険なことはない。そういうことにこそ私たちは留意するべきだ。『そんなのはあんたの勝手な創作論に過ぎないだろ』って。

 そんな意見に苛まされるより、もっと自由にやるべきだよ。自由の結果世間に認められるかどうかは、逆説的だけど、それは結果論でしかないんだし」

 こうして一旦くだを巻いてみると、自分でも思いのほか酔ってることを自覚する。した上で、彼女は続ける。口が止まらない。口よりも上向きの気分の方が止まらないのかもしれない。とにかく彼女は続ける。

「創作物ってさ、どこまで行っても創作物なんだよね。どれだけ現実に近づけようとしても、創作と現実のあいだには、決して融合しない特異点が存在する、ので、以前私が言ったようなこと――名前と人物設定の関係――も、突き詰めてくと、必ずどこかで破綻する。

 だって、当たり前だよね。んだから。そこから矛盾や破綻を取り除こうとすれば、それは現実に起こる可能性のある出来事の問題提起でしかなくなる。もしくは既に現実で起こされたことの踏襲にしか過ぎなくなってしまう。そうすると性質的にはフィクションよりドキュメンタリーに近い」

「か、モキュメンタリーのような?」

「そうだね。でも三島由紀夫の『金閣寺』とか川端康成の『名人』のほうが近いかもしれない。あるいはアッバス・キアロスタミのような。彼は奇跡的にその試みを成功させたけど」

「誰だって?」

「映画監督」と彼女は言った。「大した事じゃないから忘れて。つまりそういう例外はあるにしても、原則として、創作物はあくまで創作物であって、どこまで近づけても決して現実にはなり得ないということ」

「君はずいぶん矛盾したことを言ってる」と彼は慎重に微笑みながら言う。「結局リアリティは必要なのか? それとも不必要なのか? 要するに君の『個性』における信条として」

「なにをもってリアリティとするかだよね。そして私の意見では、リアリティは『説得力』と訳されるようなことなんだ。嘘でもいい。事実と異なっていても構わない。それよりも納得が大事。その納得の過程に『田中さんの由来』のようなことがある。『田中さんの由来』はつまり事実に該当するわけだけど、どうしても事実確認の取れる情報の方が納得感は強まるからね。だからリアリティの裏打ちに事実という概念がよく用いられる。だからといって事実=リアリティではない。あくまでそれは『説得力』と形容されるような事柄だよ(ごく個人的な私見として)」

「じゃ、その私見の上で『A』の表札は、どう解釈されるべきだろう?」

「単にまるっきりのフィクションというだけだよ」

「いいのかい、それで?」

「多くの人は『トムとジェリー』を観ても、猫が喋るなんて嘘っぱちだ、なんて訴えたりしない。猫が喋るという虚構も自然と受け入れている。ね。投げっぱなしのフィクションだって、べつに、構わないじゃない。

 私の名字は『A』です。ああ、偽名使う人なんだな、本名は明かしたくないんだな。それで済む」

「世の中にはそれで済ませられない人もいるように思うけれど」

「そういう人たちは相手への信頼が足りないんだよ。作り手の側だとしても受けて手の側だとしても、ね」

 彼女はそれでパタンと閉じた。閉じられたことは長い歳月彼女と一緒にいたために彼にもわかる。表情、語感、目の置き所、そしてグラスを口に傾ける仕草。もうこれでこの議題は終わり。

 そしてとうとう彼女はテーブルの端に意識を向ける。そこには一冊の製本があって、彼女は彼の目にじめっとした視線を注ぐと、指でその製本をこつこつと叩いた。

 引っ越しの前祝いというような日に、なぜ二人のあいだで創作論がかわされたのか。それは603号室の初日と最後を一つに結びつけるという意味合いも無意識に働いてたかもしれないが、それよりも彼には明確な意図があった。

 彼はずっと避けていた。できるなら避けたまま明日を迎えたかった。

 でもとうとう現実が追いついた。彼の口から大きなため息が漏る。

「どうしても?」と彼は言う。

「せっかくだから」と彼女は言う。

 目頭をぽりぽりかいた。眠気があれば言い訳にもできた、けど、肩や首筋に漂うのは、これはまだ単なる酔い心地という程度だ。

「どこから?」と彼は諦めて言った。

 彼女は答える。

「もちろん初めから」

「わかった。わかったよ」と彼は製本を開いて、そこに書かれてある事柄を、声を出して読み上げた。「正直に言うよ。か……その……奏和音カノン、初めて会ったとき……から僕は……」

 けれどもそこで首を振る。

「駄目だ。やっぱり慣れない」

「テイク2?」

 その方がいいねと彼は言う。

 もう一度、小さく深呼吸をして、彼は頷いた。彼女がテーブルを叩いてやると、それがカチンコ代わりになって再び動き出す。

「正直に言うよ……奏和音」静かに切り出される。「初めて会ったときから僕は君の虜だった。一目惚れというやつだ」

「やだな、香憐蓮カレンくん。そんなこと、わかっていたよ」

「君の瞳は凛々しく、鼻は美しく、唇は柔らかだった」

「香憐蓮くん、私も同じ。あなたの瞳は清らかさ、その鼻は猛々しさを、そして唇は意志の靱やかさを表していた。すべて、貴方の相貌には貴方の内面が浮かんでいたの。私の心は燃え立った」

「美しかった」

「美しかった。他に何も要らないくらい」

「それなら奏和音、君はなぜそこまで苦しむ必要があるのだろう」

「香憐蓮くん、やめましょう、今はせめて味わわせて、私たち二人だけの……」

「いいや奏和音!」

 と彼は声を張り上げる。でも次の言葉が出てこなかった。頭ではわかってる、目でもそれを追っている、けど喉が拒絶した。

 彼の額にかすかに汗が浮かぶ。手で拭う。

「大丈夫。素直な気持ちで」と彼女が囁く。「もし素直に受け入れられないのなら、ワインでごまかして」

 促されるがまま、注いだばかりのグラスの中身を飲み干した。

「テイク3」と彼女が言った。


 香憐蓮「いいや奏和音! 僕たちは世間にも堂々と振る舞えるはずだ」

 奏和音「そんなこと、駄目よ。きっと迷惑になる」

 香憐蓮「迷惑とは誰に」

 奏和音「世間によ、香憐蓮くん」

 香憐蓮「君は僕たちの恋が、世間に顔向けできないというのかい」

 奏和音「そうじゃない……そうじゃないけれど、きっと迷惑には違いない」

 香憐蓮「迷惑か。迷惑だなんて。(大きく首を振る)いいや、もし世間が非難するとして、いくらでも騒がせておけばいい」

 奏和音「だって……そんなのいけないわ」

 香憐蓮「いいかい奏和音、僕たちの愛は決して世間に顔向けできないことではない。ただ世間が迷惑と感じるだけなんだ」

 奏和音「同じことよ。同じことじゃない! 迷惑も、世間に顔向けできないことも、どちらも一緒のことよ……(さめざめと泣く)」

 香憐蓮「(泣いている肩を抱き寄せながら)いいや奏和音、世間の迷惑ということは、何が正しいか、何が間違いか、誰にだってわかりはしない。もしも世間の方が狂っているとしたら、その世間が迷惑を被る僕らの恋は、人の道理の正しいということになるではないか!」

 奏和音「世間が狂っていると、香憐蓮くん、あなたはどうしておわかりになられるの!」

 香憐蓮「わからないさ。わからないから貫くべきなのだ。世間に顔向けできぬといことは、僕たちにしても恥ある行為と認めてる、しかし迷惑だということは、時代や、社会や、そうした渦中にいる者の狂っているか狂っていないかによるんだよ。僕たちが一方的に狂っていると決めつけてしまうわけにはいかない!」

 奏和音「そんなの詭弁だわ! (大きく振り返って)それなら世間が正しいと証明されてしまったら、どうするの。私たちの方が狂っていたと明らかになってしまったときは!」

 香憐蓮「奏和音、我々が狂っていると、一体誰に判断を仰ぐのだ!」

 奏和音「世間よ、大衆よ、知識ある人々よ! 決まっているでしょう、香憐蓮くん!」

 香憐蓮「そんなはずはない。それならガリレオはどうなった。コペルニクスはどうなった。我々が狂っているかどうかの判断を、今の世間や今の人々に委ねることは、奏和音、できはしないんだ。その正誤は、いつだって百年後に正しく機能する。今ではない!」

 奏和音「でも……いずれ明らかになるわ。私たちは狂っていて、その先でも狂ったままにされるのよ」

 香憐蓮「もしそうなったとしたら、それで構わないじゃないか。いま、我々が狂ってい、その癲狂が未来にも預けられるなら、奏和音、そのとき僕たちは歴史の汚穢にさえなりはしない、そうなる前に歴史に消し去られるのだ。誰も覚えていない闇の中だ。なにも恐れることはない」

 奏和音「ああ、香憐蓮くん、あなたは残酷よ。狂っているかもしれないと怯えながら、それでも正常を信じろと仰るの」

 香憐蓮「そう。この世の中で、僕たちだけが正常だ」

 奏和音「狂っているわ、そんなことを口にする人ほど!」

 香憐蓮「それならば、やはり世の中全てが狂っているじゃないか。誰もが自分だけはまともだと考える。しかし彼らは自分の正しさを、一体どうして証明し得るのだ」

 奏和音「だって、世間がみんな同じ考えならば……」

 香憐蓮「それこそコペルニクスだよ! 狂人たちが集団で正常を訴えて、真に正常な少数を迫害した歴史! まともなのは彼だけだった。

 ねえ、奏和音。社会、時代、世間、そうしたものの中に潜む価値観は、相対的でしかない。つまり彼らの『まとも』や『狂っている』は唯物的に存在しているわけではない。百年後には別の正しさを鼓吹する。だからこそ、僕たちは僕たちの心に従えばいい。その心に従って、恥でない道の正しさを、僕たち自らが突き進み、堂々と世に示してゆくしかない。さあ、奏和音、ともに歩もう、怯えている暇があるのなら」

 奏和音「でも……でも私……私……。(感極まって)嗚呼、香憐蓮くん! あなたはなぜ香憐蓮くんなの!」

 香憐蓮「いいや奏和音、ただ一言、私を恋人と呼んでくれればいい! そのとき私は香憐蓮でなくとも構いはしない!」

(手を胸に、もう一方の手は天高く。)

(スポットライト。照明が切り替わるまで姿勢を維持。)


 ふう、と彼は息をつく。ちょっとした有酸素運動の疲労があった。握っていた製本を、テーブルの上にぽんっと投げる。

「改めて訊くけれど」と彼は慎重に言う。「なに、これ」

 彼女は冷静を戻して答える。

「劇中劇」

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