二人で泳ぎにいこうよ

石川ライカ

二人で泳ぎにいこうよ

 セックスの後の人間たちがひらく得も言われぬあの匂い。嗅いだ途端に理性が忌避するかのようでいて、それは忘れ去られていた何かなのではないかと説得させられそうにもなる。どんな言葉も当てはまらない、人間の内側がめくれあがって何かを放出してしまったかのような、におい、としか言えない何か。このにおいにいくらかでも姿を与えようとする耳馴染みのいい形容詞はこのにおいの前では名乗ることすら許されない。

 しお。

 鹽。

とだけここでは書いておこう。かつて嗅いだ瞬間には紛れもなく異臭であったもの。おそらく覚えていない、染みついたままの記憶のことだ。ガソリンスタンドも海もそのにおいを纏っていたことを忘れていたのかと摑みかかるように想起させる。ニシンの産卵。海が白く染まる。無感動の睾丸が踊っている。少年は自転車に跨り、疾走する無感動の睾丸となった。


 梨沙は彼氏の家で目を覚ますとまだいくらでも眠れると思った。花粉症の香りが鼻をくすぐる。部屋の中に差す午後一番の光はきらきらと飛沫を跳ね返し、部屋を何か朧げなもので満たす。もう少し眠ろうか。隣に見える剝き出しの肩甲骨は目覚めているのか死んでいるのかもわからない。ただ暖かな日差しがその盛り上がった輪郭を綿毛のような光で包んでいる。夢だったのだろうか、生々しいにおいがあったことをただ覚えている。生き物が死んだにおい。いや、生き物が生き物でなくなって、液体になってしまったような、自分がそれを啜って生きていることを思い出してしまったような居心地のわるさ。たとえば子供の頃に連れていってもらった動物園とか、海水浴とか、そういう「たのしみ」にはいつだっておかしなにおいが付き纏っていた。生き物はくさいのだ。でもそれをくさいというのは何だかいけないことのような気がしたし、一番嫌だったのは何よりも朝早くに起こされて冷たい車の助手席で速やかな仮眠に努めなくてはいけないことだった。

 毛布というにはあまりにも悲惨な、薄いタオルケットを隣の丘から奪い取り、梨沙は外の光から世界を切り分けた。自分のにおいで満たされた蚊帳のような空間ができあがる。そうだ、何よりも忘れられないにおいがあった。動物園に行くにも海に行くにも必ず経由しなければいけない早朝のガソリンスタンドだ。鼻をつまみつつもどこか背徳的な気持ちにさせられるガソリンのこのすえたにおい。


「まだ寝てていいよ」

「……いま、どこ?」

「いつものスタンド。つまりは家から4キロくらい。まだしばらくかかるよ」


 梨沙はふたたび助手席に身を沈めた。エンジンがかかる。ドアのガラスから直接こめかみへとこまかな振動が伝わってくる。かすかに潮のにおいがする。大昔には近所の海で合戦があったという。黒い馬が海の上を走った。イルカもたくさん跳ねた。イルカが泳いだ方向で戦の行方を占ったという。たくさんの人々が死んでいくのに、こんなに心ときめく風景でいいのかと不安になるくらいだった。でも、死ぬとか生きるとか、いまは上手く考えることができない。想像できるのは潮の匂いだけ。みんな死んでしまった、そういうにおいなんだろう。梨沙は躍動する馬たちの黒ずんだ筋肉を思い描こうとしたけれど、上手くいかなかった。かわりに昨日の夜こむらがえりを起こしてしまった自分のいたいけなふくらはぎを撫でる。ベッドの上で慌てていたら電気を流したカエルの筋肉みたいだと言われた。そういう男だ、と思ったが男たちとはそういうものなのか? 途端に問いが複数形になってしまったので梨沙は考えるのをやめた。セックスの後のにおい。子供の頃のガソリンスタンドのにおい。嗅いだことのない、たくさんの人が死んだ海のにおい。私はどこへ行くんだっけ?


「どこって、暖かくなってきたからプールに行きたいって言ったのは梨沙じゃん」

「そんなこと言うかなぁ。覚えてないんだよね」

「昨日は一日中家にいたわけだし、俺もたまには遠出もいいなと思ったよ。まぁ、いい天気のせいで今は渋滞に捕まってるけど」

「でも、水着は?」

「ああ……そうか、泳ぐには水着がいるのか。まぁどこかで買えばいいんじゃない?」

 ――そうだ、この会話のどうしようもない軽さだ。いや、もっと正確に言うならば、私たちの居心地の軽さだ。突然プールに行くことになって車を走らせていることになぜ理由がないのだろう? プールの塩素の香りがつま先から私の記憶を淘汰していく。するすると車は進み、海水浴が、鹽が、馬たちが絶滅する。疾走する無感動の睾丸。在りし日の記憶。私たちがまだ思い出さなかった頃。ふたたびこむらがえりの予感に私は捉われる。

 なんとしてもこむらがえりを止めてはいけないと思い、梨沙は車の窓を開け放つ。四つともだ。途端に見えないはずの花粉が流れ込み、対流し、逆流し、閉じ込められていた秩序を崩す。見えなくても、私にはそれがわかるのだ。カエルの筋肉がぴくりと反応する。大気の濁流を踏み鳴らして、激震が背後に迫る。たしかに、みた。黒々と光る巨大なものが無限に続く春の車列を追い抜いていく。ごうごうと、地響きそのものが過ぎ去っていく。前へ! 前へ! この車列の彼方にあるのがどんなプールか梨沙は知らない。律儀に縁取られた聖なる四角形か、はたまた蛇のようにとぐろを巻く高慢な楕円か。土足で、いや蹄鉄の大群がそれを渡渉する。

「まぁ、たまには泳ぎに行くのもいいかもね」

 梨沙は助手席でかすかに微笑んだような、また眠っているようでもあった。

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