夢の話

えんがわなすび

最後尾

 これは夢だな、と気づいたのは、時々見えている景色がノイズを走らせたように歪んだからだ。


 夢の中で夢を見ていると自覚することを、明晰夢という。

 その感覚を初めて味わった俺は、なるほどこれが噂のと感動半分、異質感半分を覚えた。異質感と表現したのは、夢の中はなんというか……ものすごく美味しそうな見た目の料理が、食べてみると全くの無味無臭だったような気分になったからだ。

「明晰夢って本当にあるんだな」

 わざと声に出してみる。普段の声と何か違っていたような気もしたが、もしかしたらそんなことなかったのかもしれない。


 周りを見渡すと、何かの集会の場のようだった。

 少し遠くにお立ち台に上がってマイク前に立っている男性。その男性に向かって大勢の人が列をなして話を聞いている。ちょうど学校での全校朝礼みたいな雰囲気だ。俺はその列の一番後ろに並んでいた。

 変な夢だな。学校なんてもう何年も前に卒業しているのに。

 マイク前の男性は距離にしてそこまで離れているわけでもないのに、その顔に黒い靄をかけたようにはっきりとしない。

 マイク越しに何か喋っているようだが、こちらもどこか広い場所で大勢の人間がひそひそ声を抑えて話し合っているような、そんな明瞭としないノイズのような音が先程から聞こえるだけだ。

 明晰夢とはいえ、所詮夢はこんなもんか。

 そう思った、時だ。


 ざりっ


 頭の後ろ、背中側から何か聞こえた。

 例えば、砂地を摺り足で歩いているような、そんな音が。


 ざりっ ざりっ


 背中の方から、近づいてくる。


(なんだ……?)

 音は始め小さくて聞き取りづらいものだったが、それが徐々に大きくなっていく。まるでゆっくりと確かめながら距離を詰めるように。

 それに呼応するかのように、背中から、足元から、得も言われぬ恐怖が徐々にせり上がってくる。振り向こうにも首が固定されてしまっているかのように動かない。目線は先程から見たくもないのにマイク前の男に注がれている。

 同じように並んでいる集団は音が聞こえていないのか、それとも聞こえていて自分のように振り向けないのか変わらずじっと前を向いたままだ。

 その間にも音は近づいてくる。世界にノイズが混じる。


 ざりっ ざりっ ざりっ


 怖い、怖い、怖い! なんだあの音は!

 なんでもない音のはずなのに、それが背中を撫で、足を絡めとり、首元を締め付けるように恐怖が襲ってくる。

 嫌だ、来るな! ……そう、これは夢だ!

 確か明晰夢は、夢の中で覚めたいと思えば好きな時に起きられるんじゃなかったか。俺は無意識に後ろから近づいてくる音に気づかれないよう、心の中で必死に叫んだ。


 覚めろ!

 ざりっ

 覚めろ!

 ざりっ ざりっ

 覚めろ!

 ざりっ ざりっ ――ずりっ


 すぐ耳元で、誰かの生暖かい吐息が嗤う。少しでも身じろぎすれば当たってしまうような、お互いの肌の温度が感じられて眩暈がした。

 俺は視線すら動かせなかった。代わりに歯がガチガチと鳴っている。

 もう、見つかっている。

 見もしないのに、俺はそれが女だと分かった。前髪をぞろりと長く垂らした女が俺のすぐ耳元に顔を近づけて嗤い、俺の背中に包丁を突き付けている。

 女が手にゆっくり力を込めた。包丁が俺の服を裂いてゆっくり突き刺さる。刃の先端が肌を、つ……と刺す。

 嫌だ! 殺される! 死にたくない!

 女が一層楽しそうに嗤う。生暖かい息が耳を犯す。包丁がさらに深く肌に突き刺さり――


 覚めろ!!


「は――……!」

 目を見開く。心臓が壊れたポンプのようにドクドクと脈打つ。呼吸が浅く、息苦しい。

 目が、覚めたのか……

 危機一髪だったと、ごくりと唾を飲み込んだ。カラカラに乾いた口内が張り付いて気持ち悪い。あんなにリアルな殺されそうになる夢は初めてだった。

 が、気づけば俺は大勢の集団の列の最後尾に並んでいた。

 まさか夢から覚めていないのかと脈が狂ったように打つが、よく見れば集団の前では見知った上司が手元の資料を読み上げていた。

 そうだ。今は会社の朝礼で申し送りの最中じゃないか。

 はーっと息を吐く。つまるところ、朝礼中に居眠りして悪夢を見ただけだった。脱力する。

 いくら寝不足だからってあんな――


 にちゃり

 耳元で誰かが口を開く。生暖かい吐息が肌にかかる。

 前髪をぞろりと長く垂らした女が、嗤う。


『待ってたよぉぉ』


 女が、嬉しそうに包丁を俺の背中に突き立てる。

「なんで……夢じゃ……」

 息が耳を犯す。


 捕まえたぁ!

 嬉しそうに嗤う女が、俺の背中に包丁を勢いよく突き刺した。

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夢の話 えんがわなすび @engawanasubi

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