頭ならびに肚

石川ライカ

頭ならびに肚

 動いたり、寝そべったりする。それは何でもないことだ。人間の生活というのはすべからくそんなものだ。人によって気兼ねなく寝転んだり、悶々と天井を見つめていたりするだけだろう。俺だってそうだ。別に日常生活についてとやかく語ることなんてないし、そういうのを忘れたいから横になるのだ。昔の教科書に載っていた彫刻、「考える人」だったか。あれも気難しいポーズでさも難しいことを考えています、みたいな哲学者気取りの大したこともない奴なんだろう。むしろなんでお前は裸なんだ、と問いたい。こんなに磨き上げられた肉体にも飽き足らず、わたくしは難しいことまで考えていますよとでも言いたいのだろうか。俺の経験上、筋肉を自慢してくる奴にろくなやつはいない。でも、自慢されなくても、他人の筋肉っていうものはなんでこっちをああも情けない気持ちにさせるのか。別に生活するうえでそんな大した筋肉いらないだろうが――


 男は、寝そべったまま考えていた。自分の生活、仕事。何一つ自信はないが、別にやましいところだってない。俺はじゅうぶんがんばっているはずだ――そうは思えども、気になるのは、寝そべったときに存在感を増してくる、この、腹。そんな時に、腹が出てくる。ただ生きているだけなのに、腹が出てくるのはなんだか合点がいかないことだ。腹をつまんでみると、やはり、前より大きくなっている気がする。「前」というのはいつのことだか覚えてやしないが、なんだって今夜はこの腹がこんなに気になるのか。

――あんな安酒をあおるべきではなかったな――

――珍しくもない中国かインドネシアのウイスキー、よく思い出せない――

 頭が痛い気もするが、意識は冴えている。最近の流行だとか言って、ウイスキーによくわからないオイルを入れられたっけ。金属のような舌ざわりだった。カロリーはどれくらいあるんだろうか。いや、腹を膨らませるのはカロリーじゃない、もっと他の膨張的な何かだ。体をよじらせると、肩のそばにヒヤリとした感触があった。女だった。女だったなどと書くのは、この男にそれ以上の記憶――つまりは情報――がないからである。そして特段付け加えるべき挿話もない。この女とはどこで知り合ったんだっけ? 大方いつも飲んでいる路地の隙間の穴から這い出てきた女の一人だろう。男は昨日の夜が色あせているような実感にとらわれながら、チタンフレームでコーティングされた女の二の腕をベッドのわきに押しやった。薄暗闇の中、手探りで見つけたカーテンを引っ張ると、女の二の腕に[TAKEDA/Moderna Arms]の刻印が浮かび上がった。夜の光が肌を刺す。男の部屋は案外上層にあり、その点では立派なものだが、景観は到底誇れるものではなかった。窓いっぱいに『澁爺Hikaero』の電子スポットが煌めいている。字体が嫌いだ。90年代のSteam文化でデカい顔をしていたジジイたちの口臭が怨念のようにまとわりついている。どこまで開発すれば気が済むのだろうか。空腹で目が覚めてしまった夜中のような街を見下ろしながら、男は悪い予感にとらわれた。

 腹。さっきよりも膨らんでいる。

 目が覚めた時にはこんなに厚みを感じていただろうか。腹をつまんでみると、余分な脂肪そのものが腹の全体であるかのような、付け加えられたものに全存在を奪われてしまったかのような居心地の悪さがある。トントントン、と指で肉を弾く。コポコポという返事が聞こえた気もするが、この中身は空洞なのだろうか。そうなると、人間の中身は、俺の中身は空洞ってことになる。たとえ気味の悪い液体が入っていたとしてもダメだ。そしたら俺はただの袋になっちまう――ドンドンドン、とドアを叩く音がした。玄関の向こう側に、見知らぬ男がいた。

 こちらから声をかけても、うんともすんとも言わない。一応紳士的な恫喝も試みたが、沈黙がドアの隙間から流れ込んでくるばかりだった。なんて理不尽な夜なんだ。たまらなくイライラしていると、背後で物音がして、トイレから馬が出てきた。馬の腹を凝視する。黒々と光る腹だ。なんて健全なんだ。奴が草食動物だからか? 俺だってたまに飲み過ぎるだけで体に悪いものはそんなに食べていないはずなのに。毒。馬は煙草を飲みながらこっちをじろじろと眺めている。目の前の馬よりは玄関の男の方がまだ気が紛れるような気がした。


 ひかえろ。

 玄関の向こう側にはしわしわに枯れ切った爺がいた。スリースライド方式の錆びついたドアが開け放たれ、男と爺はドアがあったはずの透明な空間を挟んで対峙した。自己主張が激しい壊れかけの蛍光灯の下で、爺の眉間にはギリシア文字の「Π」のような文様が苦々しく彫りつけられているのが見えた。奴は告げた。

 お前の肚にいる。

 すばらしいものが生まれるんだ。

 それは純粋で、完全な肉なんだ。

――俺の拳の筋繊維がぶるぶると震えた。


 すべてが終わった後に、男は粉々になった世界を見渡して、こんなものだったかと思う。自分の住んでいたビルは大きく抉れ、その傷跡がカラフルな電子スポットに照射されている。蠅のように飛び回るヘリコプター。統制されていない肉。ただ生活するだけで、ゆるやかに膨らんでいく身体。このたやすく成長する腹。これこそが俺なんだ。俺たちは無意識で増殖している。一人で怠惰に染まろうとしても、増殖の意思は内部で醸成されるだけだ。男は金属でない方の腕で腹をさすった。それは成長をやめたようにも感じたが、元々信じられないくらい大きかったのかもしれなかった。治安部隊のサイレンとともに、どこからともなくアド・ニュースの言葉が流れてくる――新人類の誕生です!

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