ピンク姉さん

くにすらのに

ピンク姉さん

「紙がない……」


 急な腹痛に襲われて駆け込んだ深夜の公園のトイレには紙がなかった。ストックくらい置いてあるだろうと個室の中を見渡してみるがそれらしきものはない。


 小さなトイレには個室が一つしかないから、ここになければないですね状態だ。


「……水道で洗うか?」


 幸いなことに公園が暴走族のたまり場になっていることもなく、外には人の気配はない。今なら丸出しでも誰かに目撃されることはないだろうから、かなりお行儀は悪いが冷たい水で尻を洗ってパンツとズボンを濡らせばまあまあ無事に帰宅できる。


「誰かいませんかー!」


 大声というほどではないが、このトイレ全体に響く程度の声量で人を呼んでみる。誰かいれば紙を持ってきてもらればいいし、誰もいなければ作戦決行だ。


「赤と青、どっちが好き?」


「え?」


 俺は間違いなく男子トイレに入ったはずだ。うっかり女子トイレに入っていたならごめんなさい。いや、どんなにピンチだとしても長年慣れ親しんだ男子トイレのマークを間違えるはずはない。


 呼びかけに応えたのは若い女性の声だった。


 赤と青。もしかして紫ババアってやつか?

 だけど声はババアじゃない。声優さんだといつまでも声が若々しい人はたしかにいる。深夜の男子トイレに女性声優が?

 まだ妖怪がいる方が合点がいく。


「赤と青、どっちが好き?」


 幻聴ではない。はっきりと赤と青どちらが好きかという質問が聞こえている。


 赤と答えると血祭りにされて、青と答えると血を抜かれて全身真っ青になるんだっけか? 紫と答えると……あれ? どうなるんだ? 助かるんだっけ? それとも赤や青よりもひどい目に遭う?


「赤と青、どっちが好き?」


 いつまでも答えない俺にいら立っているのか口調が強くなっていく。このまま沈黙を貫くのが正解だとしても、声のプレッシャーに負けてしまいそうだ。


 ケツは汚れてる。迫られた二択は血祭か全身真っ青。積んだ。どっちの方が痛いんだ? たぶん血祭だよな。最悪、青って答えよう。

 あ! 紫は全身あざだらけになって死ぬまで殴られるとかだろ。うん。どういう方法かわからないけどまだ血を抜かれる方が痛みはなさそうだ。


 沈黙or青。もはや生き残る術はなさそうだが、最後まであがく方法を見つけた途端に走馬灯のようなものが頭に浮かんだ。


 思い返せばやり残したことが多い。大人になってからおっぱいを揉んだこともない。こんなことならプライドを捨ててピンクなお店にでも行っておけばよかった。


「ピンク…………は?」


 口から漏れた赤でも青でも紫でもない色に自分で驚く。選択肢にない回答をしたことで怒りを買い、謎の力で呪い殺されるのかもしれない。


 女の子に告白する勇気もなければ、ピンクなお店に行く度胸もない。そんな俺にはぴったりな死にざまだ。ケツだって汚い。


「やったー! 絶対逃がさないから!」


 背中にずっしりとた衝撃が襲いかかった。重いのに不思議と柔らかくて嫌な感じがしない。


「ピンクってことは、私と恋愛したいってことだよね?」


 耳元でささやく声は赤と青のどちらが好きかと問うたものと同じだった。今、背中には紫ババアがいる。振り返ればその顔を拝むことはできるが、声と顔があまりにもかけ離れていたら絶叫する自信がある。そうすればきっと俺は呪い殺される。


「ね? そうだよね? 私のこと好きってことだよね?」


 声は可愛い。これでババアなんてあり得ないと思えるくらいに瑞々しく聞き心地が良い。


「誓いのチューしよ。チュー」


 全身の血を抜く妖怪とチューなんて世にも恐ろしい。明らかに罠だ。受け入れても死、断っても死。それなら最期にチューして死ぬ方がマシか?

 ギリギリの選択を迫られて、意を決して声の方を振り向いた。


 相手も俺の顔を覗き込むような形になり、心の準備が整う前に唇と唇が重なる。


 気が付くと。新品のトイレットペーパーが個室の中に落ちていた。正確には、置かれていたという方が正しい。転がって広がることなく、綺麗に。


 きっと腹痛が辛すぎて悪い夢でも見ていたんだ。


 そういう風に納得して個室をあとにした。全身にピンク色の唇の跡が付いていることを知るのは、もう少しあとの話だ。

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