リスタート

日出詩歌

第1話

 スタートラインに私はいない。それなのに、こんなにも胸がどくどくと鳴っている。

 観客席から夫の雅人が小さく見える。手を振る私に気づかないくらい、彼はきっ、とコースだけを睨みつけていた。

 年季の入った小学校には『第75回町民運動会』の垂れ幕が下がる。

 種目は100m走。大人の男達がスタートに横一列を成す。その端で、雅人が義足を着けて構えていた。

 

 一年ほど前、雅人は右脚を亡くした。

 轢き逃げ事故であった。

 横断歩道を渡っていたところ、自動車がそのまま猛スピードで突っ込んできて撥ねられたのである。

 意識が朦朧としている彼に代わって医師から私の元に差し出されたのは、切断手術の同意書だった。このままでは壊死してどの道使い物にならなくなるらしい。

 同意書に名前を書こうとして、一瞬躊躇う。

 雅人は短距離走者だった。何度も大会で好成績を残し、テレビにも度々出演した事もある。

 一心不乱に走る彼を助けてあげたいと思ううち、いつの間にか私の人生も彼のサポートの為に成り立っていた。彼の嵐みたいな人生に巻き込まれ、優雅でのんびりとした生活を送ることは叶わなかった。でも、悪くはなかった。

 その彼が、私達が積み上げてきたものを、この手で壊す。

 けれど生きていられるならそれでも、と私はペンを取った。

 手術が成功した後、雅人の病室の扉に指を掛ける。無事で良かった、と抱きしめたい。生きているのならそれでも良かったじゃない、と心に安堵が積もる。ドアを引くと病室にあったのは朽ち切った雅人の姿であった。

 清潔な白い布団の下には、筋肉が引き締まった脚はない。それだけで、途轍もなく大きなものが欠けていた。そして雅人の、心に穴が空いて、虚無に沈んでいる顔。私は彼の魂を安易に断ち切ってしまった。

 ベッドで俯く彼に、私はしばらく声を掛けることができなかった。

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