この世界のゴールには

平乃ひら

この世界のゴールには


 あと一歩でゴールする。

 その意味をどう捉えるかはその人次第だが、私にとってそれは現状を変えうる唯一の手だった。ひやりとしたコンクリートの床、するりと髪を抜ける突風もかくやという風。靴を脱いだ私にとってそのどちらも刺さるような冷たさと刺激を与えてくるのだが、今となっては些細な問題だと断言できた。

『ゴールを迎えた人間はどこに行き着くのか』

 彼女は私にそう質問をした。私は答えられなかった。いや、きっと答えた。だけれどもそれは彼女が求めた答えではなかったのだろう。私達にとって虚無に近いこの世界において、彼女だけが唯一見出したその先の事――

 ――知りたい、と願ってしまった。

 ゆるりと、柵を握る指の力を弱めていく。一歩進めば奈落の底、とまでは言わなくとも、さして変わらぬ未来が待ち受けていることだろう。私が知りたいのは待ち受ける未来の、その先。身体が重量に負けて潰れて砕けて血をそこら中に散(ばら)蒔いた後、『私』がどうなるのか。そしてそれを知った後、あの子にどうやって伝えるか、その二つを課題として、私はこの身を宙に任せようと思う。

 それが私の生きた意味かもしれないから。


 彼女との出会いは唐突な昏倒からだった。

「あ」

 という声と共に、私は自分の視界がブラックアウトしたのに気付く。かといって真っ暗闇の中でバランス良く立っていられるほど身体能力が高い訳でもない、どちらかといえば平均的な私にとってその暗黒は割と致命的だったので、膝からというより真っ直ぐ後ろへと倒れていく。

(マンガの世界……!)

 実際、そんな倒れ方をしたら後頭部を強く打って大変なことになるだろう。学校の廊下といえど決して柔らかくはない。というか堅い。後頭部の骨が耐えられるだろうか?

 いや無理。頭かち割れる。

 そっかーと痛みを感じる前に納得することにする。自分の人生ココでお終いってことか。思えば短い人生だった――

「――っと、危ない」

 背中越し、妙に柔らかい感触を覚える。馬鹿な、地面はこんなに柔らかかったのか。まるで包み込むマシュマロみたいな感触に安堵するというか、そのまま布団にダイブしたのかなと勘違いしそうになるものの頭を動かして正体を見極める。どうやら地面への危険な着地はせずに済んだのだが、代わりに誰かの巨大な胸の中へ落とされたようだ。

「もが」

「人の胸の中で喋らないでくれる?」

「ごめん、突然だったから柔っこさと優しさに負けた」

「負けないでもう少し踏ん張ってくれる?」

「ごめん」

 さすがにこれ以上は怒られそうだと察して、私は自力で立ち上がり、そして再びふらりとよろめいた。気分が悪い訳でも、アホみたいに浮かれている訳でもない。ただ身体に力が入らない。

「当てられたみたいね」

 辛うじて頭を上げて、改めて彼女の顔を見る。

 ガラス細工のような肌という単語を初めて使うことになるだろう。それほどまでに透明感のある肌、というよりかは存在そのものが希薄に感じられた。濃い色の黒髪は長く背中に垂れて、細い指先は私を抱えた形を保っている。細い瞳に高い鼻立ち、濡れているかの様な唇に、ほぅ、と小さく見蕩れてしまう。同じ黒髪と学校の制服なのに素材が違うとこうも変わるのかとしきりに感心していると、彼女は指を曲げてからくすりと微笑む。

「ああ、だからわたしからすぐに目を離さないのね」

「……? え、なに? ああ、助けてくれてありがと。思わず三途の川でバーベキューするところだった」

「変な喩えをするのね、あなた」

「昔からよく言われる」

 それが彼女――永久美玖とわみくと私こと静名美鶴しずなみずとの出会いであり、私が魔術というものに触れることとなる不思議な出来事の一端だった。


 肩ぐらいで揃えている髪の毛を左手の指先で弄る。

 使われていない教室の机は全部後ろへと追いやられ、私達は部屋の中央に椅子を置いて堂々と座っていた。放課後になってまでここまで来る生徒はまず居ない、ということを差し置いても少しは良心の呵責があってもいいのではないだろうか、という疑問も、そもそもが私自身なんとも感じてないのだから無意味な感傷だ。いや、傷一つすら心に付いていないな。

 放課後ということもあってやや夕焼けに近い空。彼女は訥々と語り出す。弄っていた指を止めて涼しげな声に耳を傾けた。

「私は永久、永久美玖よ。そうね、いわば魔術師と呼ばれる人間なの」

 訥々とつとつとはいったが、ずいぶん唐突なことを言い出し始めたなと眉をひそめる。

「ただ、野良のね。本来なら所属している組織が無くちゃいけないのだけれど、私は一身上の都合で野良。なので一人でずっと魔術の訓練兼実験を行っていたのだけれど」

「訓練はいいとして、実験? え、もしかしてあんな真っ昼間の廊下で?」

「うん、魔術を使って調べごと。魔力を放射して様々な感情溢れる学校内の事を知ろうと思ったのよ」

「なんでそんなこと」

「それでその魔力に『当てられた』のがあなた。静名美鶴さんよね。驚いたわ。まさか一般人が魔術の干渉を受けるだなんて考えてもいなかったもの。あ、そうか、魔術師が魔術を堂々と使わないのはそういう懸念もあったのね」

「待った。突然の魔術で胡散臭さが三段飛ばしでぐらいでうなぎ登りだけれど、一つ確認をしよう。本気で言ってる?」

「『炎よ』」

 ぼぅ、と彼女が立てた右手人差し指の先から蝋燭のような火が揺らめき立つ。

「コレが偽物だと思うなら、そういうことにしたほうが良いかもね」

「……火は本物ね。ちょっと見せて」

 彼女の袖から何か管みたいなのが出ているのならガスとかで火を維持しているのだと判断するが、試しにその右袖をそっと捲り上げても何もない。

「きゃっ、積極的」

「そういう意味でやったんじゃないけど」

「もちろん分かってるわよ。こういうのはお約束というものでしょ」

「出会ったばかりの人間にお約束をすんな」

「で、偽物? 本物?」

 一瞬ぐっと答えを出すのに踏み留まってしまうが、耐えたところでその答えが変わる訳でもない。

「……本物。本物よ。炎以外に何が出せるの」

「私程度じゃ簡単なイメージのものしか使えないけれど、例えば『風よ』と言えば――」

 突如、扇風機を強に回したかのような風が私の前髪を捲り上げる。

「わっ」

「他にも小さな光を出したり、水は……床が濡れると面倒だから出さないけど、どう?」

「どう、ねぇ……本物みたいね。信じられないけれど。いや、信じるにしてもどう信じて良いのか分からない、かな」

「正直者ね。普通はドン引くか危ない人間だといって去って行くところよ」

「その方が都合良いなら今からでもそうするよ」

「それをする人間は一々訊かないものよ」

「まぁね。で、私の善性が証明されたところで、私をここまで連れてきた理由は?」

「さっき昏倒した事への説明と謝罪」

「他は? 謝罪だけなら魔術師なんて名乗る必要ないじゃない。その様子じゃ本来は隠しておくもんでしょ、それ」

「意外と頭が回るのね。本当に意外だわ、意外」

「喧嘩を売っているわけだ、よし」

「冗談よ。――そうね、そう、知っていて欲しかったのかも。わたしが識りたいと思うぐらいには、わたしを知っていて欲しい人が現れて」

 どうにも表情が希薄な彼女は、それでも精一杯笑ったのだろうか。

「少し、興奮しちゃったの」

 ちょっと、いやかなり帰りたくなってきた。

「待って。今のは言葉の綾。嘘じゃ無いけど嘘にして。嬉しくなったのは事実だから、ね?」

 人を見て興奮したとかいう人間の何を信じろというのだろうか。とは思ったが、先ほどの魔術というのが本物ならば少なくとももう一度私を昏倒させることぐらいは簡単な筈だ。ならば疑うだけ無駄かもしれない。

「魔術の協力をお願いしたいの。わたしは魔術を知っているけれど、その深淵を覗いた事は無い。教えてくれる人がもういないから。そして魔術は感情に左右されるもの。だからわたしは人間の感情をより良く識りたいと考えているわ」

「感情を知りたいというのがわからないな。私は知ろうとも思わないから」

「じゃあちょうどいいわ。一緒に識りましょう」

「あんた、私に謝りたいの? それとも協力して欲しいの?」

「両方よ。ついさっき言ったばかりじゃない」

 はぁ……、と深いため息が出る。その通りだ、謝罪も頼み事も聞いている。後は自分が明確な返答をするだけで物事は進みそうなのだが、何故か踏み留まってしまう自分がいる。

 ……なぜか?

 なぜだろう。自分で自分の感情が読めない。いや、これはいつものことだった。彼女は人の感情を観察したいということだが、自分で自分の感情をコントロールできない自分など誘ってはたして意味があるのだろうか。さすがに感情が無いわけではないのだが。恐らく私は目の前の少女よりずっと感情が豊かだろう。――というか、この目の前にいる彼女は表層に感情という名の皮膚を貼り付けて、強引に感情を作っているような錯覚さえ覚えている。離すことに嘘は無い。妙なウィットに富んでいる。けれどもそこに『偽物』の感覚があるのは気のせいか?

「……全面的な協力は難しいけれど、話を聞くぐらいなら」

「ありがとう。まずはそれでいきましょ」

「まずは……ってね、協力するわけじゃないんだ。感謝されても困るね」

「いいのよ。ついでに友達になってくれると嬉しいわ。私、友達いなかったもの」

「まぁ努力はしてみる」

「ありがとう。一緒にゴールを目指してくれると嬉しいわ」

 彼女、永久美玖とのファーストコンタクトはこのような感じだった。


 放課後になって、私達は空き教室へ勝手に集まるようになった。というのは少しおかしいか、永久美玖は元々この空き教室を使っていたのだから、そこへ私がお邪魔する形となった、が正解に近い気がする。

 最初の頃は居心地もあまり良くなく、数分に一度は「明日から来るのは止めよう」という気持ちになっていたのだが、数日間だらだらと通い続けた結果、ここへ来るのが日課と化してしまった。人間とはつくづく環境に慣れる生き物であると自覚する。

 彼女の言う『魔術』とやらは見慣れてくると新たな発見がある。例えば言葉を口にしないと発動しないとか、イメージが上手くいかないと言葉にしても思ったように発現しないとかが主なところで、規模も基本的にはささやかな範囲に留まるらしい。教室内破壊とか人を遠距離で殺すといった威力の高い魔術というのは、正式な訓練を受けていない永久美玖には難しいとのことだ。実質不可能とも口にした。

「わたしは母だけが魔術師だったの」

「だけ?」

「父は普通の人。だから母だけに基礎を習ったけれど、両親とも幼い頃に事故で他界したわ。親戚一同全員魔術師じゃないから、引取先でも誰にも教わることができずに自己流で魔術を磨いてきたのよ」

「家族以外にはいなかったってこと?」

「さぁ、隠してたから。それに特別な力というのは隠さないと恐ろしいでしょ」

「迫害されるか」

「でも一人じゃ限界が来るのもすぐだった。それで魔術とは何かを再考してみたのよ」

「……感情? 魔術というのは気持ちに左右されるとか、出会ったときに言ってたけど」

「そうね、魔力というのはきっと気持ちから湧き出てくるモノ。だから私は魔力が弱い。もしこの気持ちがコントロールできるなら、わたしはもっと先を見ることができるかもね」

「先? 先、ねぇ……」

 先を見て何になるのか、とケチを口にしようとして思い留まる。先など見えてない私が安易に踏みにじっていいはずがない。

 そうだ、私は先を見ていない。

 そもそも彼女は感情を理解しようとしているが、私にはその行為がまるで理解できない。強いて言うならば感情など邪魔である。何をするにしても人間の中に感情がある限り思い切ったこともやれずに、心の奥底でブレーキが掛かってしまうのだ。それをすると怒られる、怖い、嫌だ、やめて、という感情を理解しようというのか。それとも彼女はこんな程度のことも知らないと言うだろうか。

 そうだ、この見目麗しい少女は特殊な育ちであるのだから、人間の恐ろしい害意に対して無知かもしれないではないか。

「――美鶴?」

「……え? や、名前……?」

「あら、名前で呼ばれるのは嫌? 他人行儀に静名さんと呼びましょうか。その方がお好みならば、だけれども」

「嫌な言い回しだね。それなら名前で良いよってなるとでも思った?」

「さぁ、私はあまり人と関わってこなかったから。距離感もよく理解していないもの」

 ああ、やはりだ。

 やはり彼女は何も知らない。人間の害意を、悪を、恐怖を。私だって本格的に向けられた訳では――それこそ誤解を生むので訂正するが、私はハッキリと人間の悪を知っている。身を以て理解している。

「さて、それじゃあ今日はより良くあなたを理解してみようかな。魔術で精神に触れていい?」

「どう考えてもアウトだろうに。普通に嫌だよ。それ失敗したら廃人になるとかそういう奴じゃないの?」

「……」

「返答しろし!」

「冗談、冗談よ。精神に触れるのではなくて、あなたの感情を読み取らせて欲しいの。実験してて理解ったことがあるのだけれど、ある程度魔力の波長が近くないと相手のことが読み取れないみたい」

「魔力? どこにあんの?」

「魔力は誰にでもあるわ。ただ魔術師の家系じゃないと使えないけれど。遺伝子レベルで無理みたい」

「遺伝子……」

「じゃあ、覗かせて」

「え、ちょ、まっ――」

 彼女の手が私の胸に触れると同時、何かを唱えるように柔らかな唇がするりと動いた。

「……っ!」

 何かが中に入ってくるような不快感、嫌悪感が腹の底からこみ上げてくる。我慢出来ないほどではないが、いきなり味わうのはさすがにキツい。それに何よりついさっきまで自分の過去を振り返っていたばかりだ、そんなものに触れたら『悪意を知らない』彼女がどうなるか分かったものではない。

「――ふぅ」

 そう懸念したのだが、彼女は思ったよりも平然と私から手を離していた。

「意外とドロドロしてるのね」

「……きつかっただろうに」

「ふふ、魔術師を舐めないで。あの程度で心動かされるわたしじゃないわ」

「さいでっか」

「――ところで、今日は何かおごってあげようかしら。何がいい?」

「白々しくフォローすんな。で、先とやらはちょっとは見えたのか?」

「……ええ、見えたような、もっと強烈な何かを見たいような」

「これ以上は厳しいけどな」

「そうね。深淵を覗くというのは斯くも難しいことのよう。でもあなたが来てくれてからこの実験も楽しく感じられるわね」

「……突然なに?」

「誰かと居るのは胸が躍るようなってこと。詩にしたためようかしら」

「さすがに恥ずかしいからやめろよ。いやなんでボールペンとノートを取り出してんだよ。やめろ、やめろな? やめろー」

「あなたのことを書いて照れ顔を拝借するのも乙かしら」

 すらすらとペンを滑らしていく彼女の手を止めるべく腰を浮かす。

「冗談、冗談よ?」

 まったくたちの悪い冗談である。

「あなたが過去に重い感情を抱えているというのなら、そうだ、わたしが少しは背負ってあげようかしら。どう、この提案。わたしも興味があるもの」

「……は? 背負うって、どういうこと?」

「同じ感情を識る者同士なら、もう少し心を許してくれるでしょう?」

「えっ……や、それは……」

 どうなのだろうか、それは。

 心を許せるだろうか。

 私は過去、それこそ親に人間扱いしてもらえなかった人間だ。魔術師として育てられたという彼女とは、きっと正反対のところで生きている。それが感情を知りたい彼女と感情なんて無くなってしまえば楽になると思っている自分という対比になって現れているのだ。

「それは……そんなこと……」

 髪の長い少女と、彼女ほど髪を伸ばせない、伸ばしたくない自分。細く長く怪我を知らない指先と、幾重にも皮膚が再生されてやや厳つくなったこの両手。もし共通点を探すなら、私の両親ももう居ないというところだろう。

「昏い感情をわたしにください」

 それは、なんていう言葉なのだろう。

 まるで人生を分けてくれとでも告げているようではないか。

「そうできるなら、そうして欲しい」

 イエスとは口が裂けても言えない。だけれども限りなくそれに近い言葉を、喉の奥から絞り出すように云う。

「――もちろん。背負ってあげるわ」

 背負わせたくない。

 咄嗟にそう叫びそうになる。

「ああ、凄い感情……これがあなたの負の心なのね。うん、深淵に近くなっていくのがわかる。重い感情が伝わってくる。心が重く、枷が嵌められてるみたいで。こんな重荷の中で生きてきたのね、美鶴は」

「……ちっとも軽くなった気がしないけどな」

「でも、わたしは唯一の理解者になれた」

「理解なんてされたくないんだよ。私は世界で孤独にいたい。だからこそ一度は屋上から――」

「屋上?」

「や、なんでもない。でもなんだろ」

 重かった心が、ふんわりと温かみを帯びた気がする。決して軽くなったわけではないし、やはり感情を理解したいとも思わないが、けれども全く別のところから温かい手で包まれているみたいで、ああそうだ、これはきっと悪くない感情だ――

「こういう気持ちもあったんだ」

「みたいね」

 思わず笑みを零すと、彼女もまた微笑み返してきたのだった。


 そうしてまたも数日ほど時間が流れて。

 私はある決意をする。

 彼女の研究はそれ以降全く進まなくなったからだ。


 進まない研究をこれ以上やる意味があるのか、という問いに、美玖はあっさりと「やることに意味があるのよ」なんて返してきた。

 ふたりだけの教室で何も進まない研究、というか私に魔術を掛けてあれこれ調べる行為は実に無駄なのだが、私は自然と居心地の良さを完全に自覚していた。

 ――いけないな、これは良くない。

「何か考えてるの?」

「ん、考えてる。例えば美玖がいつまでこんなことを続けるのかを考えていた」

「分からないわ。永遠でも構わないと思ってるぐらいだもの」

「ゴールを目指してるって話じゃなかったか?」

「目指す必要あるのかしら」

「言うことが変わってる……」

「ゴールを迎えた人間はどこに行き着くのかしら。それを考えたら先延ばしにしてもいいテーマよねって」

「いいじゃないか、ゴール。私はどこにも進んでいないけど」

「偉大な大魔術師である永久美玖の相方がそれじゃ少し困るわね。もう少し気合い入れられないかしら?」

「無理」

「なぜ? 思考実験が好きなのだと思ってたけれど」

「無理なものは無理。もし私にできることがあるならば――」

 ふと、そういう結論に至った。

 彼女の止まっている研究は、きっと私の重い感情を読んでしまったからだろう。それ以上の感情が私の中に残っておらず、彼女は研究に行き詰まったと考えるのが自然ではないか。

 ならば彼女の歩みを止めたのは自分自身に他ならない。そして彼女自身が自分の感情を理解していないというのなら、それを目覚めさせるのが自分に課せられた役目ともいえる。

 感情が止まった――というのは違うが、感情の揺れ幅が弱い美玖に強い衝撃を与える方法はなかなかに困難である。

 けど、たった一つだけ。

「なぁ、美玖はどうやったら感情が激しく動く?」

「さぁ、王子様にキスでもされたら目覚めるかもしれないわ」

 まるでこちらの考えを読んだかのように応えるが、それもいつものことだ。彼女は聡明だ、もしかしたら私の考えなどとうに見切ってるのかもしれない。

「なら、キスする?」

「女の子同士で?」

「私が王子様になるよ。それならキスで目覚めるだろう?」

「――冗談よ、冗談」

 つと、彼女が顔を背ける。その目は僅かに潤んでいて、俄に頬の色が変わっていた。

「ん、ならいい」

 好意的に受け止められていると感じて、私は嬉しくなっていた。

 これなら彼女の心を大きく動かせる。


「――まぁ、ここまでやればいいだろ」

 学校の屋上は本当によく冷える。

 あまりに冷えすぎているので、とっとと終わらせようとドライに考える自分がいるぐらいだ。

 私は先にゴールをする。

 恐らくそのゴール先は美玖の考えてる場所とは違うものだ。ゴールした先には何も無く、されどこの世に意味だけが残る。

 美玖が魔術にこだわっているのも、なんとなく理由は察していた。それが両親とつながる唯一の手段だったからだ。独学であそこまで――といっても実際凄いのかは知らないが――やれたのだから、もう一押しすればきっと本当に大魔術師とやらになれるかもしれない。

 ああ、私はその姿を見れないけれど。

 せめてそうなった時には、墓参りぐらい来て欲しいなと、気軽に考えている。

 そうだ、私はきっと最初から自分の命などこの程度にしか考えてなかったのだ。だから先に進まない。進めない。進もうともしない、つまらない人間になった。

「さて、さようならだ」

 折角だ、最後に言いたいことを言おう。

 地面へ衝突するまでの間に何が言えるかは分からないが、それでもきっとこの口は呪文を唱えるかの如く色々と喋ってくれるだろう。

 ――……

「美玖」

 だけれども、その名前しか出てこなかった。


 結論を言えば私は屋上から落ちても死ななかった。私の異変に気付いた美玖が屋上の下で待ち構えていて、汗をだくだく流しながらところ構わず叫ぶように魔術を唱えた結果らしい。

 怪我一つ無く地面に転がっている私の頭を美玖が抱え上げる。

「……ああ、感情が動いたようだ。良かった良かった」

「そう、そうね。そうよ。魔術師は合理的なの。あなたの行為が私の為だって理解したし、結果として良かったってなるわ。結果だけは!」

「そんな声、出すんだな」

「出すわよ!」

「じゃあ、もう私は要らないな」

「いるわ! むしろ助かった命に感謝して! 今度は私と歩いてもらうわよ!」

「どこを?」

「こんなに感情を滅茶苦茶にしたのよ、あなたは! 私の胸をこんなに……だから責任をとりなさい。一緒に歩んでくれなきゃ、許さない。勝手に死んで私の研究結果になろうだなんて、今後は絶対に許さない。だから一緒に歩みなさい」

「歩む……ふふ、ゴールとは全然違うな」

「当たり前よ。あなたとの時間に終わりなんてないもの」

「じゃあ、スタートだ」

「そうよ、これから私とあなたでスタートするの、スタートよ」

「うん、そうだな」

 私は身体を起こして、手を差し伸べる。

 ああ、こんなことするなんて考えたこともなかった。夢にすら見たことが無い。

 これから私は自分の感情を塗り替えるために歩いて行くのだろう。隣で微笑む彼女と一緒に。

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