第38話 少年の願い

 デュークがピュラと口付けを交わすや否や、まるで傀儡のように虚ろだったピュラの顔に、微かに生気が戻る。


 それと同時に、驚愕と羞恥を織り交ぜたような二色の瞳が真円に見開かれ、ピュラは動かない体で必死にもがいた。


 そうしてたっぷり十秒ほども唇を重ねて、そこでようやくデュークが顔を離してやると。


「プハッ! ケホッ……デュ、デュークさン! なンて、なんてコトを……!」

「ごめん。無理矢理、こんな……嫌だった、よね」

「違いマす! 今のこノ、汚染だらケの私とこんな事をしたら、デュークさんがっ」


 ピュラの声から、耳障りなノイズが徐々に消えていく。


 それに呼応するようにして、まず顔が、次には首や胸元が。


 ピュラの全身を覆っていた鎧のような肌だけが、まるで崩れるようにしてボロボロと剥がれていった。


「あ、ああ……そんな……!」


 やがて、ピュラの白魚のように細い手指に僅かに残っていた黒い石さえもが塵となって崩れ落ち。


 それを最後にして、今や少女は張りのある白磁の柔肌をすっかり全身に取り戻していた。


 しかし、その顔には体中を蝕んでいた呪いが消え去ったことへの歓喜や安堵の色はない。


 ともすれば最前まで押し迫っていた自らの死へよりも怯えた表情で、ピュラはデュークに詰め寄った。


「なんで! デュークさん! 逃げてって……言ったじゃないですか!」

「こっちこそ……助けるって、言った」

「だとしても、このままじゃデュークさんの体はっ……あ」


 ピュラが言葉を切ると同時、デュークは自分の中に走るざらついた激痛を自覚した。


 胸の辺りから発したその激痛は、やがて全身へと広まっていく。


 痛みに顔を歪めながらも、デュークは自分の目論見が首尾良くいったことに満足し、安堵の息を吐いた。


「デュークさん、か、顔がっ……それに、目も!」

「ああ、うん……そう、だネ」


 震えるピュラの涙声に、デュークは体中を巡る苦痛を悟らせないようやんわりと返す。


「どうしてですか!? なんでこんな、になるようなことを!」

「うん……勝手ナことして、ごめん」


 荒毒に、それもほとんど脳や心臓までもが蝕まれていた者との粘膜接触。


 自分の体が今どうなっているのかは自分の目で確かめるまでも、体中の激痛が教えてくれるまでもなく、デュークにはわかり切っていた。


「ここから逃げ出せたとしても! どの道、私は助かりませんでした!」


 叩きつけるようにして、ピュラが小さな両の拳をデュークの胸板に当てる。


「デュークさんが助けに来てくれて、私、本当はすごく嬉しかった! オークションの会場で、中層の路地裏で、他にもたくさん! これまでも何度もそうしてくれたように、デュークさんはまた、私を迎えに来てくれた!」

「うん」

「私の、命の恩人です。救世主です。ヒーローです。私の――私の、大好きな人です!」

「そっか……そウダと、いイな」

「そうに決まってます! だからこそ……だからこそ! せめてデュークさんだけでも死んで欲しくなくて、だからもう、私を置いて逃げてって、そう言ったのに! これじゃあ私が助かったとしても、デュークさんは助からないじゃないですか!」

「うん……そうだね。でも、それはできなイよ。君はこんな所で、死んじゃダメダ。こんな、寄る辺も何モ無い荒野の真ん中で、一人寂シク、死んじゃだめダ」


 叫ぶ少女の肩にそっと手を置いて、デュークは言葉を紡ぐ。


「ピュラ、君は生きナきゃ。生きテもう一度、大好きナ家族に会いに行くんだ。だって」


 ぼんやりと赤みを帯び始めた視界越しに、泣きじゃくるピュラの顔を優しくもたげる。


 すっかり元の綺麗な空色に戻ったピュラの両目を、デュークは真っ直ぐに見つめ返した。


「それが君の、『願い』なんだから」

「……デュークさんこそ、ご自分の願いはどうするんですか!? こんな所で死んでしまったら、もう考古学者として旅をすることだって、できないじゃないですか! これからたくさん、未開拓地の〈旧文明遺産〉を見つけるんでしょう? 本国にいるお父様やご友人の皆さん、多くの考古学者さんたちの悲願を達成するんでしょう? それがデュークさん、あなたの願いなんでしょう!」


 今度こそ、ピュラは力一杯デュークの懐に拳を叩きつけた。


 少女の細腕から伝わる、お世辞にも強いとはいえない衝撃。


 普段であれば身じろぎもしないほどのそのか弱い拳を、しかし今のデュークには満足に受け止めることも難しかった。


 胸に抱いたピュラを取り落とすことはないものの、徐々に自由の利かなくなった体はよろけてしまう。


 手足が軋む。頭が痛い。呼吸が苦しい。


 体の内では燃える様な痛みが走っているくせに、全身の表面からどんどんと、止めようがないほど体温が失われていく感覚。


 およそこれまでのデュークの人生の中で、これほどの苦痛が全身を苛んだ経験は初めてのことだった。


 そしてきっと、同時に人生最後の経験ともなるのだろう。


 白い靄がかかったように朦朧とする意識の片端で、デュークは漠然とそんなことを思った。


「――それハ、違うよ。ピュラ」


 けれど、そんなことはもうどうでも良かった。


「それはモウ……いや、きっと最初かラ、『俺の願い』じゃなかっタンだ」


 自分の体がどれほどの苦しみに晒されていようと、知ったことではなかった。


「デもね、ピュラ。さっき、ヤット見つけたよ。やっと俺にモ、でキたんだ」


 今の自分の中にある思いは、ただ一つ。

 今の自分の中にある願いは、ただ一つ。


 ずっと未完成のままだった、パズルの最後の一欠片。


「俺ニモやっと……『自分自身の願い』が、できタんだ」


 赤く泣き腫らした目を袖で拭いながら、腕の中のピュラが怪訝な顔でデュークを見上げた。


 次の言葉を待つ少女の肩越しに、デュークは左腕に着けたホロデバイスの、その画面の右下で目まぐるしく変わっていく数字の羅列に目をやって。


「……時間ガ無い。ピュラ、しっかリ掴まって」


 胸に抱いていた少女を軋む体で苦労して背中に背負うと、デュークはそのまま崖昇りの要領で再び〈海魔〉の体を這い上がっていく。


「デュ、デュークさん? 一体、どこへっ?」


 背中からの問いには答えず、デュークはどんどんと重くなり、硬くなっていく体をどうにか奮い立たせて、黙々と腕を伸ばし続ける。


(……思ったより、毒の回りが早い)


 時折飛んで来る砲弾によって巻き上がる黒煙に咳き込みながら、ひたすら上を目指す。


 腕が、足が、段々と思うままに動かなくなっていく。


 しかし、まだ止まる訳にはいかない。この手を離すことも、休めることさえする訳にはいかない。


(早く、早く。動けなくなる前に、ピュラを)


 やがて、デュークの横顔を温かな日差しが照らす。


 西の空に傾いていた夕陽が、渓谷の影から〈海魔〉の体を這い上がって出てきたデュークたちに、荒野を吹く一陣の風と共に降り注いだ。


 気付けばデュークたちのすぐ眼下に、渓谷の崖の上に広がる荒野があった。


(あとは、向こうに飛び移れば)


 怪物の鎧肌に掛けていた両足に力を込め、デュークはピュラを背負って〈海魔〉の体から崖上の荒野に跳ぼうとして。


(……くそ。もう、身体が)


 しかし、既にデュークの体を蝕む呪いの猛威すさまじく。


 デュークがいくら鬼神のごとき力を手足に込めようとしても、もはやピュラを抱えて僅か数メートル先の崖上に飛び移ることすら許してくれそうになかった。


「━━デュークゥゥゥ!」


 突如、聞き覚えのある声が自分の名前を呼ぶのに、デュークは俯きかけていた顔を上げて眼下の荒野を見下ろした。


 デュークたちから見て左側の荒野、ほとんど崖っぷちスレスレを猛然と疾駆する一台の車両の窓から、見慣れた銀色の髪が風にたなびいていた。


 疾走していた四駆車はやがて、派手な土煙を巻き上げデュークたちの真横辺りで急ブレーキをかける。


 停止した車から転がり出るように、ケラミーとダルダノが飛び出した。


「デューク!? あなた、その体……!」


 既に大部分が鎧のような黒肌に覆われているデュークの姿に、荒野に降り立ったケラミーは一瞬言葉を失うも、すぐさま我に返って叫び続ける。


「と、とにかく! 今は早く、こっちに跳びなさい!」

「ああ! しっかり受け止めてやっから、何も考えずに全力で跳べ!」


 早く、早く、と急かすケラミーたちの姿と、それでももうビクとも動きそうにない自分の両足とを見比べ。


 やがて、デュークは肩越しに不安そうな顔を浮かべているピュラに目をやると。


「え、え、デュークさん?」


 短い思案の末、デュークは尊敬するべきの知恵を借りることにして、背中に背負っていたピュラの体をおもむろに脇に抱き抱えた。


 困惑した顔で仰ぎ見てくるピュラに、精一杯の慈しみを込めて。


「いまの俺の『願イ』は――――ピュラ、君の『願い』を叶えルことダ」


 ゆっくりとそう告げると同時。


 デュークは最後の力を振り絞り、脇に抱えた赤髪の少女を眼下の荒野に向けて放り投げた。


 時の流れが不思議なほどに緩慢に感じる目の前の光景の中で、宙を舞うピュラのきょとんとした顔が、一拍遅れてくしゃくしゃに歪められる。


その頬を伝う涙を拭おうと、もう届かない腕をゆっくりとそちらに伸ばしながら。


「君に会エて、良かった」


 視界の隅に映る数字の羅列が、全て同じ形でピタリと止まる。


 瞬間、〈海魔〉の巨体が一際激しく蠕動し、次にはその体のあちこちがボゴンッ、ボゴンッと不気味に膨らんでいった。


『ブッ、ブブブブボォ、ボォッ、ボブブボォォォォォォォォォォォッッッ!』


 ドゴォォォォォォォォォォォォォォォンンンンッッ!


 狂ったように暴れる〈海魔〉の断末魔とそれをかき消すほどの大爆音とともに、張り裂けた怪物の巨体のあちこちから爆炎が噴き出し、その爆炎はデュークもろとも〈海魔〉の全身を飲み込む。


(……うまく、爆弾プレゼントが起爆したみたいだな)


 爆発の衝撃はそれだけには止まらず、化け物が立ち往生していた地面さえ割り砕く。


 足元の地面に幾つもの亀裂が凄まじいスピードで走っていき。


「━━デュークさぁぁぁぁぁぁぁんっっ!」


 そしてついには、その巨躯を支えきれずに崩落した地盤とともに、〈海魔〉は割れた血の底へと引きずり込まれていった。


(良かった……ちゃんと向こうに、届いたみたいだ)


 そう思った途端、デュークの体を締め付けていた苦痛が嘘のように消え去る。代わりに何か、ひどく抗い難い眠気の様なものが全身を包み込んでいった。


 それに続いて、まるで広く深い大海原の波の中で揺蕩っているような、ぼんやりとした浮遊感。


 そんな、夢とも現ともわからないような曖昧な世界の中で、泣き叫ぶ少女の声を遠くに聞きながら、デュークはゆっくりと瞼を閉じる。


(父さん、母さん……ごめん)


 遠ざかっていく意識の中、霧がかかったように淀む視界の端から現れた、何か白い、大きなものが辺りを覆い隠していくような気がして。


(ピュラ……きみは……きみの、ねがいを…………)


 それを最後に、デュークはまどろみの中に身を預けた。

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