第37話 口付け

「デュークを追うわよ!」

「はぁ⁉ おいおいおい! お前まで何を言い出してんだよ!」


 素っ頓狂な声を上げるダルダノには目もくれず、ケラミーは手近に停めてあった四駆車へ足早に歩いて行った。


「デューク、ピュラちゃんが〈海魔〉の所にいるって言ってた。事情はわからないけど、それが本当ならあいつはどんな無茶してでもピュラちゃんを連れ戻そうとするはずよ。現にこうして、たった一人であんな怪物に向かって行ってるくらいだもの」

「いや、そりゃたしかにそうかも知れねぇがよ。だからってオレたちが出張ったところで、あんな化け物相手にどうなるって問題でもないだろ?」

「馬鹿! あんな化け物だからこそ、デューク一人だけでピュラちゃんを担いで逃げ切れるわけないじゃない! 誰かが救援に行ってあげないと!」


 車両のドアに手を掛けたケラミーの肩に、ダルダノの太い手が置かれる。


「それでヤツの懐へ? いくらなんでも危険すぎる! なぁ、冷静に考えてみろって。デュークだから辛うじて何とかなってるだけで、そんな無茶はふつう命がいくつあっても足りねぇよ」

「じゃあこのまま黙って待っていろって、あなたはそう言うの!?」


 肩に置かれた手を振り払い、ケラミーはギンッ、とダルダノを睨んだ。


 凄まれて言葉を詰まらせるダルダノと数秒目を合わせると。


「いいわ」


 冷たい声でそう言って、ケラミーは車のドアを開けた。


「なら、あなたはそうすればいい。でも、私は行く。たとえ一人でだって、あの子たちを助けに行くわよ!」

「色々と無茶苦茶だって! そもそもお前、ランクルの操縦なんざできないだろうが」

「関係、無い!」


 運転席に飛び乗り、引き留めるダルダノを拒絶するようにケラミーは乱暴に扉を閉めた。


 ハンドルを握り、車体を走らせようと力一杯アクセルを踏む。


「くっ、くっ、このっ!」


 だが、ブレーキが解除されていないのか、そもそもエンジンが入っていないのか。


 逸るケラミーの内心とは逆に、四駆車は梃子でも動こうとしない。


「なんで、このっ、動いてよ! 動きなさいったら!」


 壊れんばかりにアクセルレバーを踏み続けるも、やはり動かない。


 そんなケラミーの空回りする様子に、さすがにいたたまれなくなったのか。


「……だ〜! くそっ、あぁくそったれ!」


 痺れを切らした様子で一つ毒吐き、ダルダノは出し抜けに運転席の扉を開けて座っていたケラミーを助手席へと追いやると、慣れた手付きで車のエンジンを入れた。


 途端に、先ほどまで頑固なゾウのように動かなかったのが嘘のように、四駆車は派手なエンジン音を立て、そのまま一気に走り始める。


「ダルダノ……あなた」


 押し込められた格好で助手席に座るケラミーのきょとんとした視線に、ダルダノはたてがみの様な茶髪をガリガリと掻いた。


「わぁかったよ、やってやろうじゃねぇか。オレだって、あいつらをこのまま見殺しにしたい訳じゃないからな」


 ただし、とダルダノが付け加える。


「やり方はこっちに任せて貰う。後先考えず真正面から突撃なんてしてたら、助けられるもんも助けられねぇからな。それでもいいなら、地獄だろうとどこだろうと付き合うが?」


 ケラミーの決断は早かった。


「構わないわ。スピード違反には目を瞑るから、全速力で飛ばしてちょうだい!」

「よしきた!」


 ※ ※ ※

 

「ピュラ」


 とうに疲労は限界を超え、血を流し過ぎた為か意識は朦朧としている。


 それでもズタボロの体を引きずるようにして、デュークは〈海魔〉の体をよじ登った。


 怪物の巨体が戦慄くたびに振り落とされそうになるのを必死に堪え、そしてとうとう、〈海魔〉の片目まで辿り着く。


「ピュラ、起きて」


 埋め込まれるように片目の部分に横たわるピュラの体は、まったく酷い有り様だった。


 荒毒による症状は既に全身のほとんどを蹂躙しており、見える範囲では左目辺りの僅かな場所にしか、もうその柔らかな部分を残していない。


 風前の灯火、虫の息。少女がもはや数分の命もないことは、素人目にも残酷なほどに明らかだった。


 たとえ誰であろうと、もう今のこの状態のピュラを「人間」とは呼ばないだろう。


 あるいは脅威や恐怖の対象として、彼女に剣を、銃口を突き付ける者さえいるかも知れない。


〈鎧獣〉、と。


 もはやそう呼ばれても否定できないほどに荒毒に侵し尽くされた、その無機質な鎧のように黒く、冷たく、硬い少女の頬に。


 けれど、デュークは少しも迷うことなく両手をあてがった。


「…………ウ、ア……」


 物言わぬ石像のようにじっと閉じられていたピュラの瞳が、まぶたを覆う黒い肌を痛ましく軋ませながら、ゆっくりと、ゆっくりと開かれていく。


「病気には、強いんじゃなかったの?」


 さながら、朝の街角で待ち合わせでもしていたときのように、デュークは努めて穏やかな口調で語り掛ける。


 焦点のぶれていたピュラの半眼が、僅かに見開かれた。


「……ウ、デューグ、ザン……?」


 既に上手く言葉を発することもできないのか、ぎこちなく開いたピュラの口からは、ほとんどノイズのようにざらついた声しか出て来ない。


「待たせてごめん。今、そこから出してあげるから」


 凹んだ堅殻に埋もれて〈海魔〉と一体化しかけているピュラの体に手を回し、デュークは力一杯、しかしピュラの体を傷付けないように慎重に引き剥がしていく。


「イッ……ウッ……!」


 ガリ、ガリ、と金属の削れるような音を立てて、ピュラの体は徐々に浮き上がって来た。


 苦痛に呻くピュラの声に心を痛めながら、それでもデュークは少女の頭を、腕を、少しずつではあるが確実に、〈海魔〉の沼のような鎧肌から引き揚げていく。


「ッ! ウジ、ロ……!」


 突如、ピュラが何事かを伝えようと口を開く。


 デュークの背後を指差すピュラの震える指に振り返ると同時、デュークの背中に強かに怪物の触手が打ちつけられた。


「かはっ……!?」


 取り戻した『片目』の欠片が再び奪われそうになっているとあらば、〈海魔〉がそれを許す筈もない。


 叩きつけた触腕を自らの片目にぐりぐりと押し付け、デュークを圧し潰そうとしてくる。


「ぐ、あぁぁぁ……!」


 ピュラを守ろうと、デュークは自らを盾としてあらん限りの力を全身に込める


 鉄製の鞭の如き触手の一撃に、けれどたまらず滝のように血反吐を吐いた。


「デューグ、ザン!」

「ぐふっ……だ、大丈夫。俺は……大丈夫、だから」


 吐き散らした血反吐でピュラの体を赤く染めるのを忍びなく思いながら、デュークが尚も押し付けられる触手に抗っていると。


 不意に、背中のごつごつとした感触が消えた。


『ブボォォ、ォォォォッ!』


 どうやら、ノアから放たれた砲弾が直撃したらしい。


 デュークの背中にこすりつけられていた触手が弾け飛び、それに続くようにして、〈海魔〉の体に幾発かの砲弾が続けざまに当たる。


 悲鳴とも雄叫びともとれる声で大気を震わせた化け物は、そこで触手の矛先を再びノアに戻したようで、巨体の揺れが僅かに治まる。


 そして、その間隙を見逃すデュークではない。


〈海魔〉がノアからの攻撃の対処に気を取られている隙に、とうとうデュークは埋もれていたピュラの体を完全に引き上げた。


「ダ、ダメ、デューグザン……」


 満身創痍のデュークに、ピュラが縋りつくような声で懇願する。


「ニゲ、テ、デューグ、ザ……シン、ジャウ」

「大丈夫。ピュラは、し、死なせない」

「チ、ガウ、マスッ! デューグザ、ガ、デューグザン、ガッ……!」

「助けて、みせるよ。君は生きるんだ……ハァ、ハァ……生きてもう一度、お父さんと、お母さんに会うんだ。それがピュラ……君の、『願い』だろ?」

「ワタジ、ハ、モウッ……! ダ、カラ、ニゲテ! デューグザ、ダ、ケデモ……!」


 抱きとめるデュークの腕を突き放し、ピュラは駄々っ子のようにイヤイヤと首を振る。


 そんな彼女の波打つ紅い髪にそっと指を通して、デュークは微かに苦笑すると。


「━━ピュラ、そこまで」

「ンムッ!」


 その聞き分けのない口を塞ぐべく、少女のすっかり硬くなってしまった唇へ向けて、デュークはそっと口付けた。

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