第29話 赤い涙

 最終的に、遠征に向かった開拓者及び職員合わせて三百人中の百三十人以上、という多大な犠牲を出しながら、ノアは辛うじて巨大〈鎧獣〉を振り切った。


 突如としてノアを襲った災厄の噂は瞬く間に広がり、いまだ都市中を落ち着かない空気がただよっていた、その夜。


「……それらしい兆候は、うん、あったんだ。今にして思えば」


 灯るランタンの明かりでうすぼんやりと照らされる診察台のベッドを横目に、ミグロッサはいつもの飄々とした口調を微かに沈ませる。


「兆候?」


 ベッドに横たわるピュラから目を逸らさずに、デュークは訊き返す。


 ピュラの症状は、目に見えて悪化していた。


 ノアに逃げ戻ってからすぐ、意識を失ったピュラをデュークがミグロッサの下に担ぎこんだ時点では、荒毒によるクレイマンズ症は右の手首までしかなかった。


 それが一時間たち、二時間たち、やがて日もとうに暮れた今では、無機質な鉱石の鎧は少女の二の腕や肩を経て、遂には顔の右半分までを覆ってしまっている。


「でも、不覚だったよ。私としたことがその兆候を見逃してしまっていた」


 フー、と長いため息をついて、ミグロッサが自分の前髪をくしゃくしゃと掻きむしった。


「奴隷という者たちが負っている傷に慣れていながら……いや、慣れていたからこそ、その小さな不自然を疑問に感じることを放棄してしまっていたんだよ。私のミスだ、完全に」

「どういう事?」

「君も、荒毒に感染した人間にどういう症状が現れるか、何となくでも知っているだろう?」


 頷くデュークに、ミグロッサが指折り数えて例を挙げていく。


「末端神経の麻痺だったり、断続的な頭痛だったり。まだはっきりと身体が硬質化する前の前駆症状としては、まぁ、色々ある。それらは大抵、感染者が何らかの興奮状態になった時に顕著になる傾向があるんだけど、今回の場合は」


 自らの喉元に二本指をあてがい、ミグロッサは言った。


「発音の乱れ、だ」

「発音の、乱れ?」

「思い当たる節があるだろう? ピュラちゃんが怒ったとき、泣いたとき、驚いたとき、逆に喜んだり嬉しいことがあったとき。そういう、何らかの感情が昂ったときに、さ」


 ピュラとの生活を思い返し、言われてみればたしかにそうだったかも知れないと、デュークは首肯する。


 ピュラの声が時たましゃがれたように聞こえるというのは、デュークも感じていたところではあった。


「……生まれつきなのかと思ってた」

「私は逆に、奴隷生活の弊害だと。言い訳するつもりは毛頭ないけど、これでも奴隷の患者はピュラちゃんが初めてじゃない。声がね、掠れているんだ。泣き叫んで、泣き叫んで、きっと声が枯れたまま戻らないほど泣き叫んだんだろう。ほとんどの患者が、そうだった」


 灯台下暗し、近くで関わっていたからこそ逆に気付けなかった、とミグロッサは脱力気味に回転イスの背もたれに体を預ける。


「いや、やっぱり、あれだ。言い訳にしか聞こえないな。ズルい女だ、私は」

「メグ姉のせいじゃないよ」

「いや、私のせいだ。こんなに悪化するまで気付かないなんて、私はまるで医者失格だよ」

「そこだよ、メグ姉」


 唐突に指を差されて、ミグロッサは怪訝そうにデュークを見返す。


「そこが少し気になる。メグ姉が診ていたのに、防げなかった筈がない」

「デューク……そう言ってもらえるのは嬉しいけど、実際はご覧の有り様で」

んだ」


 思えば、医療に精通している訳ではないデュークでも、今回のケースでは解せない点がいくつかあった。


 ノアに乗り込んでから、デュークも荒毒の感染者をそれなりの数見てきた。


 中には今日のような合同での探索の時に〈鎧獣〉に襲われたり、あるいは迂闊にも汚染された鉱石から荒毒をもらったりして、目の前で感染してしまった者を見た事だってある。


 だからこそ、今回のケースは非常に不可解な点が多いと、デュークは感じていた。


「……いや、うん。たしかに妙だ。荒毒に関してはまだわからない事だらけとはいえ、私も発症から一日足らずでここまで悪化する例を見るのは初めてだよ。はっきり言って、異常だ。まるで何かがきっかけで、潜伏していたウイルスが急激に活性化したかのようだ」


 デュークの言わんとしている事がわかったのか、ミグロッサも同意する。


「それに……感染した経緯も気になる。君と暮らすようになるまで、ピュラちゃんは荒野に出た事すらなかったんだろう? 荒野に出始めてからだって、君がずっと付いていたんだ。彼女が感染してしまうような事態には、万が一にもならない筈だけど」


 ほとんど事実確認に近いニュアンスの問いに、デュークははっきりと頷く。


「となると、あとピュラちゃんが感染するタイミングがあるとすれば……」


 眉間に指をあて考え込んでいたミグロッサが、「まさか」と呟いた。


「デューク、一つ確認したいんだけど」


 何やら険しい表情で、ミグロッサが尋ねる。


「君がピュラちゃんを買うとき、奴隷商の奴らは何か変わった事は言ってなかったかい?」


 質問の意味が掴めず首を傾げるデュークに、ミグロッサは付け加える。


「例えばそうだな、『身体のどこそこが不自由だ』とか、『生まれつきこういう体質だ』とか。あるいは、何か怪我や病気をしている、とか」


 デュークはオークション会場での記憶を漁る。


 ピュラについて話していたあの司会の男は、さて何と言っていたか。


 久々のレアもの、十四歳の少女奴隷、それから……。

「たしか……『デミクレイ』がどうとか、って」


 途端に、ミグロッサがぎりぎりと唇を噛み締めた。


「ちっ……! なるほど、そういうことか」


 ミグロッサは、彼女にしては珍しく怒っていた。


 ポケットから取り出したキャンディーを無造作に口に突っ込み、それを親の仇ででもあるかのようにバリボリと噛み砕く。


「まったく……何度聞いても胸糞悪いね、その手の話は」


 話の読めないデュークは、説明を求めようと口を開く。


「……ウ、ン……うウ……」


 が、開いた口から出掛かった言葉は、不意に漏れ聞こえたか細い声に遮られた。


「ア、れ……ここ、ハ?」

「ピュラっ……良かった、目が覚めた」

「デューク、さン?」


 まだ意識が判然としないのか、半日ぶりに覚醒したピュラの薄く開いた瞳が、枕元の丸椅子に座るデュークをぼんやりと捉える。


「やぁ、おはようピュラちゃん」


 険しい表情を引っ込めて、ミグロッサもベッドの横に立った。


「センセイ、も……じゃあ、ココは……」

「私の診療所さ。昼間倒れた君を、例によってデュークが連れて来たんだ」

「倒レタ……私、ガ?」


 しばらく放心した様子でデュークとミグロッサの顔を交互に見比べていたピュラは、やがて段々と意識がはっきりしてきたらしく、半眼だった両目を見開いていく。


「そ、ソウデス! 私、山デ急に倒れちゃッテ。ソレから、大きな怪物ニ追われテ……エ?」


 そこまで言って、ピュラは言葉を詰まらせてしまう。


「……あ、レ? 何、コレ、私ノミギテ、どうナッ、テ?」


 ひどく得体の知れないものを見るような目で、ピュラは自分の黒い右腕を見下ろす。


 自分の体の状態を確かめようと、まだ滑らかに動く左手を右腕に当て、肩に当て、首に当て……。


「右目モ……ヨク、見えなイ。何ダか、視界が赤みガカッテて」


 その手が彼女の右顔に達したところで、デュークは膝の上で丸めていた拳を無意識に握り込んだ。


 ガラス玉のように綺麗だったピュラの空色の瞳は、今や荒毒に侵され彼女の髪と同じ――そして、荒野を彷徨うあの忌まわしい化け物たちと同じ――痛々しい緋色になっていた。


「ソン、ナ……これッテ、ガイジュウノ?」

「ピュラ、落ち着いて」

「デュークサン、わタ、私、ワタシ!」

「大丈夫、大丈夫だから。きちんと、順を追って説明する。だから、落ち着いて」


 デュークが一言一言噛んで含めるように慰撫すると、ピュラは動転して起こしかけていた上体をゆっくりと戻し、気を落ち着かせるように深く息を吸い込んだ。


「落ち着いた?」


 頷くピュラの髪を撫でて、デュークはこれまでのことをぽつぽつと口にしていった。


 デュークが話をする間、ピュラはただずっと黙ったままだった。


 それでも、自分が深刻な荒毒の汚染を受けているとわかった時には思わず唇を引き結び、やがて巨大〈鎧獣〉から逃れる際に、無念にもヘレンが置き去りにされてしまったという所まで話が進むと、


「……ヒドイ……ヒドい、ヨォ」


 遂には痛々しくガサついた喉を震わせて、消え入りそうな声で泣き出してしまう。


「折角、マた元気なヘレンと……一緒ニ暮らせるんダ、ッテ…………ソレに、私だって、ヤットここカラって、思ってタノに…………コンナノ、あんマり、デス……!」 


 ぽろぽろと零れる二色の涙で顔を濡らし、少女はあの日、あの下層の奥深くの暗い裏路地で膝を抱えていたときのように、弱々しい声を絞り出した。


「ドウしテ……ドウシていツも、私ばかり」


 既に命の温もりに乏しい、金属のように冷え切った右腕。


 血のような赤い涙が溢れ、もはや人間ではない何かであることの烙印の如く光る、緋色の眼。


 変わり果ててしまった少女の体に触れる度、デュークは骨身にこたえる忍びなさに顔を顰めてしまう。


「……ゴメン、ナサい。デュークさん」


 泣き腫らした瞳を押さえながら、ピュラは言った。


「少し、だケ。少しだけ、ソッとしてオイテ……」


 目線をずらし、デュークはミグロッサの方を見やる。


 デュークの縋るような視線を受けて、諸々を察してくれたのだろう。ミグロッサは一つ深々と頷いた。


 丸椅子から立ち上がり、診察室から薄暗い廊下へと向かう。


 最後に一度振り返り、何か言葉を掛けようとして、しかし何も思い浮かばない。


 仕方なく、デュークは開きかけた口を閉じながら。


「…………行ってくる」


 口の中に留まるほどの小声で、自らに言い聞かせるようにそう呟いた。

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