第26話 良い話悪い話

『――兄さん、学校には慣れた?』


 いつものように、優花から電話が掛かってきた。

 優花は何かにつけて俺の顔を見たがるので、今日もメッセージアプリを通したビデオ通話だ。


「ああ、大分な」


 慣れたといえば、慣れたか。

 不覚にも、学園のことを想像すれば浮かぶ顔が何人か出てくるほど、俺は少なくない関わりをつくってしまっているのだから。

 本来なら、完全なぼっちとして卒業するつもりだったのにな。

 言い訳ではないが、今になって思う。

 一人きりを貫いたまま卒業したところで、俺が何を得ることができたというのだろう?何がもたらされたのだろう?

 それで俺の罪は、洗い流されるのだろうか?

 あいつはそれで、満足するのだろうか?

 俺が赦されるのは、誰にも関わらない、ということを以て成されるものではないように思えてきた。

 むしろ……向き合うことでしか、俺はあいつの……矢嶋にしてしまったことの清算が、できないんじゃないか?


「優花こそ、俺のいない生活には慣れた?」

『慣れないよ。今すぐにでも兄さんに戻ってきてほしい』

「そうか。でもなぁ、俺も今すぐ戻るってわけにもいかないし」

『じゃあ私がそっちに行って、兄さんと一緒に暮らすのは?』

「うちの寮は女子禁制だからなぁ」

『大丈夫。私が男装すれば解決』


 そうまでして一緒にいたいと態度で示す優花には、よほど寂しい思いをさせてしまっていたのかと後悔が生まれてしまう。


「却下。そもそも、お前を男子寮に引っ張り込むようなことをしたくない。他の男子と関わらせたくないからな」

『に、兄さんが独占欲を……!』


 優花の顔は真っ赤になり、両手を頬に当てて瞳を潤ませた。スマホはスタンドに立てかけてあるらしく、さきほどからずっと画面が固定されたままだ。

 まあ、大事な義妹ではあるけどさ。

 独占欲とは違うかも。

 優花を寮の男子と関わらせることで、心配なことが二つあったのだ。

 一つは、知らない男子ばかりの環境に放り込んだら優花の「アレルギー」が発生してしまう心配があること。

 今でこそだいぶマシになったけれど、母子家庭が長かった優花は老若問わず男性に対する偏見が強く、塩対応がデフォルトなのだ。男子の割合が多い集団生活にはまったく向かない。

 二つ目……これが一番大きな理由なのだが。

 縁寮には、寮長として野々部がいるのだ。

 目的のために手段を問わないあいつが近くにいたら、どんな理由で優花を利用されるかわかったもんじゃない。

 優花はすっかりごきげんになったようで、背骨の力が抜けてふにゃふにゃ状態になっている。その顔、人前ではしないようにな。

 まあ、以前の優花は俺が相手でもこういう態度を見せてくれることがなかったのだ。それだけに、ちょっと感慨深い。


「俺の話はもういいだろ。優花こそ、学校はどうなんだ?」

『一応、毎日通ってる。一人だけ、よく話す知り合いができて』

「知り合い? それ、友達じゃなくて?」

『知り合いなの』


 うってかわって、むすっとする優花。


「なんだ、嫌いなの?」

『そうじゃないけど。ノリが合わない』

「ノリ……か。どんな子なの?」

『えっ、兄さん他の女に興味があるの? なんで? 顔も知らないその子の方が好きだから?』

「そういうことじゃない」


 急に怖い顔をするな。そういうノリは安次嶺だけで間に合ってる。


「大事な妹の友達は、兄貴として気になるもんだ。それに、友達じゃなくて知り合いだなんて引っかかる言い方をしたから気になって」

『……その子、すごく元気なの。明るくてスポーツが得意でいつも笑ってるから、私とはタイプが全然違う』

「いいじゃないか。人が良さそうで。そういうリーダーシップ取れるヤツと友達だとクラス内でもいい位置にいられて得するんじゃないか?」

『でもその子、私のどこが気に入ったのか、なんか女騎士気取りっていうか』

「女騎士……?」

『なにかと私に寄ってきては、「ユウカ様のことは、ワタシがお守りしますから」とか、別に普通のこと言っただけなのに、「流石ユウカ様。あまりの見識の深さに脳筋のワタシまで理論派になった気がします!」って褒めるの。おかげで周りの人から、私がなんだか凄い人扱いされて、それに応えないといけないプレッシャーが掛かるの』


 想像以上に優花の周りの環境は愉快なことになっているようだ。


『でも、その子経由で他の子とも話すし……体育の時に見学続きだった時、隣のクラスの子からサボってる人って言われたら、代わりにその子が怒ってくれて……そういう親切なところもあるから、あっち行ってって言えない』


 優花は毎日学校に通うようになったけれど、元々体が弱いから体育も内容によっては見学しないといけない時がある。無理をするとすぐ熱を出してしまうのだ。


「じゃあ、それでいいんじゃないか? 優花のこと守ってくれてるみたいだし」

『うん。おかげで同じクラスには、私のこと悪く言いそうな子はいないかな』


 どうやら優花は、ユニークな友達と一緒ながらも、毎日学校に行っているようだ。登校拒否の経験がある優花としては、毎日普通に学校に行くだけで大したものだと思う。

 つまり、優花もまた、俺の周りの人と同じく立ち向かっているということ。

 ……ますます、俺は本当にこのままでいいのか悩まされることになるな。

 思わず苦笑しそうになった時だ。


『この間、うちに矢嶋さんが来たの』

「…………」

『兄さん?』

「あ、ああ。聞いてる。それで……何の用事で?」

『兄さんに会いたがってた。連絡先を教えようとしたけど、矢嶋さんは「ありがとう。でも、先輩に直接言わないと意味がないから」って断られた』

「……そうか」

『兄さん。一度、またこっちに戻ってこられない? 兄さんが矢嶋さんを遠ざければ遠ざけるほど、矢嶋さんは兄さんのことを心配する。……それじゃ、永遠に何も解決できなくて、兄さんもこっちに戻ってきてくれなくなっちゃう』

「……悪いな、優花。もう時間だ。俺はこれから勉強しないといけないんだよ。予習復習で毎日大変なんだ」

『えっ? 兄さん?』


 優花の返事を聞くことなく、俺は通話を打ち切った。

 スマホを畳に放り出した俺は、ふてくされるような気分で寝転がる。

 優花にはああ言ったものの、勉強する気にはなれなかった。


「矢嶋、まさか俺を許そうっていうのか?」


 思い返せば、矢嶋からこれまで恨み言を言われた覚えはない。

  

 ――塚本さんのせいじゃないですよ。むしろおれのせいです。先輩は、爆弾ゲームの運悪い一人になっちゃっただけなんですから。

  

 あいつは病院から戻ってきた直後でさえ、そう言って笑った。

 一年後輩の矢嶋樹とは、小学生時代に始めたボクシングを通して出会った仲だ。

 クラスメイトが誰かしら習い事をしているのを羨ましく思い、そこで選んだのだが、ボクシングだった。

 ボクシングを始めた動機なんて、些細なことだ。

 ジムの近くを歩いている時、ガラス張りの窓から見えた、自分よりずっとデカい男たちがひたすらミットやサンドバッグにパンチを打ち込む姿に憧れたというだけのこと。

 俺がボクシングジムに通うようになって一年経った頃、矢嶋は親に連れられてジムに現れた。

 その時の矢嶋は、背も低いし体も細いし、うつむきがちで一度もジムの中にいる俺たちと視線を合わせようともしなかった。

 この子は弱くて、よく学校でからかわれるんです。だからここで強くしてもらおうと思って。

 矢嶋本人の意思ではなく、親の意思で、矢嶋はボクシングジムに通うようになった。


「……絶対、3日も持たずに逃げ出すと思ったんだけどな」


 矢嶋には、天性の才能があったのだろう。

 初めてのミット打ちの時、その細い腕でどうやっているんだと思えるくらい強く鋭い破裂音を炸裂させていた。

 その瞬間、俺を含めたみんなは、矢嶋の異質な才能に気づいた。

 矢嶋は真面目で謙虚で、見た目と違って根性もあったから、ジムに出入りするいかつい大人からも好かれた。

 きっかけは親だったとしても、矢嶋は今後長く自分を向上させてくれるものを見つけたのだ。


「……俺さえいなければ、あいつは将来、パウンド・フォー・パウンドな世界王者になって超有名人になってただろうにな」


 あいつのボクシング人生は、高校一年生の夏までしか続かなかった。

 俺が原因だ。

 俺が壊した。

 だから俺は逃げてきたのだ。

 俺のことを誰も知らないこの町まで。

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