私たちはどこから来るのか

ふじこ

私たちはどこから来るのか

 まっくらやみ。

 おそろしくはない。目を開けているのにひとすじの光も拾えないけれども、おそろしくはない。

 ひざを曲げて、せなかを丸めて、ふわふわと浮かんでいる。まっくらな部屋は、わたしのからだをちょうど包み込むぐらいの広さしかない。すこし手をのばせば、すこし足をけとばせば、やわらかな壁にぶつかる。せまいのにちっとも息苦しくない。

 波のような。いや、川のせせらぎのような。まとまった液体が流れていくような音が聞こえる。ここちよい。おなかは満たされていて、手足をもぞもぞとうごかしながら、眠たいなあと感じる。

 目を閉じてもまっくらやみだ。

 まげた膝をかかえるにはわたしの腕はみじかくて、しかたなしに手を顔の前までもってくる。

 遠くでだれかがうたっている。

 まだわたしが知らないうたを。


 記憶の中のわたしがめざめるのと同じタイミングで、私も目を覚ます。ヘッドセットの隙間から、LEDライトの白い明かりが差し込んできて、目を細める。眠たくはない。原理的には夢を見ているのと同じだとしても、本当に眠っているわけではない。ヘッドセットを外して体を起こし、壁掛け時計を見る。記憶を見始めてから三十分ほどが経っている。そろそろ同居人の仕事も終わっているだろうか。サイドテーブルにヘッドセットを置いて、充電コードをヘッドセットの後頭部にある端子につなぎ、ベッドを降りる。クイーンサイズのベッドは二人寝には十分な広さだ。ただ、ヘッドセットは私のものしか備え付けていない。ときどき、同居人が本当に眠っている横で、私だけが記憶に潜っているのを、申し訳なく思うことがある。

 寝室の明かりを消し、リビングにつながるドアを開けると、思った通り、同居人は仕事を終えていたようで、ソファにだらしなく寝転がっていた。

「聡子」

 声をかけると跳ね起きる。低い位置でまとめたお団子髪が、寝転んだせいなのか、仕事中に無意識にいじくり回したせいなのか、乱れて、ぴょんぴょんと毛束が飛び出してしまっている。

「ユンちゃん。終わった?」

「終わった。聡子も、仕事終わったの」

「今日のノルマはね。晩ご飯どうしよっか」

「せっかく金曜日だし、食べに出ない?」

「いいね! 準備してくるからちょっと待って」

「私も。メイク直したい」

「寝てたもんね」

「寝てないよ」

 笑いながら応酬する。些細なコミュニケーションになんともいえない幸福を覚える。洗面台の前に二人で並んで、乱れた髪を直す。互いの髪型を、ワックスをつけた指先でちょんちょんと整える。似合うメイクは違うけれど、少しずつ色味をリンクさせる。聡子は、在宅ワークとはいえ人に見せられる服装だったからそのまま、私だけ、伸びきったスウェットの部屋着を着替える。黒のブラウスに白いスラックスの聡子と似合うように、モノクロのバードチェック柄のシャツワンピースに、白いカーディガンを羽織ってみる。玄関に立つ聡子はベージュのジャケットを羽織っていて、なかなかいい組み合わせに仕上がったと思う。

「どこにしようか」

「アヒージョ食べたいな」

「じゃあスペインバル? 駅前にあったかな」

 玄関ドアを閉めて、スマートウォッチをドアノブにかざして施錠する。我が家のドアのすぐそばにエレベーターがあり、ドアの開閉を関知して自動で呼び出しがされている。階数表示をぼんやり見上げていると、すぐにエレベーターが到着して、ドアが開いた。聡子と二人で乗り込んで「一階へ」と命じれば、すみやかにドアが閉まった。

 エレベーターの操作盤の上部のモニターには、ニュースではなく広告が表示されている。新型の記憶体験用ヘッドセットの広告だ。近頃、あちこちで見かける。聡子は、なぜだか熱心にその広告を見上げている。

「欲しいの?」

 私が尋ねると、聡子はゆっくりと首を横に振って「そういうわけじゃないけど」と呟く。モニターの画面が切り替わり、「臨海地区の動物園でパンダの赤ちゃんが誕生」なんてくだらなくてほっとするニュースが表示される。「気になってはいて」と聡子が目を伏せるのと同時に、エレベーターが一階についた。


 聡子は記憶に潜りたがらない。

 自分の記憶を自由に引き出して追体験する装置が一般向けに発売されてから、記憶に潜ることはひとつの娯楽として広まって、定着しつつある。一昔前の携帯ゲーム機と同じぐらいの値段で、廉価なヘッドセットなら購入できるようになり、推奨はされないが、小学生でも記憶に潜ることが出てき始めている。

 聡子が記憶に潜らないのは、装置自体を「冒涜だ」と騒ぎ立てる過激派だからでも、一度記憶に潜ったら戻ってこられなくなるんじゃないかと過剰な不安を抱いている恐怖症だからでもない。「思い出したくない記憶ばかりだから」と聡子は言う。

 私だって聡子が生まれてから今までのすべてを知っているわけじゃないけれど、一緒に暮らしている中でぽつりぽつりと聡子が話す、聡子のこれまでの歴史は、確かに楽しいものではなかった。生まれたとき、生まれた後の家庭環境も、私と出会った大学以前の学校生活も、聡子は決して明るくは語らない。目を伏せて、少し声を詰まらせながら、本当にぽつりぽつりと話す。聞いている私まで苦しくなるような話し方だ。だから私も聡子に話させたくはないし、聡子が思い出したくないというならその方がいいのだと思う。

 テーブルの端に備え付けられた注文用の端末の画面に、レベーターで見たのと同じ、新型のヘッドセットの広告が表示される。アヒージョのオイルをたっぷりしみこませたバゲットを口に入れようとしていた聡子は、オリーブオイルが机にしたたり落ちるのも構わずに、広告をじっと見ていた。

「ねえ、聡子」と話しかけながら、聡子の手からバゲットを奪って、自分の口に入れる。ニンニクの香りとほのかな塩気、オリーブオイルのジューシーさがたまらない。何切れでも食べれそうだ。聡子は恨めしげに私を見た。ほっとする。

「やっぱり、その最新型、欲しいんじゃないの」

 バゲットを飲み込んでから私が尋ねると、聡子は、目を伏せて、ゆっくりと首を横に振る。「そういうわけじゃないけど」と言う割に、伏せた目はまだ表示されている広告の方を見ようとしている。記憶に潜りたがらない聡子がヘッドセットの広告に興味を示しているのに、得体の知れない違和感が募るのだ。募った違和感は不安になる。いつもと違うことが起こるんじゃないかという漠然とした不安になって、私に聡子へ手を伸ばさせる。

「話したくないなら話さなくてもいい、けど、気になるし、心配だよ。急に、気にし始めるから」

「……そんなに、見てすぐに分かるぐらい?」

「分かるよ。私はいつも聡子を見てるんだから」

 聡子は、聡子の頬に触れた私の手に自分の手を添えて、私の手に頭を預けるように少し首を傾げると「ユンちゃんにはかなわないなあ」と、困ったように笑った。そして、空いている右手で、机の端の端末の画面をピンチアウトして、拡大表示した。表示されているのは、ヘッドセットの広告のままだ。聡子は、拡大表示された広告をスライドさせて、端の方の小さな文字の注釈を指さしながら「私が気になるのは、これなの」とささやいた。


「先着百名限定! 審査の上、拡張機能『記憶消去』をお試しいただけます。」


 要するに大規模な治験じゃないか、と思った。と同時に、そういえば記憶の追体験の装置自体が、トラウマだったかPTSDだったかの治療方法の一つとして開発された、というような話を思い出した。治療用だった装置を娯楽にも使えるように調整し、一般向けに流通させているのが、私たちが現に使える装置、ということだ。

 きっと拡張機能とやらも、すでに医療である程度の実績があり、安全性が担保されているから、一般向けに販売されるのだろうと、多少無理矢理に自分を納得させた。大規模な治験だろうという考えは今でも拭えないが、それ以上に、聡子が望むなら叶えてあげたいと思ってしまった。惚れた弱みなのか、惚れさせられた弱みなのか分からない。

 何種類かの同意書や申請書と一緒に、ヘッドセットの使用履歴のデータをメーカーに送付して、一週間後には返事代わりに商品が届いた。私が、審査をクリアして、拡張機能『記憶消去』がインストールされたヘッドセットを購入した、ということになっている。実際に使うのは聡子だ。これぐらいのずるは許してほしい。クレジットカードと同じで、真っ白なヒストリーは真っ黒と同じだと思ったのだ。

 新型のヘッドセットの見た目は、私が持っているものとほとんど変わらなかった。全体はフルフェイスのヘルメットと同じ形状だ。後頭部に充電用と通信用の端子がある。側頭部と頭頂部に精密な機械が埋め込まれ、前面は、何かあったときにヘッドセットをかぶったままでも視界が確保できるように、サングラスのような素材で、開閉できるようになっている。聡子がヘッドセットをかぶってベッドに横たわっている姿を見るのは新鮮だった。と同時に、聡子が一人で記憶に潜り置いて行かれるのを、少し寂しいと思う。聡子もいつもこんな気持ちでいたのだろうかと考えた。

 「チュートリアル終わった」と聡子が言った。心なしか声に元気がない。チュートリアルは、よい方向にも悪い方向にもさほど心身に影響を与えない記憶に潜るというものだったはずだが、それだけでも聡子には負担だったのだろう。「大丈夫」ととっさに尋ねたが、ヘッドセットの下から少しのぞく血の気のない唇は、なんとか笑っている。

「大丈夫。次、記憶消去やってみる」

「もう少し慣らしてからの方がいいんじゃない」

「いやだよ。思い出したくないことばっかりなのに」

 聡子を止めようとは思わなかった。思い出したくない記憶ばかりで、記憶消去を使うなんて、聡子はどれだけの記憶を残しておきたいのだろうと思った。思うだけではすまなくて「ねえ、聡子」と不安が声に出てしまう。

「どの記憶を消すつもりなの」

 んーだかうーだか、言葉にならないような声がヘッドセットの下から聞こえる。

「ユンちゃんが好きなのって、自分じゃ思い出せない時期の記憶でしょ。胎内記憶ってやつだっけ」

「そうだよ。すごく落ち着くから」

「きっと、私のはそうじゃないと思うんだ。自分じゃ思い出せないけど。でも、自分じゃ思い出せないなら、消しちゃってもいいのかな、とも思って。……もしかしたら、思い出したくない記憶の一番はじめを消しちゃえば、その後も何か変わったりしないかな、なんて思ってるの」

 とっさに何も返事ができなくて、視線も合わないのに、聡子の顔をじっと見つめていた。聡子は「じゃあ、始めるね」と言ったきり、眠っているように、死んでいるように、動かなくなる。

 自分では思い出せないけれど確かに私の中にある記憶。潜ると安心して、落ち着く記憶。はじまりの記憶。そのときのわたしは知らなくて、今の私は知っている歌を、口ずさむ。

 聡子の望み通りに、一番はじめの、自分では思い出せないような記憶が消えてしまったら、どうなるんだろうか。


 ベッドのサイドテーブルに置きっぱなしになっていたヘッドセットにふと気が付いた。私がずっと使っていたのと、聡子に買ってあげたものと、二つとも、うっすらと埃をかぶっている。長らく使っていなかったし、どこに置いているのか気にしてもいなかった。私のヘッドセットをそっと持ち上げて、服の袖で埃を拭う。少し曇りがとれたヘッドセットを、電源を入れずにかぶってみた。ヘッドセットの中も埃っぽくて、目をつむったときのような真っ暗闇に安心するよりも、くしゃみをこらえるのが大変で、すぐにヘッドセットを脱いでしまった。

 リビングの時計のアラームが鳴る。聡子とのビデオ通話の時間だ。脱いだヘッドセットをサイドテーブルの上に戻して、髪の毛を手で直しながら、リビングに戻る。

 ソファに座って、クッションを抱えて、ローテーブルの上の端末の画面を点ける。すぐに着信の知らせがあって、応答のマークをタップすると、相変わらずショートヘアの聡子の顔が画面いっぱいに映った。

「おはよう、ユンちゃん」

 今日の聡子は落ち着いているらしい、と最初の挨拶一つで判断する。第一声から、子どもっぽい舌っ足らずのときもあれば、声変わりした男性のような低い声の時もある。そうでなく、一緒に暮らしていたときに聞いたような、私が知っている聡子らしい声が聞こえてくれば、安心もする。

「おはよう、聡子。元気?」

「元気だよ。ユンちゃんは?」

「元気。今日も仕事だよ」

「うわあ、大変」

 チャーミングに笑いながら、聡子が言う。大変だよ、と応じながら私も笑う。聡子の方がよっぽど大変じゃん、と思うだけで、いつだって言葉は飲み込む。

 いま聡子がいるのはグループホームというか、シェルターというか。一人では安全に暮らすことが難しい人が共同で生活を送る場所で、本当なら外部との通信も禁止らしいのだけど、聡子の場合は、私とだけは一日一回の通話が許可されている。いつか、その場所を出ることができたときのためでもあるそうだ。

 自分では思い出せない古い記憶、少し専門的にいうと「幼児期健忘」以前の記憶を消した後の聡子は、聡子だけど聡子じゃなくなった。聡子自身だって自分が誰か分かっているのに、昨日何をしたのか明日何をするべきか覚えているのに、「聡子ってこういう人だよね」と形容するべきような、一貫した性格傾向みたいなものが、すっかり失われてしまった。

 後から思い出すからきれいに言葉にまとまるだけで、そのとき、その瞬間は、私も聡子も何が起こっているのか全く分からなかった。昨日は不気味なくらいに口数が少なかった聡子が、今日は止めても止まらないくらいしゃべり倒していて、その次の日には何に対しても怒っていたかと思うと、さらに次の日にはすべてに絶望して泣いていた。私以上に混乱していたのは聡子で、毎日違う自分になるみたいだ、と寝る前の一瞬に怯えたようにこぼすことが何度もあった。

 なんとか取り繕えたのは一ヶ月ほどで、その日はずっと怒鳴り散らしていた聡子をなだめようとした私を、聡子が突き飛ばして、運悪く足を滑らせて仰向けに転倒した私が少しの間気を失っていた隙に、聡子がベランダから飛び降りようとしていたのを止めて、二人して限界を悟った。何が起こっているのか分からなくて、病院に駆け込むのも違う気がしたけれどそれくらいしか思いつかなくて、二人でてと手を取り合いながら大きな病院の脳神経外科とやらを受診した。その日の聡子は子どもみたいに、私の手をずっと握りしめていた。

 そんなこんなを経て、聡子はこの家を出て施設で暮らし始めて、私は聡子と暮らしていた家で今もひとりで暮らしている。一日一回のビデオ通話でしか聡子と話せないのが、でも今はそれくらいでちょうどいいのかもしれないとも思う。毎日人が変わったようになる聡子と一緒に暮らすのは、私にはきっと無理だった。

「今日は何をするの」

「今日は陶芸するって言ってた。上手にできたらユンちゃんに送るね」

「ありがとう、楽しみにしてる」

 聡子がいない部屋に聡子が作ったものだけが増えていく。聡子が仕事に使っていたデスクの上に、折り紙細工が、陶器が、羊毛フェルトの人形が、季節の花を描いた絵葉書が、増えて、増えて、もうすぐ置き場もなくなりそうだ。

 聡子の調子は少しずつよくなっている。と、医者にも言われたし、毎日会話していてもそう思う。ああ、前と同じ聡子だと感じる聡子と話す日が、少しずつ増えてきている。どうしてそうなっているかは分からない。医者も、どうしてこうなったのかきちんと説明はできないみたいで、曖昧な例え話でしか教えてもらえなかった。「土台を失ったジェンガは崩れるしかないでしょう」なんて、何のよすがになるだろう。土台をもう一度組み直せばいいというのだろうか。でも、思い出せない記憶をもう一度作るなんてどうしたらいいのだろう。何より、聡子が思い出したくない記憶をもう一度作り出すなんて、聡子の決心を無碍にしたようで、私が嫌だった。

 今の聡子の変化が、それとは別の手段で土台を作り直しているということなら、きっと回復と呼んでいいのだと思う。もしそのことに私が関わっているなら、私はこれからもそれを支え続けたいと思う。聡子のデスクがいっぱいになれば棚を買おうと思うし、聡子の食器も自分のと一緒に洗おうと思うし、いいなと思った服があったら買ってクローゼットにしまっておこうと思う。

「ユンちゃん」

「なに、聡子」

「好きだよ」

「私も。聡子のことが、好きだよ」

 いつもの締めくくりを言って、画面の向こうの聡子と目を合わせて、笑い合う。はじまりの記憶がなくなったって、私たちはずっと一緒に、歩いていける。

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