後編

 こうして、勢いでベースを弾いてみることになったんだけど、私には考えが足りなかったのかも。


 弾くっていっても、アパートの中で思いっきり音を出したら近所迷惑になる。

 だからユウくんは、アンプにイヤホンを繋いで、そこから音が出るようにしたんだけど、それが問題だったの。


 ユウくんの持ってたイヤホンはワイヤレスじゃない、有線タイプ。

 音は、私とユウくんの二人とも聞こえなきゃ意味がないから、二つあるイヤーピースの片方を私が、もう片方をユウくんがつけたんだけど、そうしたらどうなるか。


 ユウくんの顔が、とてもとても近くにあるんです。


「弾き方は、ピックを使うのと直接手でやる方法があるけど、どっちがいい?」

「え、えっと……」


 ごめんなさい。そんなこと言われても、どっちがいいかなんてわかりません。

 というか、そんなの考える余裕がないの。顔が近くにあるってことは体だって近くて、ほとんど密着しそうな距離。


 バクバク言ってる私の心臓の音が聞こえるんじゃないかって、心配になってくる。


 だけどユウくんはそれには気づかず、さっきまでと同じ調子で教えてくる。


「それじゃ、とりあえず手で弾く方法をやってみようか。まずは、親指をここに置いて。それから、他の指先を揃える」

「こ、こうかな?」


 説明を聞いてやってみるけど、正解の形なんて知らないから、本当にこれでいいのかはわからない。

 するとユウくん、なんと、私の手を掴んできた。


「ひゃあっ!」

「ここはもう少し、こういう風にした方がいいかな。これが基本の形になるから、覚えておいて」

「は、はい……」


 一応はいって答えたけど、ちゃんと覚えられるかな。

 頭の中がいっぱいいっぱいになってて、とてもそんな余裕なさそうなんだけど。


 そんな私と違って、ユウくんに動揺した様子はちっともない。

 そうだよね。くっつくくらい近くにいても、手を握っても、相手が妹ならなんとも思わないよね。

 わかってるけど、ちょっと切ない。


「それじゃ、実際に音を出してみようか。指の位置と動きは──」


 いけない。いくら不純な動機で始めたっていっても、ユウくんは真剣に教えてくれるんだから、ちゃんと真面目に聞かないと。


 邪念を捨てなきゃ。

 距離が近くても手を握られても、いちいち動揺してちゃダメ。

 いや、動揺しないのは無理だけど、それはそれとして、できるだけ集中するんだ。


 そうして、ユウくんに教えられた通り指を動かす。

 だけど、なかなか思ってるような音が出ない。たった一音鳴らすだけなのに、ユウくんが弾いてる時と比べると、音がぼやけた感じになっている。


「指が少し浮いてるのかも。弦をしっかり抑えるように意識して、もう一度やってみて」

「う、うん」


 言われた通り、強く弦を押さえながら、もう一度音を出す。今度は、さっきよりももっとハッキリとした音を出せたような気がした。


「そうそう、その調子。じゃあ、次の音やってみようか」

「うん」


 それからしばらくの間、ユウくんに教えられながら、言われた通りの音を出していく。

 新しい音に移る度に、動きを教えるため手を握られドキドキしっぱなしだったけど、ちゃんと音を出せるように頑張った。


 だってユウくんが、真剣に教えてくれているのがわかるから。

 ユウくんにとって、ベースは大切で大好きなもの。それを誰かに教えるんだから、そうなるのも当然。

 だったら私は、全力でそれに応えたい。不純な動機で始めてしまったからこそ、せめてそういうのはしっかりしないと。


 たった今教えてもらったやり方を思い出しながら、順番に音を鳴らす。

 だけどこれが、結構大変。

 さっきみたいに弦がちゃんと押さえられてないこともあるし、一つの音を鳴らした後次に移る時、思った通りに指が動かない。

 できれば、ユウくんにはあんまりかっこ悪いところ見せたくないんだけどな。


「落ち着いて。やり方はちゃんと合ってるから、あとは何度かやってるうちに、どうすればいいのか自然にわかるようになるから」


 ユウくんはそう言うけど、本当にそうなのかな。

 けど、どうせ弾くなら、ちゃんと音を出すくらいはやってみたい。そう思いながら、何度も何度も繰り返してみる。


 それがどれだけ続いたかな。

 一度だけ、指がすごくスムーズに動いて、どの音もぼやけることなくしっかりと出せた。


「おっ。今のは上手だったな」

「本当!?」

「ああ。藍、才能あるんじゃないか?」

「音を出せただけで!?」


 いやいや。これだけで才能があるっていうのは、いくらなんでも贔屓目がすぎるよ。

けど自分でもうまくできたかなって思ったところでそう言われたものだから、嬉しくなってユウくんを見る。


 すると、ユウくんの顔が、思いの外すぐ近くに迫っていた。


「────っ!」


 そうだった。私たち、ほとんど密着するくらい近くにいたんだ。


 今さらそれを思い出し、カッと体が熱くなる。

 こんな大事なこと、今まで忘れてたなんて!


 声こそあげなかったけど、心の中では大慌て。

 何とか気持ちを落ち着かせようと、深呼吸を繰り返す。


「疲れたのか?」

「あっ、いや、そういうわけじゃないんだけど……」


 ある意味精神的にはすっごい疲れてるけど、ユウくんが思ってるような疲れとは違うから。


 そう思いながら、一度耳に着けてたイヤホンを外す。

 これ以上こんな近い距離にいたら、いよいよ心臓が持たないよ。


 するとその時、部屋の外から、町内放送のチャイムの音が聞こえてきた。

 夕方になったのを告げるチャイムだ。


「えっ。もうこんな時間?」


 別に、このチャイムが鳴ったからって、すぐに家に帰らなきゃいけないってわけじゃない。

 ただ、いつの間にこんなに時間が経っていたんだろうってビックリした。


「時間が経つのも忘れるくらい、熱心にやってたってことだな」

「そ、そうなのかな?」

「ああ。よく頑張ったな」


 集中しなきゃとは思ってたけど、それってユウくんに教わるんだからしっかりしようとしただけなんだよね。

 そんな風に言われるとなんだか申し訳ない気がするんだけど。


「それで、やってみてどうだった? 少しは楽しかったか?」

「えっ?」


 どうだろう。楽しいかどうかなんて、あんまり深く考えてなかった。


 だけど、言われて考える。


 ほとんどうまくできなかったけど、思った通りに指が動いて、ちゃんとした音が出せた時は、嬉しかった。

 それに、ドキドキした。

 手の位置を教わった時も、練習を見てもらってた時も、アドバイスしてもらった時も、ずっとずっとドキドキしてた。


 って、そのドキドキはベースじゃなくて、ユウくんが近くにいたからか。

 だけどそこまで考えたら、自然と答えは出てきた。


「うん。楽しかった」


 吊り橋効果やゲレンデマジックみたいな恋愛テクニックを使えないか。

 そんな不純な動機で始めたけど、ユウくんに教えてもらったベースの練習、間違いなく楽しかった。


「ねえ。今度また、続きを教えてくれない?」

「いいよ。藍が弾いてみたいって思ったなら、いくらでも教えるから」


 ユウくんはニッコリと笑いながら、私の頭をぽんぽんと撫でる。


 それでまた、ドクンと胸が大きく鳴る。

 いきなりサラッとこんなことするなんてズルいって!


 そしてそれと同じくらい、また教えてもらえるんだってことにワクワクした。


 これ、すっごいことだから!

 ユウくんに頭撫でて貰うのと同じくらいって、私にとっては最上級の衝撃なんだから!


 いつの間にか自分でも知らないうちに、本当にベースに興味が出てきたのかも。


 そういえば、吊り橋効果やゲレンデマジックって、ドキドキしている時に一緒にいた人を好きになるってやつなんだよね。

 そして私は、教えてもらってる間ずっと、ユウくんにドキドキしっぱなしだった。

 つまりそれって、ユウくんにドキドキしてたせいでベースを好きになったってこと?


 本当にそうなのかはわからないけど、まあいいか。

 好きなもの、楽しいものが増えるのは、きっといいことなんだから。







 後になって振り返ると、これが私がベースを弾くようになるスタートだった。


 その後私は、この時使ったユウくん愛用のベースをもらって、進学した高校で軽音部に入って、音楽に打ち込みながら高校生活を送ることになるんだけど、それはまた別の話。


 そして、私のことを妹としか見ていない、だけどすっごく可愛がってくれているユウくんへの恋がどうなるかも、また別の話。


 ただどっちも全力で、ドキドキやワクワクを何度も経験することになるんだけど、この時の私は、そんなこと知る由もなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私がベースを始めた日。〜初恋のお兄ちゃんに好きになってもらいたいから、恋愛心理学に頼ります〜 無月兄 @tukuyomimutuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画