焼肉スタート

江戸川台ルーペ

我々の焼肉スタートは19時半である。


 焼肉は隔月、あるいはメンバーが希望すれば不定期で開催される特別スペシャルな宴である。メンバーは僕を含めて大体四名、全員男で、焼肉を食べるために毎日過酷な労働を乗り切っている、おじさん達だ。

 

 行く店とメンバーは固定されているので、メニューを注文する係は持ち回りで決まっている。肉を注文する係は「肉奉行」、焼く係は「焼き奉行」と呼称される。「肉奉行」は全てのメニュー発注を取り仕切っている。何かを注文する際には、飲み物を除いて必ず肉奉行を通さなければならない。スペシャルな焼肉を司る総司令官であるから、個人プレーをした者は激しく糾弾される。中盤あたりで勝手に「上ミノを味噌で1人前」などとオーダーされては困るのだ。網が荒れる。そして、その「網」、いわば檜舞台周りを一手に引き受けるのが「焼き奉行」である。かつて「焼き奴隷」と呼称して、毎回ジャンケンをして決めていたのだが、「焼きという名称はこんにち的にいかがなものか」という(いかにもオジサンらしい)意見が上がったので、いじらしくも肉奉行と同格の焼きに昇格した。呼称は同じ奉行であるが、網を司る役割であって、肉奉行がオーダーし、テーブルに供された肉を皿から炭火燃え盛る網に移す実行部隊に過ぎないことには変わりはない。焼き奉行という名前に溺れ、特権階級意識をもってオーダーなどを始めてしまうとやはり網が荒れるので、他の二名、いわゆるに厳しく監視される。階級名は同列だが、序列としては肉奉行の下に位置するのだ。唯一無二の神聖な行為とされる網交換をオーダーする役割が肉奉行であることがその証左である。

 網奉行以外の者が、網にスペースが空いたから等と言って、勝手に謹製トングを用い、肉を網に載せるのもご法度である。絶対にやってはいけない。それは焼き奉行の職務であって、肉奉行のものではないし、市民のものでもない。スペースが空いたら、そこを埋めるのは焼き奉行の使命である。炭火を一秒たりとも無駄にしない、高価な国産炭火の高出力エネルギーをレイ・コンマ・一秒も無駄にしないことを固く胸に誓う、肉を焼く事だけに命を捧げた冷血マシーンと化しているのだ。そのお陰で、市民及び肉奉行は己の焼肉を味わうという、至高の時間を過ごす事が出来る。焼きたて熱々の肉を、自分のタイミングで飯にバウンドさせ、口に運ぶ事ができるし、目を閉じてその旨さを味わうことが出来るし、咀嚼している間に新しい肉は既に焼き奉行によって焼かれているし、どの肉を自分が食べて良い物か、網奉行が圧倒的指揮権をもって指定しているので、育成中の肉が横領される心配もなく、まさに全身全霊で肉を味わえる訳、なのである。いつか必ず自分にも焼き奉行という使命が回ってくるのだ。それまでの間、肉を存分に堪能する事が肉奉行及び市民の職務であると言える。

 ちなみに、話が盛り上がって焼き奉行以外が肉をうっかり網に載せてしまった場合、焼き奉行は思いっきり舌打ちをして良い事になっている。聖職を犯した者に対して厳しく人格否定を含む罵声を浴びせることも可であり、それは聖域を犯した者が「ごめんなさい」をするまで続けられる権利をもつ。これはこれで、普段しない舌打ちを思いっきり連続でやれたり、「困るんだよなぁ、素人にそういう勝手な事をされると」「お前は自分を弁えてない。そんなに偉くなったんか? 俺を誰だと思ってんだ? さん付けで俺の名前を呼んでみろ」「これだからキャリア系はダメなんだ。使えねえ!」などと、あることない事を一方的に思いっきり言えるチャンスであり、これはこれで楽しい。市民なども「早くごめんなさいしちゃえよ」とか同調圧力を掛けることもできれば、「次見返せばいいんだよ、一緒に頑張っていこ」「俺はお前が悪いとは思ってないよ」などと青春の一ページを演出することもできる。良いつまみになる。焼き奉行は、辛い思いをしているのだ。自分の肉を最高のタイミングで口に運ぼうとする瞬間、他の者が網にスペースを作ると、己の口に運ぶが先か、スペースを埋めるが先か、一瞬の逡巡が生じるのだ。焼き奉行として、一瞬たりとも網上に空スペースを作らないことが誉れであり、栄誉なのだ。やむを得ず口に運ぶ作業を中断して箸からトングに持ち換え、肉を網の上に滑り込ませる瞬間の切なさ、やるせなさは筆舌に尽くしがたい。しかし、だからこそほかの者たちが肉を心から味わうことが出来ているのだ、という小さな誇りが、いささかいびつではあるが、自己犠牲の上に成り立つ多幸感を味わえる瞬間でもあり、収束する先は「焼肉と俺って最高」の境地であるのだ。実際、焼肉が終わった後、良い焼き奉行だった、と称えることも少なくない。また、スタートアップに選ばれる事が多い開幕ソーセージは5本あるので、焼き奉行が1本多く食べることが許されている。それだけ焼き奉行は皆に愛され、必要とされている証左であろう。余談ではあるが、焼き加減は個々に委ねられている。本来焼き奉行専用とされているトングを使って、好きなタイミングでひっくり返して良い。焼きの好みは個々人違うので、基本的肉権は守られていると言えよう。


 前段が長くなってしまったが、我々の焼肉スタートは19時半である。四名のおじさん達は今日の為に体調を整えて、各々が準備万端、後は肉を胃に放り込むだけ、という万全の体調である。席に着くと、最初に肉奉行から一通りオーダーし、運ばれてくるまでの間、雑談に興じる。飲み物とキムチ、ナムルなどが運ばれてくると乾杯をする。この宴が催されるまでの一か月、ないし二か月の間にあった個人的な良い出来事を、何でもいいからひとつ挙げて乾杯をする。各1挙げてその中から選ぶのではなくて(そんな小学校の学級会みたいな事は腹を空かせたおじさん共には不可能)、思いついた良き出来事について発せられた最初のひとつで決まりである。何だって良いのだ。乾杯の口実に過ぎない。その乾杯の場で僕が喰らった一番衝撃の言葉は「来月入籍する俺に!」であったが、まあそれは置いておいて、大体「ウマ娘の課金に」とか「テトリス世界五位に」とか「通っている歯医者のお姉さんに」などとわりかしどうでも良いことが挙げられる。

 そうして、上タン塩が運ばれてくる。厚みがある特別な上タン塩で、大皿の上でバラのように咲き誇っており、何度見ても全員で「うおぉ……」などと声が上がる。SNSをやっている者は写真に収め、焼き奉行が「よろしいか」の一言を発してからおもむろにトングで上タン塩を挟み、網の上に載せて焼き始める。ガスではなく、炭火焼きである。


 炭火で炙られた牛タンはやがて、キュウ~、キュウ~という音を発し始め、表面をとろりとした水分が覆い始める。肉が焼ける良い匂いが立ち込めてきて、それを四名は大体黙って見守っている。やがて表面から水分、いや脂か、両方かも知れないが、そいつがトロトロと流れ始め、溢れて炭火に到達するとジュァーっていう音がする。そこら辺で大体、いやいや、たまらんすな、そうですな、などと言いあったりする。傍から見たら、初めて会った人たちみたいに見えるかも知れないが、そうではない。単に集中しているのだ。タンだけに。ひっくり返したり、そのまま見守る者もおり、宴最初の肉を全身全霊で見守っている。炭火は毎回場所によって温度が違うので、それを見極める必要もある。焼きあがったタイミングで一人、絞ったレモンの小皿につけて頬張る。しばらく誰も喋らない。響くのは周囲の会話だけだ。大体、最初の一口を齧った者は「うむ」と言う。言わなかったら「どうすか?」と僕が聞く。大体、美味いね、と返される。決して「ん?」、等と首を傾げたりしない。この店の牛タンは常に、必ず前回の上をいく、というのが我々が通い続けている理由だ。空いた網スペースに焼き奉行がすかさずネクスト・上タン塩を滑り込ませる。すべてが潤滑に機能している。そうして、僕もやにわに焼きあがった牛タンを箸で掴み、ジュウジュウと良い感じの焦げ目をつけた方を下にしてレモンにちょい、そしてバグリ、一口では入らないから、半分ほどをかみちぎって味わう。外はカリっとしているが、中は美しいピンク色で、噛むと肉汁がむせそうなくらいに湧き出て来る。こんがりと焼けていればシャクリ、という音を立てて噛み切れるが、そうではない場合、弾力を帯びた柔らかな肉がうねうねと口の中を踊り狂い、熟成された肉の、濃縮されたうま味たっぷりの肉汁を放出しながら胃袋に落ちていく。少しだけ麦飯を後追いさせると、口内に残った肉のうま味を麦飯がまとって、喉を通っていく。たまらんすな、と誰かが言う。たまらんすな、と僕も言う。ああ、たまらん、と他の人たちも言う。網の上では既に次の肉が焼かれている。焼き奉行が隅々に目を光らせている。


 次に来るのは上ロースである。ロースは脂身が少なく、お皿にSUICAよりやや小さめの大きさに切りそろえられた厚めの肉が、大きな四つ葉クローバーのように盛られており、奇麗な赤身表面と大皿の余白には塩と胡椒が振られている。焼き奉行には、その塩が振られている面を下、つまり炭火側にして焼く事が求められている。ここが一番の見せ所である。僕は以前、うっかり塩の面を上にして焼いてしまった事があるが、酷い目にあった。それだけ焼き奉行の責任は重いのだ。焼きの場は戦場、そして常に最前線。気を抜いたら即、死に繋がるということを肝に銘じなければならない。上ロースには特別に供される「ニンニク醤油」を付けていただく。こんがり焼かず、焼き面の繊維がパリパリになる前にひっくり返し、上から茶色、しっとりピンク、薄い茶色の層になったら完成である。しっかりと焼くウェルダン者は、レア派からすると「引き上げが遅い」となるが、肉は人の前では自由である。僕はレア派なので、炭火で炙る面の肉の繊維が少し深めに入ったところでひっくり返し、もう片方も同じくらい火に炙ってから食べる。網から箸で持ち上げると、テロンという音がでそうなくらいトロトロした肉片で、表面から美味そうな湯気が立っているのが見える。内側に汁をたっぷりと蓄えているのが箸越しに伝わってくる。まるで肉汁を含んだ袋のようだ。その先端をニンニク醤油につけ、ご飯の上にバウンドさせてからガブリと嚙みつくと、ニンニク醤油と相まったトロリとした熱い肉の汁が、瞬時に口の中を占領する。外側はしっかり焼いてあるから、閉じ込められた肉汁がここぞとばかりに飛び出してくるのだ。牛タンが主役のはずなのに、上ロースがその座を狙っているとしか思えない。肉奉行によっては、ニンニクカップも注文しているので、油でほっこりと揚がったニンニクを箸で軽く潰し、上ロースの上に載せてから食べるとこれも非常に美味い。ただし、上あごの火傷には注意が必要となる。


 やがて、上カルビのタレもやってくる。上カルビは普通のカルビと比べてより幅広の薄切りで、ご飯を包むのに丁度いい形をしている。しっかりとタレに付け込まれた上カルビは深い赤と淡い赤(脂身の部分)をまだらに湛え、切られた肉の角の丸みは熟成さを示し、その表面には白ゴマが点々と振られている。卓上には店独自のタレが置いてあるので、そいつを小皿に垂らしておく。味は十分に肉に入っているので、タレを使わなくとも美味しい。僕は卓上のタレを使うが、他の者たちは使わない。切り身が大きいので、四名分を焼くとほぼ網が全て埋まってしまう。肉にあっという間に火が入ってしまうから、ここでもほぼ会話はない。稀に話で盛り上がっていると、焼き奉行以外が肉をひっくり返すことも発生する。肉が進み、大らかな気分になると会話も弾むのだ。焼き奉行が罵られることはないし、越権した者が罵られることもない。それは肉がもたらす楽しく・明るい・前向きなマジックであるからだ。その現象下において、ニンゲン、あまりにも無力である。人間には、我々にはお互いを助け合う、という素晴らしい本能が元来備わっており、こうした焼きの場で発現する、という事実は美しいと言わざるを得ない。焼肉の前で、ニンゲン性はひときわ輝くのだ。焼肉ありがとう、と申し上げたい。そうして焼きあがった上カルビを別皿のタレにしっかり目に浸し、先ほどの上ロースのあられもない攻撃によって削られた麦飯の上を覆うように載せる。お茶碗の端からはみ出しそうなくらい、大ぶりのカルビだ。それを、ご飯を包むように熱々のカルビを持ち上げ、一気に食らいつく。肉とタレの甘味が口内で大爆発し、麦飯の残存勢力がみるみる減少していく。彼らは職務を全うしているのだ。カルビの脂が、タレと協同して暴れまわる口内を鎮圧すべく、さらなる戦力むぎめしの追加投入を判断せざるを得ないのであります。これにもほっこりニンニクが最高に合う。麦飯と上カルビ(タレ)の暴力が去った後、後追いでほくほくニンニク単体で食べるのが好きだ。そいつを冷たいビールで流し込めば、次の瞬間世界が滅びても問題ないな、と冷静に思える。そういう力がある。


 その後は、肉奉行によって様々だが、ネギ塩カルビ、厚切り上ロース(まだロース喰うんかい)、ハラミ(タレ)などと展開していく。それらのすべてを文章化するのは難しいが、どれもが美味い。直近では厚切り上ロースを一人一個(2500円くらいする)目の前の網でゆっくりと焼き上げ、かぶり付くという禁断の食し方が開発され、物議を呼んでいる。いくらなんでも、2500円は高額ではないか、しかし、極厚極上肉の焼き立てロースに、箸でお行儀悪くかぶり付ける場所がこの店以外にあるか否か、というような議論を、腹パンパンのおじさん達が議論しながら、店を後にする事となる。とても良い肉だった、良い奉行であった、などと称えながら。あるいは極稀に、誰かの粗相を罵りながら。食後のガムを嚙む者もいる。都内の夜は冬は寒く、夏は暑い。そのようにして、宴は終焉を迎えるのだ。この先十年後も、二十年後も、変わらずこのようにして焼肉を19時半にスタートさせて行ければなぁ、と思っている。それに勝る喜びはない。







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