人の に触れてしまいました

きつね月

人の に触れてしまいました


 ええ、残念ながらノンフィクションなんです。

 たった数日前のお話です。場所も状況もなにもかもを伏せますが、事実だったことだけは事実です。


 最初に断っておくと、事件性なんてものはまるでなく、事故でも自殺でも(もちろん他殺なんかでも)なく、その人はまるで眠るような表情で、私はただそれを一番初めに見つけてしまった――というだけのことでした。劇的な展開はなにもありません。人は生きて ぬのです。こんなことはありふれている。


 こんなのは普通のこと。


 世界的にはなんでもない。地球の規模で見ればそよ風も吹いていない。そんな出来事でしかない。それは重々承知ですが、しかし最期に見たその顔と、血の通わない冷たいその手の感触が、今でも脳裏と指先に残って離れてくれないのです。

 どうしてでしょうか。

 一説によると、世界では一秒間に一・八人もの人間が んでいるそうです。

  ぬことなんて珍しいことでもなんでもない。例えば共食いをするカマキリのように、仲間の骸を食料とする蟻のように、人はもっとそれに慣れてもいいとは思いませんか?話を盛り上げるためにモブがたくさん んでいくフィクション映画のごとく、私の命もその人の命も(恐縮ですがきっとたぶんあなたのそれも)重いものではない。大したことではないはずなんです。

 でも、そうは思えない。

 見ず知らずの人の に顔が、硬直の始まったその冷たい感触が、あまりにも生々しくて、今でもまるでそこにそれがあるみたいで、奇妙な興奮、うっすらと吐き気、手の震え。数日経った今でも私は、自分が冷静なのかどうかわかりません。


 こんなのは普通のこと。

 こんなのは普通のこと。

 こんなのは普通のこと。


 そう、自分に言い聞かせている感じです。


  ぬということは、一体どういうことでしょうか。

 私たちは必ず ぬ。

 今存在する人類、今まで存在した人類、そしてきっとこれから存在する人類に至るまで、人は必ず ぬ(不死の薬でも開発されない限りは)。それだけの を積み重ねておきながら、人はそれについて確かなところはなにもしらない。

 これだけ考えなくてもいいことをさんざん思考して、作らなくてもいいものをたくさん発明して、暇さえあれば脳みそを大きくさせてきた人類が、 ぬことについてだけはその手がかりすらつかめない。妄想する以外に考える方法もない。そうなるともうほんとうに、「なにもない」、というのが単純な真実なんじゃないかと疑ってしまいます。

 命はただの化学反応。そのエネルギーが切れれば止まる。意思も心も感情も、全部が――そう言われても今の私には否定ができない。

 あなたはどうですか?

 哲学的ゾンビっていうのがありますけど、あれってまさに人間のことではないのですか?

 


 閑話休題。

 


 ところで、かのスティーブン・キングはその昔に言いました。

 『ずばり、テレパシーである』、と。

 もちろんそれは ぬことについてのお話ではなく、それは書くことについて(もっと言えば芸術全般について)のお話でした。

 ここで書いたものが時も空間も越えて誰かのもとに届く。それはずばりテレパシーである――というお話です。

 私も全くそう思います。

 例えば小説や、曲や、絵について考えても、それが人の手による創作である以上、一番初めの景色は作者の頭の中にしかないものです。それが多くの人間の頭のなかに共有されている。まさしくテレパシーです。異論はありません。


 じゃあなぜ、人間はそんなテレパシーを互いに送ったり受け取ったりするのでしょうか。仕事上必要なことだというならわかります。国を運営していくために、または子供を教育するために必要だというのなら、それもわかります。

 でもそれ以外のものもたくさんある。この世に溢れている芸術なんて、それ以外の方が多いでしょう。生きたいだとか、 にたいだとか、愛だとか恋だとかギャグだとかシュールだとか猟奇だとか、笑えるものから真剣なものまで、実益だけを考えたら不要と判断せざるを得ないがらくたでこの世は溢れている。そのがらくたの一つ一つがテレパシーである、というのであれば、人はどうしてそんなものを送ったり受け取ったりするのでしょう。もっと効率よく生活する方法はあるのに、時には人生を削ってまでがらくたを創り、時には人生を削ってまでがらくたを受け取ろうとする。それはどうしてなのでしょうか。

 

 から――


 なのではないかと、私は思います。

 誰かの書いた下らない話を読んでげらげら笑ってみたり、 にたいという誰かの歌詞に涙を流してみたり、同じキャラを好きになった誰かの絵にいいね、を押してみたり。もうその最終的に身も蓋もなく陳腐なことを言ってしまえば、「生きている」ってことを誰かに確かめてもらいたいんじゃないでしょうか。

 だって、


  んだらもう、テレパシーは必要ない。

  んだらもう、笑えないし。

  んだらもう、涙も流せないし。

  んだらもう、いいねも押せない。


 生きていないからもう生きていることを確かめる必要もないし、誰かに確かめてもらう必要もない。

  に顔が脳裏に焼き付いたのは、その手の感触が忘れられないのは、私が生きているから。それをわざわざこんな駄文にしたためているのは、生きていることを確かめてもらいたいから。

 どうですか、私は、生きていますか?

 今まさに、こんな文章を書いている私は、本当に生きているんでしょうか?

 あなたはそれを確かめてくれますか?






 最後に。


 




 『神様と戦ってるみたいだ』


 っていう曲をこの前ネット上で見つけました。

 タイトルが気になって何気なく聴いてみたら、とてもいい曲でした。

 こんな風に誰かのテレパシーを受け取って、今私は生きている。だから私もテレパシーを送ります。あなたに。



 その人は眠るように目を瞑っていました。

 詳しい事情まではわかりませんが、その状況を考えると幸せな人生だったとは言えないのかもしれません。しかしそれでも最期は目を閉じて、静かに呼吸を止めていました。

 まるで戦い終わった後のような感じだと思いました。

 何と戦っているのかもはっきりわからないし、何のために戦っているのかもわからないし、優勢なのか劣性なのか、そもそも勝ち目があるのかもわかりません。それでもその人は戦って、戦い終えて目を閉じて、それを見る私の目はまだ開いている。体は熱をもっている。

 この人は戦いを終えた。

 でも私はまだ戦い続けなくちゃいけない。

 下らない話でげらげら笑って。切実な命の歌に涙を流して。好きな風景を一時も手放さずに。最期には必ず消えてなくなるという気のせいみたいなこの命を、その最期まで続けなくちゃいけない。


 ――生きていかなきゃいけない


 人の死に触れて、私はそう思ったのでした。

 


 

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