第2話
決して小規模ではないタウンハウスに住まう女主人・ジュリーは、十一歳以降の多感な時期をパリで過ごした。演劇学校へ進学し、女優としてのキャリアを積み始め、ほどなくして恋人と婚約した。二十一歳の時である。
しかし、いざ正式に夫婦となると、夫は有無を言わさずジュリーをロンドンへ連れてゆき、そのままどこかへ消えてしまった。
ジュリー曰く、夫とは「それきり」だった。
幸せな結婚生活はただの一日もないまま、さして土地勘もないロンドンに置き去りにされ、もう三年経つ。
幸い、今でも生活費は定期的に送られてくる。足りないと思ったことはない。彼の名義でたまに届くアクセサリーや宝石類も勘定に入れれば、むしろ贅沢すぎるほどだ。
金銭的な面ではあまり文句をつけられる立場ではないが、ジュリーの現状はやはり軟禁に近い。足枷こそないものの、ジュリーがパリへ帰ることは叶わないだろう。
潤沢な生活費も、高価なプレゼントも、必要なものがすべて揃った住まいも、何もかもすべてはきっと、ジュリーがロンドンから出ることを禁ずる警告のために用意されたものなのだ。
嵌められたのだと今では思う。
演劇学校時代から女優同士の競争は激しく、ライトの当たらないステージ裏では、熾烈な貶め合いと暴力が罷り通っていた。
しかしながら、ジュリーは演劇界において、さほど足を引っ張られたような覚えがない。
なにしろ運が良かったのだ。賞賛を浴びるのが早すぎたのである。
十六歳の初舞台以来、小さい役ではあったがしばらく当たり役が続き、おかげですぐにパリの名士や戯曲家から気に入られた。さらには、たまたまパリを訪れていた名うてのアメリカ人俳優から直々に賞賛され、ジュリーは一躍スターの扱いを受けることとなった。
当時は、ただ努力が実ったのだと思っていた。驕っていたわけではない。ジュリーとしては、誰に誉めそやされようとも道半ばであることに変わりなかった。いつか主役大役を任され、演じ切ることこそが大望であった。
前へ前へ、さらなる高みへ。
今思えば、そうやっていつも上ばかり見ていた。脇目もふらず、前ばかり見ていて、足元を見ていなかった。だからいつの間にか、ひょいと掬われてしまったのかもしれない。
少し考えればわかることだった。ジュリーはそこそこ悪目立ちしていたに違いなく、彼女の退場を願う者だって、掃いて捨てるほどいただろうことを。
まだ慣れない頃、ろくに知り合いもいないロンドンでの生活には、何度も心折れそうになった。一応下手な英語は話せるし、どうしようもないほど困ることはない。それでもときどき、無性に母国語が恋しくなる。三年の間に何度かメイドを募ったが、流暢にフランス語を話せる者はなかなか見つからなかった。
そこで、ジュリーは暇つぶしの話し相手として、メイドとは別にフランス人を雇うことにした。
侍女やハウスメイドと違い、よく働くか、時間にまめかなど、些末なことはどうでもいい。一回きりでも良かったし、旅行中の学生をしばらく通わせたこともある。
突き詰めれば、必ずしもフランス人である必要もない。ジュリーは後腐れない話し相手を欲しているだけで、過去の栄光や、思い出を誰かと共有したいわけではないのだ。
それに、女優としてのジュリーを知っている人間は、敵か味方か判然とせず落ち着かない。いっそ自分と境遇の似ていない者のほうが、純粋に会話を楽しめる気がした。
今日、新しく雇ったのは、セージュという十二〜三歳の小柄な少年だった。ジュリーの写真が頻繁に新聞に載っていたのは四年以上前だ。セージュが当時のパリに居たとしても、ジュリーの名前も顔もろくに覚えていないだろう。
それにしてもセージュは不思議な少年だった。十三歳にしては妙に落ち着きがあり、所作も言葉遣いも、どこで覚えたのか大人びている。
見ようによっては、裕福な貴族の子が浮浪児のふりをしているようだ。無論、そんな馬鹿げたことはありえないし、仮にそうだとしても、もっと巧くやるだろう。
そんな風変わりな少年とジュリーは、驚くほど話題を共有できなかった。聞けばセージュは田舎育ちで、オペラ・ガルニエもエトワール凱旋門も見たことがないらしい。かろうじてセーヌ川だけは知っていたが、それもほとんど名前だけだった。
「セージュ、紹介人からはあなたがパリに居たと聞かされたの。その時から浮浪児だったの?」
ジュリーとしては、相手が浮浪児でも娼婦でも構わない。訛りはきついが、セージュはフランス語でジュリーと淀みなく会話できている。ならばこれ以上望むことはないのだが、これまで雇った誰よりも幼いせいか、つい根掘り葉掘り聞きたくなってしまう。
セージュは軽く肩をすぼめるようにしながら「はい、奥様」と答えた。
「その通りでございます。日銭を稼げる町々、より人の多い場所を探しているうちに、自然と辿り着きました。けれどパリには、それほど長く滞在していたわけではないのです。おそらく人攫いの類かと存じますが、気付けば僕は海の上で、小さな船に閉じ込められていました。おびただしい数の女子供が乗せられていましたので、隙を見て逃げ出し、辿り着いたのが――」
ロンドンだったのです、と、セージュはまるで悲壮感のない声でそう結んだ。
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