ルヴナンと泡えかな奇談蒐集家
平蕾知初雪
第1話
「セージュというの? 馴染みのない名前だわ。洗礼は? 受けていないのかしら」
一瞬、記憶の湖を浚う。ダイアナだ、とセージュは思い出した。確か「赤毛のアン」の中に、このような台詞があった。
「そうかもしれません。山奥に生まれ育ったので、教会さえなかったのです。お気になさるようでしたら、信徒のように、セルジュと呼んで頂いて結構でございます」
奥様、と、淀みなくそう言うのは間違いなく自分自身である。が、意識とは無関係に口が勝手に動くような感覚がした。
もちろん、ビジネスの場では常々、舌が勝手に回るという自覚はあるが、それとは似て非なるものだ。
しいて言えば、昔どこかで覚えた台詞を久方ぶりに再現するようであった。
これは一体どういうシチュエーションであるのか。セージュにはまるで見当がつかない。
先ほどまで何をしていただろう。それも思い出せない。
セージュの意識はたった今目覚めたばかりのように、突如『ここ』から始まったのだ。確たるものはないが、セージュはどうやら、自身の過去の記憶をなぞっているらしい。
――あるいは、過去に囚われてしまったのかしら。
自分が奥様と呼んだブルネットの貴婦人は、紫色のシンプルなドレスを纏っている。一見簡素なようだが、裾にあしらわれたレースの意匠は随分と凝っていた。しかもシルエットから、明らかにオートクチュールと判る。小ぶりの真珠を連ねた耳飾りも、間違いなく高価なものだろう。
「セージュでいいわ。セルジュは身内だけで三人はいるもの」
彼女の言葉はいかにも溜息混じりなものだった。億劫なのか疲れているのか、あるいは単に退屈で、セージュの呼び方などどうでもいいのかもしれない。
セージュはドレスから貴婦人の横顔に視線を移した。身なりにも声音にも落ち着きがあるせいで三十歳近くに見えるが、実年齢はもっと若いはずだ。
セージュは知っている。この時代の女性はそうなのだ、と。
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