黒猫

増田朋美

黒猫

今日も寒くて外へなかなか出るのは難しいと言う日であったが、電車の中では平気で人が乗っているし、スーパーマーケットでは普通に人が出入りしている。暑さ寒さ関係なく、人間は外へ出て、経済活動をしたり、大変な中あるきまわったりするものだが、中には冬眠する動物もいる。その代表的なものはクマなどがいるが、他にもどんな動物がいるだろうか。

その日。杉ちゃんと由紀子は、カールさんの運営しているリサイクルきもの店である、増田呉服店に行ったのであるが、杉ちゃんが店の入口の引き戸をガラッと開けたところ、小さな黒猫が、杉ちゃんたちの前に駆け寄ってきた。ツヤツヤの羽二重みたいな真っ黒い毛で、目は金色の目をしている。

「あれ、猫ちゃん飼い始めたの?」

杉ちゃんが思わずカールさんに言うと、

「いやあね、家の店の前に誰かが捨てていったんだよ。まあ人懐っこい子でね。すぐに誰かの膝の上に乗りたがるので、そのまま家へ住み着いてしまったというわけで。」

カールさんは猫を見て言った。

「へえ、黒猫か。縁起悪いとする国家もあるけれど、日本では可愛がられていたようだな。名前はクロちゃんかい?」

杉ちゃんがそう聞くと、

「一応、きいちゃんと言っている。小さいし、黒いし、それでいいということで。」

と、カールさんは言った。どうやらオス猫のようで、女性が好きなようだ。由紀子の足元に座り込んで、頬ずりなんかしているのだから。

「そうなんだね。なんか黒って言うと、黒紋付とか、そういうものを連想しちゃうけれど、黒留袖とか、そういうものもあるんだし、縁起のいいものでもあるわな。餌なんかどうしてるの?煮干しでも買ってこようか?」

杉ちゃんがそう言うと、

「一応キャットフードはコンビニでも売っているからね。まあでもよく食欲のある子で、あげればよく食べるよ。」

カールさんはそういって、きいちゃんと呼ばれている黒猫を抱き上げたのであったが、なんだか黒の着物に黒猫ということで、不思議な光景だなと由紀子は思ってしまった。

「それで杉ちゃん今日は何の用事で?」

「ああ、白足袋に穴が開いてしまったので、新しいのを買いに来たんだよ。男性用で、一番小さいやつ一足無い?こはぜは、4枚でも5枚でもどっちでもいいや。」

杉ちゃんがそう言うと、カールさんはちょっとまってて、と猫を抱っこしたまま足袋を売り台から取り出した。その風景が、なんだか意外に見えたので、由紀子は思わず笑ってしまった。

「えーとこれでいいかな?4枚こはぜは、ちょっと今売れてしまってね。残念ながら今のところございません。」

杉ちゃんは、ああいいよと言ってそれを受け取った。そして、

「これでいいかな?」

と一万円札を差し出すと、カールさんは、ハイよと言って、すぐにお釣りの8500円を出して、杉ちゃんに渡した。黒猫ちゃんは、その間にもカールさんの腕の中で、大人しくしている。

「ほんと可愛いですね。クロちゃん、カールさんに馴染んでいるみたい。誰かに捨てられたなんて可哀想すぎるわ。縁あってカールさんのところに来たみたい。」

由紀子はカールさんに思わず言ってしまった。それにしても大人しい猫ちゃんだった。人にいくら触られても抱っこされても、平気で気持ちよさそうにしているのだから。

「もしかしたら、なんか特殊な訓練でもされているのかしら。ここまで人に慣れているんであれば、なんか癒やしのペットみたいな感じで、なにか仕事させてもいいような気がする。」

「由紀子さん、動物は商売のためだけにいるもんじゃないよ。」

杉ちゃんはそういったのであるが、カールさんも由紀子の話に応じた。

「ウンウン、それは聞いたことあるな。病気の人のために犬や猫が病院を訪問して、患者さんを癒やすという取り組みが始まっているそうだね。中には、大掛かりな治療であっても、犬や猫がそばにいれば怖くないという患者さんもいるそうだよ。例えばさ、注射が怖くて泣いてしまう子供がいるだろう?その子のそばに猫を連れて行くことで、注射が怖くないようにするという取り組みをしている病院もあるらしいから。」

「へえ、それは初耳だな。犬や猫がいれば、大掛かりな治療も怖くないか。なるほどねえ。犬や猫が医療現場で働くこともあるんかな。」

杉ちゃんがそれに口をはさむと、

「そういうふうに、犬や猫が医療現場に行って、患者さんの心を癒やすことで、治療に対する意欲を高めたり、心を癒やしたりすることは、最近広がり始めているらしい。最近は、精神を病んでいる人たちを癒やしてあげることもあるみたい。」

と、カールさんは黒猫を抱っこしながら言った。

「そうなんですか。それなら、きいちゃん、ちょっと貸して頂いてもよろしいでしょうか。あたし、どうしても彼を使って癒やしてあげたい人がいて。」

由紀子は、なにか思いついたらしくそう言ってしまった。カールさんは由紀子が何をするつもりなのか、すぐにわかってしまったらしく、

「ああいいですよ。癒やしてあげられるということで、この子も喜ぶでしょう。」

と言ってくれて、黒猫を由紀子に渡した。黒猫が、抵抗しないで由紀子の腕で大人しくしているので、やはり特殊な訓練を受けた猫ちゃんだったのかなと杉ちゃんも言った。

「ありがとうございます。必ず返しますから、この子を貸してください。」

由紀子はそう言って、購入した足袋を車椅子のポケットにしまった杉ちゃんに、製鉄所に帰ろうと言った。杉ちゃんもハイよと言って、

「じゃあ、猫ちゃん借りるから、また必ず返すからな。」

と言って、カールさんの店を出ていった。

二人は、由紀子が運転するポンコツのワゴンタイプの軽自動車に乗って製鉄所に帰った。きいちゃんは、杉ちゃんに抱っこされたままずっと動かななかった。製鉄所は、年末年始が少し落ち着いて、少し利用者が減ってはいたのであるが、それでも以前より利用者の人数が多いことには代わりはなかった。製鉄所と言っても鉄を作る場所ではなくて、居場所がない女性たちに、勉強や仕事などをさせる部屋を貸し出している福祉施設であった。と言っても、最近の利用者さんは、勉強をしている人はあまり多くなく、投稿サイトなどに掲載する小説などを書いたり、雑誌に応募する短歌などを作っている女性もいたりして、勉強する場所とはいい難くなっている。由紀子が製鉄所の玄関をくぐって部屋に入ると、一人の利用者が、水穂さんとなにか話しているのが見えた。和歌の得意な利用者は、自分の歌に曲でもつけてもらおうとしているらしく、水穂さんと音楽のことについて話しているようだ。

「ああおかえり杉ちゃん、由紀子さん。無事に足袋は買えましたか?」

利用者に聞かれて杉ちゃんは、すぐに買えたと答えた。いろんな面で過敏な利用者はちょっとした変化でもすぐわかるようで、杉ちゃんの腕に抱っこされている黒い猫ちゃんをすぐに発見した。

「あら、可愛い!どうしたの杉ちゃん。何処かから連れてきたの?」

「ああ、カールさんの猫でさ。ちょっと借りてきた。名前はきいちゃんだ。オス猫だと思うんだけどね。黒猫なんてちょっと縁起が悪いなんて言わないでくれよ。」

杉ちゃんがそう言うと、文学や歴史の得意な利用者は、こんな事を言った。

「そういえば黒猫は、幸運を招くものだって、言われがあったわよね。ほら、病気が良くなるとか、そういうことを言われたりするわよね。江戸時代の文献にそう書いてあったわ。」

「ほんなら、お前さんもこいつを抱いてみな。真っ黒だけど、かわいいよ。」

利用者と杉ちゃんにそう言われて、水穂さんはきいちゃんという黒猫を抱っこした。そして頭を撫でてやると、黒猫は小さくニャンと声を出した。

「ほんと、癒し系というか、動物は可愛いわね。そういう動物がいてくれると、嬉しいわね。」

みんな笑顔で黒猫を撫でたり抱っこし合ったりした。不思議なもので、黒猫は、いくら撫でても平気でいるのだ。それほどよほど人に慣れている猫だろう。

そうやってみんな楽しんでいたのに、楽しめないで過ごしている女性が一人いた。名前を、麻生寛子といった。黒猫を抱っこしている水穂さんを見て、寛子さんはとても嫌そうな顔をしながら、

「全くいいわねえ。水穂さん、そうやって、猫を抱っこさせてもらって。黒猫なんて、縁起悪い。魔女の側近だとか言われてるじゃない。」

と、杉ちゃんたちに言った。

「そうだけど、そんなの迷信だよ。かわいいし、性格もいいし、飼いやすいって言うじゃないか。」

とりあえず、杉ちゃんだけがそう返すのである。

「それとも、寛子さん。なにか悩んでいることでもあるんですか?」

水穂さんが黒猫を抱っこしたまま、そういったのであった。

「悩んでいることね。そりゃ誰だって悩んでいることはあると思うけど。だけど、みんなが悩んでいることと、あたしが悩んでいることは、ちょっと違うからな。」

寛子さんの決め台詞だった。ちょっと違うからという理由で、自分のことはほとんど他人に喋らない。その割に、感情がうまくコントロールできず、気持ちの切り替えとか、そういうことでは、人手を必要とするのである。だから、寛子さんに対しては、ちょっと接し方が難しいと、杉ちゃんたちは言っていた。

「違うって何が違うんだよ。お前さんも、少し素直になったらどうだ?お前さんだって本当は、猫ちゃん抱っこしたいんじゃないの?違うのかよ?」

杉ちゃんに言われて、寛子さんの顔が一瞬崩れた。

「ははあ、もう少し素直になりな。猫を飼ってみたいんじゃないのか?」

杉ちゃんはでかい声でそう言うと、

「そ、そんな事あるわけ無いじゃない!どうせ私の家では、猫なんて飼っても、すぐ叱られて追い出されるのが落ちだわ。そんなことくらい、私、何回も言ったと思うけど。」

寛子さんがそう言うが、その顔を変えるまではできなかったらしい。言葉はそう言っても、顔はそれ以上にものを言うときがある。

「寛子さん素直になりなよな。本当は、猫をかってみたくて、ウズウズしてるんだろう?それなら、ちゃんと、猫を飼いたいって、ご家族に言ってさ、それで、ペットショップでもつれていってもらえばいいじゃないか。」

「そうよ、少なくとも、寛子さんの家は、お金があるでしょ。一人暮らしの私よりもずっとお金がある家よ。一人暮らしでペットを飼えないとかそういう理由でも無いんだし。いろんなご家族がいて、良いお家じゃないの。」

杉ちゃんと由紀子が相次いでそういう事を言うと、寛子さんは、がっくりと落ち込んだようなかおをして、

「そうね。でも、私は働いていないし、どこかに所属しているわけでも無いし、そういう発言はできないわ。」

と、小さく言った。

「働いていなくても、ペットを飼っている人はいっぱいいるよ。」

杉ちゃんが言うと、

「そうなんでしょうね。でもうちは、そういうふうに自由な発言できる家庭じゃないわ。だから、なにかしたいとか、なにかしてほしいなんて発言をするのはぜったいむりよ。」

寛子さんは答えた。

「それはどうしてなの?寛子さんは、他に動物嫌いの兄弟がいるわけでも無いし、親御さんふたりとも仕事してるんでしょ?それで寛子さんもここへこさせてもらってるわけだし、結構自由にさせてもらっていると思うけど?なんで、そんな事言うの?」

由紀子が、寛子さんに思わずそう聞いてしまう。由紀子にしてみればそういう感想を持つかもしれなかった。寛子さんは、一人暮らしではないし、お父さんもお母さんもいて、それぞれ仕事を持っていると言っていた。確か、お祖母様は昨年に亡くなられたと言っていたが、お祖父様がまだ元気で、家の事はお祖父様がやっているとも聞いたことがある。他の利用者はそれだけ家族が揃っていて、寛子さんが、なぜ精神疾患に陥ったのか理由がわからないとも漏らしたことがあった。たしかに、そういう家族が揃っていて、寛子さんの事をご両親が理解してくれているのであれば、寛子さんは、幸福を感じてもいいはずなのに、寛子さんは決して自分が幸福であると言ったことはない。

「だから私は普通の人と違うからよ。それは、もう変えることのできないことじゃない。誰に言ったって、理解なんかしてもらえないわ。だから、いうだけ無駄なのよ。」

寛子さんは、そういうのであるが、きいちゃんを抱っこしていた水穂さんが、

「そうですか。少なくとも、僕たちみたいに、銘仙の着物しか着られないわけでは無いのですから、いいのではありませんか?でも、たしかに、わかってもらえないのはつらいですよね。きっと誰にも相談しても答えが得られなかったから、無駄だと言うのでしょう?」

と、寛子さんに言った。寛子さんはそれを言われても嬉しそうな顔を一つもしないで、

「結局のところ、私は、そういう身分では無いのかもしれないけど、それでも辛い思いをしていかなくちゃいけないのよ。誰にもわかってもらえないの。私の事なんて。きっと、わかって欲しいと思うことのほうが間違いなのね。それは、見ていてわかるわ。水穂さんだって幸せよね。みんなに看病してもらえるんだから。それは私にはできないな。」

というのだった。黒猫のきいちゃんの方は、寛子さんに興味を示したらしい。水穂さんの腕の中で彼女のことをじっと見ている。

「それでは、そのやってはいけないというか、みんなと違うところを話してみたらどうだ?僕も歩けないし、変えられないことへの辛さはわかっているつもりだぜ。僕も、どんなに歩こうと思ったって一生かけても無理だよな、はははは。」

杉ちゃんがわざと明るくそういうのであるが、寛子さんは、そんな話をする気にはなれないようで、そうねと小さい声で言った。黒猫のきいちゃんが、寛子さんに向かって、ニャンと小さい声で鳴いた。それに、寛子さんは、ひどく驚かされたらしい。

「まさか黒猫が私の方に声をかけてくるなんて。」

寛子さんは思わずそう言ってしまった。

「そういうことなら、ちゃんと話してくれ。僕らは隠しっぱなしというのはしたくないのでね。それに、お前さんも、変わらなくちゃ行けないと思うよ。そのためには、まず誰かに話すことが大事だろ。だから、それを話してさ、まず変わるための第一歩を踏み出そうよ。」

杉ちゃんに言われて、寛子さんは、震える唇を無理やり動かして、そして、杉ちゃんたちの方を見ることができないようで首を前にたれたまま、こういうのであった。

「だって私の家では、祖父がとにかく力を持っているし、家計の全ても祖父が握ってる。そして、父も母も私も、祖父からバカにされている。だから、自由にとか、そういうことはできないのよ。換気扇だって、つけられないし、食べるものも着るものも、住むところも皆祖父が決めているわ。だから、できるわけ無いじゃない。猫を飼ってなんて。そんな事したら、怒鳴られるに決まってるわよ。そういう人だから、なにかあれば怒鳴って、無理やり従わせる人だから。それに誰も祖父に歯向かおうと考えることはできないのよ。でないと家が回っていかないから。」

「そうなんだね。」

寛子さんの発言に杉ちゃんは言った。

「それ以上言わないで。もう答えはわかっているのよ。甘えるなとか、恵まれているからいいねとか、そういう事を言うのでしょう。それを聞かされるなら私に死なせて頂戴。もうそんな言葉は聞きたくない。絶対私が持っているつらい気持ちなんて、わかってくれる人なんか居ないから、人には絶対話してはいけないって母が言ってたわ。だってそうだもの、親がひどいことすることに対しての対処法に関する情報は色々あるのに、祖父がひどいことするのに対処する方法は一つもないんですからね。いくらスマートフォンで調べたって。だから辛くてしょうがないの。死んでしまいたいくらい辛いのよ。みんな、わかってくれるはずもないわ。そうなったら、私なんて生きていたって仕方ないのよ。」

寛子さんは、本当に辛そうだった。そのことから、つらい気持ちを抱えているのは嘘ではないことがわかった。そしてそれに対応する方法も無いということもわかった。

「そうなんですね。僕も、銘仙の着物しか着ることができなかったので、それに合わせて生きていかなくてはならなかったから、変えられない辛さというのは、ある程度は理解しているんですが、まず寛子さんの場合はもっと辛いでしょう。何よりも、お祖父様が存命であるわけだし、眼の前でご家族と喧嘩する様が繰り広げられているわけですからね。」

水穂さんが、そう寛子さんに言った。寛子さんは、水穂さんに向かって、

「でも、変な同情とか、そういう事をされても困る気持ちもあるの。だって、そういうことがいかに無意味なのか、あたし何回も経験してるから。いろんな人に言ってみたけど、結局できなかった。そういうことばっかりだったわ。どうしても変えられないで耐えているしか無いってこともあるってこと。もうどうしようも無いわよね。結局私は、生きていてもなんにも価値がないのよ。」

と、辛そうに言った。

「そういうことでしたら、一度だけクロちゃん抱いてみてやってくれませんかね。もちろん、変えられない事実があるとは思いますが、でも、心を癒やしてもらうことは、できるんじゃないでしょうか。それは、もしかしたら、人間にはできないことなのかもしれませんよ。」

水穂さんは、真っ黒な猫ちゃんを、寛子さんに差し出した。クロちゃんは抱かれるのに慣れているのだろう。何も抵抗感なく、そっと寛子さんの腕に乗った。寛子さんは思わず涙を見せてしまったが、杉ちゃんも由紀子も何も言わなかった。にこやかにそこにいる人達は、寛子さんがクロちゃんを抱っこしているのを眺めていた。そしてクロちゃんはやはりオス猫なのか女性が好きならしく、じっと、寛子さんに頬ずりなんかしているのだった。

その日も、風が吹いてきた。まだ、寒い日々が続いている。製鉄所のイタリアカサマツの木も、かなり葉を落としているようであった。

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黒猫 増田朋美 @masubuchi4996

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