冷凍庫、迷い路

井石 諦目

ある日、冷凍庫にて

 さて、深呼吸をしてみよう。男は思い立った。しかし鼻から空気を吸えば微かな腐臭、口から吸えば空舞う塵でむせる。更に嫌なことに、どちらにせよ粘膜が凍てつく程の冷気に曝されるのだ。結果として、彼が選んだのは浅く、軽い呼吸であった。それは鼻から下をネックウォーマーで覆い、何とか可能となった行動である。


「やっぱ寒ぃよ、ここ……」


 男は身に纏ったダウンコートを強く握って前を閉じた。業務用に購入されたそれがなければ、今頃彼は低体温症になっていただろう。着慣れた業務用のダウンコートには、所々汚れや破れが見られ、動く度に羽が中から溢れていた。そのダウンコートの下には、隠れた制服にはハズレかけた名札が縫い付けられていた。

 

 『佐藤祐希』。ありがちな名前である。およそ十年、一度も手直しをしていないその名札はボロボロだ。

 とは言え、それを指摘されることはほぼなかった。何せ、彼は社外の人間と関わることが稀だったのだ。見慣れた者たちにとって、態々指摘する理由もない。


 そして名札にはもう一つ、彼の名前以外の情報が記されていた。『有限会社・工藤冷凍倉庫』。彼の働く会社名である。


「…………なんかあったかな……」


 彼は近くにあった棚から、段ボールの箱を引きずり出した。重い、それもとんでもなく。本来フォークリフトで動かす荷物。重くて当然であった。


 そうして、ようやく引きずり出した段ボール箱。そこには本来あるべき物が見当たらなかった。

 それは物品識別用のタグである。シールの様なバーコード入りの識別タグを倉庫で保存直前に貼り付け、物品を管理するのが基本。つまりそれがないと言うことは、担当者の不備かの或いは、不審な物体と言うことだ。


「──で?中身は……」


 彼は無造作に慣れた手つきで段ボールを開いた。常に携帯しているペンとカッターナイフとハサミ。百円均一の店で購入した割に、入社以来彼の相棒となっている。


 箱を開き、中身を取り出し、彼は思わずため息を漏らす。


「…………んだよ、これ?」


 中にあったのは、大量の梱包材に包まれた小さな木箱。直方体であり、スマートフォンよりも少し厚くなった程度の大きさである。その木箱を慎重に開くと、中には渇いた枝の様な、或いは縮んだ古布の端切の様な物が一つ入っていた。


 いやに丁寧な梱包。重要な荷物なのだろうが、彼にはそれが価値ある物とは到底思えなかった。


 それよりも彼が欲していたのは熱源だ。ライターでもカイロでもいい。とにかくこの寒さを紛らわせるなら何でも良い。熱々のラーメンか唐揚げだとなお嬉しい。

 しかし現実は闇雲に非情。そもそもこの冷凍倉庫に置いてあるものは冷凍食品類であり、


 凡そ、2時間半。彼はこの冷凍倉庫の中をひたすら彷徨っていた。10年近く働いている職場、本来迷う道理など一切ない。ここは彼にとって実家の倉庫程度には馴染みのある場所である筈だった。

 だが、彼はその勝手知ったる場所で彷徨っていた。勿論、理由なくではない。


「………………どう、なって──」


 彼は視線を前へと向けた。右には、冷凍品の棚。左には冷凍品の棚。そして前へには──、


「どうなってんだよォ!!これぇえ!!」


 寒さに凍え、割れそうな喉で発した声。それはさながら、悲鳴であった。


 あり得ない。前には無限に通路が続いており、後方にも無限に通路が続いている。左右には冷凍品の詰まった棚が隙間なく立ち並び、進むか戻るか以外の自由は見当たらない。最早ここは、極寒の牢獄だ。

 そして彼にとって嘆かわしいことに、彼にはこうなった原因が検討もついていなかった。


 その異変に、発端らしい発端はなかった。いつもの様に、終業時間10分前に倉庫の見回りをしていただけ。一日中物を運び、書類を作り、上司の正社員に気を配っていただけ。いつもと全く変わらない。あとは帰って母親の作った飯を食べ、自室でスマホ弄りと発泡酒を楽しむだけ。その筈だったのだ。


 だが、見回りから戻ろうと振り返ると無限に続く通路が広がっていた。何事かと思い再度正面を見れば先程まであった筈の壁が消え失せていた。

 その時から、彼は果てのない一本道の真っ只中に立たされていた。


「……はぁ…………っクソッ!っさけんなよ!だァっ!どうしろってんだよこれ!」

 

 この二時間半、彼はひたすら歩いていた。とりあえず、前に向かって歩き続けていた。あてもなく希望もなく、凍え震えて歩き続けた。結果、得られたものと言えば空腹感ぐらいのものであった。


 そう、腹が減った。喉も乾いたし、酒も飲みたい。いや、贅沢言うつもりはなくて単純にこんだけ苦労したのだから少しぐらい良い思いさせてくれたって──。


「……ん?」


 ふと、彼は気がついた。目の前に大量に並ぶ冷凍品の入った段ボール箱達。その内の一つ、何やら迷彩色の布が見えていることに。

 通常、梱包には使われない絵柄。冷え切った心に湧いた小さな興味と言う灯火。それは誘蛾灯の様に彼を誘った。


「……中身は……おもっ…………んしょっ……と、ぁ?」


 彼が手に取った箱。その中身は、ビニール製の迷彩柄の布。そしてそれに包まれたランプに折りたたみの椅子。火おこしキットにライターにカップ麺にペットボトルにメスティン。所謂、キャンプキット一色であった。


「──やった……やったやったやった!!」


 乱雑にビニールの布を放り投げ、中身に勢いよく手を伸ばす。先ずは火だ。不慣れな手つきでチャッカマンを使い着火剤に点火。梱包に包まれていた段ボールで火を維持する。


 熱、久方ぶりの熱だ。それは彼の体だけでなく、心の奥底に熱をもたらした。その熱に酔い、逸る心のままに今度は水をメスティンで熱し始めた。普段なら無感情に過ぎる、湯が沸くまでの待ち時間。今この瞬間において、それは途方もなく長く、待ち遠しく、それでいて無法に愛おしい。


 やがて、メスティンには沸々と泡が開き始めた。立ち込める湯気の湿り気に心を躍らせ、出来上がった湯をカップ麺へと注いだ。そしてこれまた至福の三分が経過したのち、彼は勢いよく食事を始めた。


「……はふっ……ず……ずるっ…………はっ……あ゛ぁ、うま……ずる──」


 何の変哲もないカップ麺。それが今、たまらなく幸福を与えている。三分と経たず、彼はその食事を終えてしまった。


 腹の中に、熱とエネルギー源が灯る。こんな幸福、久しく感じていなかった。

 思えば最後に幸福を覚えた記憶がいつだったか覚えていない。楽しかった時間を思い返そうと思うと、何やら随分と昔の様な気がしてならない。何やら白紙続きの記憶と言う日誌を捲り、過去の幸いへと身を馳せていた。


 直ぐに思い出せる幸福と言えば、学生時代の記憶……10年も前だろうか。友人に誘われ遊んだ思い出達。映画館、ファミレス、カードショップ、ライブ、ラーメン屋、海……。どの瞬間の自分を切りとっても、今の自分とは比べられない程に煌びやかに輝いているのは明らかだ。


 いつの間にやら、話すことも無くなった友人達。今彼らが何をしているか、どこにいるのかすら分からない。そんな彼らとの、忘れ難い記憶であった。


 何やら、彼は懐古の思いと共に惨めさを覚えてきた。何故今の自分はこんなにも色彩のなく、無味乾燥の日々を過ごしているのだろうか。

 ──正直に言えば、心当たりがない訳ではない。親に急かされ、渡された見合い写真も結局見ていない。上司から打診された正社員雇用の話も、もう二週間は保留にしている。趣味らしい趣味もなく、休日は惰眠とネットでの無意義な情報収集。語ることが出来るのはおすすめのラーメン屋と発泡酒。

 これで、幸福を感じる筈も無かったのだ。


「……あの頃のが、よかったよな──」


 彼は思う。心から思う。ポロリと溢れた偽りのない本音であった。


 『あの頃』の記憶、彼はふとそれを思い出した。確かこんな風にキャンプをしたことがあった。蚊に刺されるし、食事は焦がすし、量が多すぎて腹がはち切れるほど喰わされたし、散々な思い出だ。だが、それは確かに楽しい思い出だった。

 そう言えばその時、今後もキャンプを趣味にしようとしてキャンプグッズを買ったのだ。キャンプグッズと言っても、買ったのはメスティンだけ。当時見てたアニメかドラマか漫画に影響され、底に傷をつけて名前を彫った記憶がある。


 彼は朧げな記憶に手を伸ばす様に、使い終わったメスティンへと手を伸ばした。


「確かそう、この辺に…………え──?」


 あった。メスティンの底の部分に、『佐藤祐希』と言う傷が、そこにはあった。

 ……あり得ない。だってこれは家の押し入れの奥か……あるいはリサイクルショップにでも売ってしまった筈。いや、そもそもキャンプキットこんなものがある時点であり得ないのだが、これは輪をかけて異常だ。


 心から、熱が失せた。心の底から、寒気を感じた。恐怖、と言うにはあまりに不定形で掴みどころのない感情。だが確かに、その違和感は彼の心に澱み始めた。


「…………行かないと……行かないとヤバい……!」


 彼は立ち上がり、再び歩き始めた。なるべく早く、しかし自分の焦りに気が付かない様に静かに堂々と。感じている不安に気がつけば、きっと心は簡単に堕ちる。だから、目を逸らす様に彼は必死に歩いた。


「……ぁ…………あれ……あれもしかして……あれ……ぁ、あぁ!!」


 必死に歩み続ける彼の目に写ったもの。今みでの光景と、ほんの僅かに異なる光景。それは光であった。何やら一際眩しい光源であった。地平線の向こう側まで果てしなく続くと思われていた道、そこに光が見えた。出口かも知れない、違うかも知れない。だがいずれにせよ、何かが変わりそうな予感に彼は走り出していた。


「……ハッ……ハッ……ハッ、ハッ……ハッ──!」


 走る走る。先程食べたカップ麺をエネルギー源に、全力のヤケクソでひた走る。


 そして彼は、通路の先──ゴールへと至った。


「………………なん、だ……これ──?」


 無限に続く通路を抜けた先、そこには無限に続く様な開けた部屋があった。無機質な天井と床がそのまま延長し、どこまでもどこまでも延びている様な空間。


 そしてもう一つ、彼の目を引くモノがあった。いや、『者』がいたのだ。それも、何百人と。

 途方もなく広がる空間、そこに数えきれない程の人が立っていた。彼らは何やら荷物を受け取っては手渡し、受け取っては手渡しを繰り返していた。荷物は目的地を目指している様子もなく、出鱈目かつ場当たり的に受け取られては、渡される。


 何だ、これは。何だ、こいつら。何だ、この情景は。


 そして何より、彼が恐ろしかったことが一つ。それは、そこに立っている人物が皆同じ背丈をしていること。同じ動きをしていること。同じ虚な表情をしていること。

 ──そして、同じ顔をしていること。


「────ひ……っ」


 どさり、音がした。それは彼が思わず尻餅をついた音。そこで気がついた。無数の『佐藤祐希』の集団。そこに、一定の頻度で人が増えていることに。


 どこから、どこから人が増えているのか。彼は周りを見渡す。どうやら、『佐藤祐希』達は一定の方向から現れ合流し、増えているらしい。

 その時、彼の立っている通路のから『佐藤祐希』がゆっくりと歩いて出てきた。ソレはそのまま『佐藤祐希』の群れへと向かい、他と同じ動作を行い始めた。


 彼は何か、悍ましい予感を感じた。ゆっくりと、慎重に、見るべきでない景色へと目を向ける。

 

「……っそだろ…………」


 彼の視界には、彼の隣に立った冷凍品の入った棚の列があった。彼の通路と平行に、があったのだ。

 その無数のから無数の『佐藤祐希』が現れては奥のへと加わっていく。

 

「……なんだよこれ……なんなんだよこれぇ……」


 もう隠しようも、目を逸らしようもない。彼は明確かつ絶対の恐怖を抱いていた。あり得ない状況に。あり得ない光景に。

 そして、彼らが一様に浮かべるに。


 そう、彼らの目は死んでいる。しかし、その表情には確かに笑みが浮かべられていたのだ。何が楽しいと言うのだろうか。あんな意味の分からない行動が。あんな意味の分からない状況が。


 ──いや、違う。あれは幸せそのものだ。あそこにはしがらみがない。眩く輝く過去の栄光もなければ、薄暗い未来もない。今の自身に劣等感を抱くことも無ければ、今の自分に不安を感じることもない。

 で、あるならば……あそこは、幸福なのではないだろうか。少なくとも今の自分より、幸福なのではないだろうか。


 一度心に浮き上がってきた澱みの渦。それは容赦なく、変化なく、ただ淡々と彼の内心を呑み込んでいく。

 あそこに行けば、苦悩も後悔も劣等もない。あそこにいけば、無味乾燥な日々であることに怯えなくていい。あそこは……あそこはきっと……幸せだ。


 自然と、足が前へと動いた。

 自然と、手が前へと伸びた。

 自然と、視線が前を向いた。


 ──あぁ、きっと……あそこに行けば……あそこに……あそ…………。


 止まった。動きが、止まった。何故なのだろう。足が、進まない。何か、強い力に引き留められている。


 はたと、足へと目を向けた。足には何もない。

 次に手へと目を向けた。動きを遮る物は見当たらない。


「…………ぁ……」


 違う、手足ではない。腰、いやだ。彼の腹、何やら紐の様な物が伸びていた。それは彼の来た道を遡る様に伸び、果てなく続いている様に見えた。


「ぁ……これ……かぁさん……?」


 それは、彼が繋がり得た他者との繋がり。切っても切れぬ、血の系譜。


 そこで、気がついた。このに氷付けになっていた荷物達。あれは全て、彼の過去だ。進めるでもなく、風化させるでもなく、大切に残すでもなく、何となく残しておいた記憶達だ。

 維持しようとした訳でもなく、断ち切ろうとした訳でもない、だ。


「──あぁ、そっか……」


 こんなにも、勿体ないことをしていたのか。あんなにも暖かな思い出達を、あんなにも美味しい思い出達を、あんなにも幸福な思い出達を──心の奥底にしまって、放り出していたのだ。


 彼は目の前にいる人の群れを見つめた。目的もなく、ひたすら動く人々。その光景には熱がなく、彼はそれを無機質であると感じた。


「…………俺は……あっちのが好きだな」


 立ち止まっていた踵を返す。そして、彼は来た道を戻り始めた。落ち着いた足取りで。しかし確かな歩みをもって。


 その道中、彼は先程のキャンプ地を見つけた。乱雑に放り出されたキャンプ用品。彼は何となく、それらを綺麗に片付け始めた。この思い出を、散らかしておきたくはなかったのだ。


「……これは…………折角だし、な」


 傷のついたメスティンを手に取り、何となくそれを防寒具の中に来た作業着の内ポケットにしまった。この冷凍された記憶達があると言う事実、それを忘れたくないと言う、彼なりのちっぽけな抵抗であった。


 歩く、歩く、そのまま歩く、堂々と。胸を張って一心に。


 そして、彼の目の前にはいつの間にやら壁が突っ立っていた。それは彼にとって、見慣れた冷凍倉庫の壁であった。


「おーい、佐藤さーん」


 突然聞こえた声。彼は一瞬体を跳ねさせたのち振り返った。

 そこにはもう、途方もない通路は見当たらない。いつもと同じ、少し歩けば曲がり角や壁に突き当たる冷凍倉庫の通路であった。


「──ぁ、はい……はーい!います!僕はここにいます!」


 彼は叫ぶ。そして走る。快活かつ、軽やかな足取りで。


「すみません……!お待たせしました」


「あぁ、佐藤さん!良かった、全然戻らないから気になってしまって……さ、もう終業時間ですよ。行きましょう」


 彼は走った。そして呼び声の主の下へと到着した。普段から彼が世話になっている正社員だ。

 彼は帰ろうとする正社員の男に向かって、小さく呼びかけた。


「……あの、すみません…………」


「ん……?どうか、しました?」


「………………この間の」


「はい」


「この間の話──」


「この間……あぁ!」


「正社員雇用の件、是非お願い出来ないでしょうか?」


 そう言って、佐藤祐希は頭を下げた。慣れた筈の動きだったが、懐にしまったメスティンが、いつもと違う重みを感じさせた。


 その重みはスタートラインから踏み出す時のソレに似ていた。

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