スタート

やまのでん ようふひと

第1話 還暦 妻と生きる

頃は晩秋、寒さが相当身に沁みる朝だった。 

「おはよう。トイレに行ってくるね。」

ベッドで横になったままテレビを見ていた私に妻の五月さつきが声をかけた。

五月は厚目の上着をまとってベッドから立ち上がった。妻はとにかく寒がり屋で、ここ最近の寒さで着るものは冬ものになっていた。

「寒いから気を付けてね。」

ベッドの中からテレビを見ながら声をかけた。

「うん。ありがとう。」

そう返事が返ってきた。

トイレに向かう五月の足取りが何となくおぼつかない様子だったが、まだ目が覚め切っていないのだろうと、さほど気に掛けないでいた。

「俺もそろそろ起きるかな。」

そう言ってベッドから出た時だった。トイレの方から ドタン! と大きな物音がした。

「凄い音がしたけど、どうした?」

トイレに駆け寄った。

ドアをノックする。

二度三度とノックしても返事がない。

やむを得ずドアを開けようとしたが、当然鍵がかかっている。

もう一度ノックしながら声をかけた。

「大丈夫か!」

やっぱり返事がない。トイレの中で動く様子も感じ取れない。

「こりゃ大変だ。一大事だ。」


私はたまたま鍵のかかったトイレの鍵の開け方を知っていた。

本当にたまたまなのだが。

何週間か前のこと。ファーストフード店で妻と食事をしていた時、着座した席のすぐ傍にあったトイレから激しくノックする音が聞こえた。耳を傾けると、

「すいません。誰か開けてください。」

と何度も叫んでいる声が聞こえたので、取り急ぎそのことを店員に伝えた。

店員はトイレの所に来ると一枚のコインを取り出した。するとそのコインをドアノブの中心の所にある溝にあてがい、くるっと半回転させた。

何と、ドアが開いた。

「なるほど。外からはああやれば鍵を開けられるんだ。」

その時、この裏技ともいうべき対処法を知ったのだった。

その裏技が今、役に立った。


五月はトイレの床にしゃがみこんでいた。

身動きがない。

言葉も発しない。

「立てるか?」

そう言って抱きかかえ、とりあえずベッドまで連れて行った。

ベッドに横になった五月は白目をむいていた。

「救急車だ!」

携帯を手に取り、「119」のボタンを押した。

「救急ですか? 火事ですか?」

消防隊員の声が聞こえた。

「救急です。妻がトイレで倒れて身動きがありません。返事もできません。白目をむいています。」

矢継ぎ早に状況を伝えた。

「落ち着いてください。」

「はい!」

消防隊員の声掛けに私は深呼吸した。

「まず住所を教えてください。」

消防隊員の落ち着いた話ぶりのお陰で、一連の質問に慌てずに答えることが出来た。

「むやみに動かさないでくださいね。今救急車が向かっています。」

すでに動き出してくれていることに、感謝の思いが募った。


五月は相変わらずの状態である。そんな妻に対して何かしてあげたいとの思いが溢れたが、なす術はなかった。

急いで着替えを済ませて救急車を待った。

ファーホー ファーホー

サイレンが聞こえた。

急いで玄関を出て救急車に手を上げた。救急隊員は直ぐに気が付いてくれた。

「こっちです!!」

救急隊員はハッチバックのドアを開け、ストレッチャーを引き出した。

家の中に入って様子を見た隊員が言った。

「脳卒中の可能性が高いな。」

判断は早かった。救急隊員はその後の手際も良かった。

「いち に さん」

五月をストレッチャーに乗り移させ、速やかに救急車まで移動した。

「ご主人も同乗してください。」

横たわって動かない五月の傍に連れ添った。


隊員の一人が受け入れ先の病院に電話をかける。

もう一人の隊員が状況の詳細や名前、生年月日、血液型、既往症などについて聞いて来た。

「妻は今年の5月に還暦を迎えたばかりなんです。」

肩を落として力なく答えた。


時を置かずして電話を掛けていた隊員が近くの大学病院で受け入れできると返答があったと言った。

救急車はサイレンを鳴らし大学病院へと向う。


大学病院では救急車の到着を待っていた。すぐさま状況の確認を済ますとMRIやCTなどの検査を行った。

「脳内出血で間違いないですね。でも今落ち着いてきているので暫く再出血は起きないと思います。」

対応した医師の一人がそう伝えてきた。暫く集中治療室で様子を見て一週間以内に手術することになるという。

管をあちこちに刺されている五月の姿を見て、私は落胆していた。


暫くすると五月が目を開けこっちを見た。

「気が付いたか!」

一寸嬉しい気持ちになった。

「落ち着いて来たんだね。良かった。」

すると五月が言った。


「サヨナラしてもいいですか?」


何を言い出すやら、何を言っているのか迷った。

一寸返事に困ったが、もしかしてこのまま逝ってしまってもいいかと尋ねているのかと思った時、たまらない気持ちになった。


「駄目だ!絶対だめだ!さよならなんて言っちゃ絶対駄目だ!」


何回も念を押すように言った。

「分かりました。」

五月の返事は素直だった。

「つまらないこと、考えちゃだめだよ。」

自分にとって出来る限りの優しい声で、そう語りかけた。

五月は軽く頷いて目を閉じた。


暫くするとバイタルを測定しているモニターが赤ランプを点滅させ警告音を発した。血圧が上昇し180を超え、表情は気が失せて混沌こんとんとしていく様を呈した。

「先生は暫く大丈夫と言ったが、もしかして再出血だったら大変だ。」

そう思うと矢も楯もたまらず看護師に状況を伝えた。その状況を確認に来た看護師は急ぎ先生に伝えると言って、足早に担当の医師の所に向かった。

「緊急オペをします。」

これが医師の判断だった。

私は医師からカテーテルで処置すると告げられそれを承諾した。

時刻は既に夕方になっていた。


手術の終了を待っている間に、今は離れて暮らしている二人の子供たちに連絡を入れた。二人は直ぐ駆けつけると言った。


手術は時間がかかっているようだ。手術が始まってから既に二時間は経過している。

待機所で待つ時間はゆっくりとしか流れない。

患者搬送用のエレベータのドアが開いた。

「戻って来たか!」

ストレッチャーを覗き込む。

「違った…」

二度三度とそんなことを繰り返しているうちに二人の子供たちがやって来た。

「お父さん、大変だったね。」

こどもたちがいたわってくれた。

二人にはこれまでの流れをかいつまんで話した。

「お母さん、大丈夫なのかな?」

「先生は大丈夫だと言っていたよ。先生を信じるしかないよ。」

精一杯自分に言い聞かせるように答えた。


待機所の時計は10時を少し回っていた。

更にしばらく沈黙が続いた。

エレベータのドアが開いた。

子供たちと3人でストレッチャーに駆け寄った。

「不成功でした。」

医師の沈んだ声が聞こえた。

「嘘だろ!」

思わずそう言葉を発した。

「後で説明します。」

そう言って医師は妻を乗せたストレッチャーに付き添って集中治療室へと消えた。

体の力が抜けていくのが分かった。

二人の子供が支えてくれた。


暫くすると医師から別部屋に呼ばれた。

「病名は硬膜動静脈瘻こうまくどうじょうみゃくろうです。

オペ前に説明したようにこの病の処置は一般的にカテーテルで行います。通常それでうまくいくのですが、今回は病巣が出来てから相当の時間が経っていたようで、血管の中が複雑化していて、カテーテルが中で折れてしまいました。

折れたカテーテルは頭の中の血管内に残っています。

残る手立ては開頭による手術しかありません。

如何しますか?」

如何するかと聞かれてもこのままにしておくわけにはいかない。

この儘にすれば座して死を待つようなものだと思わざるを得ない。

「先生に施術した前例はありますか?」

その質問に

「4例ほどあります。」

正直、少ないと思った。

「成功率は如何ですか?」

「全て成功しています。」

その答えを聞いて即答した。

「もうお願いするしかありません。」

「承知しました。明日の午後一番で手術を行います。」

この会話が終了した時、既に夜の11時を少し過ぎていた。今日はもうこれで帰るしかない。二人の子供たちと家に向かった。

途中、コンビニに寄ってパンと弁当を買って帰った。

家について弁当の蓋を開けた。

食欲が出ない。

「お父さん、食べないとお父さんが参っちゃうよ。」

そう促され一口二口と箸をすすめたが、それ以上口にすることが出来なかった。

ベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。

五月のベッドに目をやった。

「今朝までここで一緒に寝てたのに…」

むなしい思いが込み上げた。


目を閉じると五月との思い出がいろいろ蘇って来た。

これまで仕事ばかりで家庭内のことの殆どは妻任せ。それでも文句も言わずに朝早くから起きて朝飯の用意をし、弁当まで作ってくれていた。

仕事に出かけるときは必ず見送りをしてくれて、その時の笑顔が目に浮かんだ。


「もっと大事にしてやれば良かった。

こんなことにならないとそれに気が付かないなんて、俺はどうしようもないな。」

そういえば昨日も些細ささいなことで言い争ったことを思い出した。

「あんな口喧嘩、しなければよかった。」

考えることはそんな自分を責めて反省することばかりであった。

その挙句、結局朝まで眠れなかった。


「お父さん、目が赤いよ。眠れなかったんだね。」

私を起しに来てそう言った子供の目も赤かった。


昨日コンビニで買ったパンを子供たちに食べさせて病院へ向かった。

手術はきっかり午後1時から始まる。

五月は意識があって、私の顔を見ると笑顔になった。私も心配する気持ちを抑えて笑顔を返した。

「きっと大丈夫だからね。がんばろ!」

管が一杯刺さった儘の妻を励ました。

妻を乗せたストレッチャーに連れ添って手術室の前まで一緒に行った。

「大事な奥様を、お預かりします。」

担当の医師からそう言われストレッチャーは手術室の中に消えた。

これまで30年以上連れ添った妻が大変な手術を受けに目の前からいなくなる。

沢山の五月との楽しい思い出が走馬灯のように頭の中を巡った。

思いだすのは五月の笑顔ばかりだ。

昨日のように失敗したらどうしよう。

「不成功でした。」

昨日医師から伝えられたあの言葉が蘇った。


「畜生!何で五月が!」


思わず子供たちの前で取り乱してしまった。呼吸が荒くなった。

通路の窓枠にもたれかかり、深呼吸をした。気持ちがやや落ち着いて来た。

「取り乱してすまなかったね。」

子供たちに詫びた。


また待機所でしばらく待たなくてはならない。

長い長い時間を。



午後4時を回った頃、エレベータのドアが開いた。

ストレッチャーに駆け寄り様子を窺がう。

五月だ。

「上手くいきましたよ。」

医師の言葉にまた力が抜けた。

「良かった!」

その思いしかなかった。

子供が肩に手を置いてくれた。

「お父さん、良かったね。」

子供たちは笑顔だった。自分も何となく笑顔になっていると思えた。


医師の説明は欠けて残ったカテーテルの一部は回収し、更に出血した血液もほぼ回収できたと言った。

ただ1週間は感染症などの心配もあり、その間は山が続くと言い渡された。

そして後遺症も出るだろうと告げられた。


術後の毎日、いつ呼び出されるかと不安の連続だった。

だから勿論、当たり前のことだが大好きな酒も飲まず待機状態で過ごした。

付き添いのため病院には毎日午前中から出向いた。

病室には夕方まで付き添うことが出来、話しかけることが出来た。

でもやはり後遺症が出ている。


術後3日目だった。

言葉を発することは出来たが手足が動かない。文字が読めない。

取り敢えず車いす生活を覚悟した。

「でも日増しに回復することも多分にありますからね。特に奥さんはまだ若いし。」

その看護師の言葉に少しだが希望を持たなくてはと思った。


翌日のリハビリに立ち会うことが出来た。

運動の療法士の先生が指示を出した。

「右手の指を動かしてみて。」

五月は必死に指を動かそうとしていた。

暫く様子を見ていると親指と人差し指が動いて指先をちょんちょんとくっつけたではないか。


「動いた!」


思わず声が出た。

療法士の先生が妻を褒めた。

「凄いですね。頑張りましたね。他の指も動かしてみましょうか。」

妻の必至が伝わって来る。

他の指も動いた。

「五月、偉いぞ!頑張れ!!」

小さい声だが、思いっきり応援した。

「今度はもう一方の手でやってみましょう。」

療法士の先生の指示に頷いて左手で試みた。

動いた。

その動きを見て涙が出そうになった。

「では次は足ですね。ひざを曲げられますか?」

ゆっくりだが足が動き始めた。

「動きますね。では違う足を動かしてみて。」

こっちも動いた。日々回復するとの看護師の言葉が信じられるものとなった。

「ありがとうございます!」

療法士の先生に感謝した。

「これから少しずつですが、リハビリ、頑張りましょうね。」

立ち去る先生の後ろ姿に深々と頭を下げた。


でもまだ今日は4日目だ。1週間は目が離せないんだと自分に言い聞かせた。

あと3日、何もなく過ぎますようにと、祈る思いで胸が一杯になった。


家に帰った。五月のベッドを見つめた。

「ここに帰ってくる日を待とう。必ず帰って来れるさ。」

五月のベッドをそっと撫でて自分のベッドに入った。


ようやく1週間が過ぎた。

感染症は無く、無事に経過した。医師からはまだ気は抜けないが経過は良好だと伝えられた。

「リハビリに精を出しましょう。」

看護師の言葉に気持ちを新たにした。

「五月、一緒に頑張ろうね。出来る限りサポートをするからね。」

そう言って妻の手をさすった。


翌日、妻は頭が痛いと訴えた。

「先生、相当痛がっているのですが妻は大丈夫なんでしょうか?」

痛み止めが処方された。

医師の説明は一時的なものだから余り心配はいらないとのことだったが、やはり素人としては心配だ。

痛み止めは効いたようだが、薬の効力が切れるとまた痛がった。

この状況はしばらく続いた。


ただリハビリは順調だった。

手足は大分動くようになってきた。しかし文字の認識や物の名前が出てこない。

言語の療法士の先生がいろいろな絵が描かれたカードを見せてそれが何だか聞いても返事は「分からない。」だった。

その在り様を見て、苦しく辛い思いとなった。


「でも、術後直ぐの時と比べれば嘘のように回復しているんだ。」

そう思ったら、気が楽になった。

「贅沢を言っちゃいけないよな。」

そう自分に言い聞かせた。


トイレに行けるようになった。

勿論車いすで看護師に連れられてだが。

お風呂にも入れるようになった。

近々ちかぢか歩行のリハビリも始まるらしい。


リハビリは楽しいと五月は笑顔を見せた。

本当は苦しい筈だろう。

でも毎日少しずつだが回復していく変化が嬉しかった。

「頑張れ!五月!!」

大声で叫びたかった。


昨日まで妻の隣のベッドにいた高齢の方が退院した。

付き添いの方から聞いたことだが、歩くことが出来ずこれからは車いすの生活になるという。言葉もままならないらしい。重度の要介護となるとのことだった。

そんな話を聞くと、自分たちだけ妻の順調な回復を喜ぶのは申し訳ないとの思いになった。


でもそれは、人それぞれなんだからと、割り切ることも必要なんだと思った。

自分たちに与わった結果を自認し、それに対応していくしかない。

五月の回復状況から察するに、退院した後は恐らく家事もままならないだろうことは想像できた。

以前のように早起きして朝飯の支度などできないだろうことは当然と考えられる。

だからそれは、

「自分がやればいいんだ。」

と、心に決めた。

車いすで寝たきりになることを覚悟した時もあったんだ。

ここまで回復してくれれば文句などない筈だ。

五月には元気な笑顔で傍にいてくれればいい。


二人とも還暦を過ぎて時間はたっぷりある。

もう一度心に刻み込む。


「五月に出来ないことは俺がやる。」


これが自分と五月の、

還暦を過ぎた二人の、

リスタートなんだ。


お わ り


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