第33話 長い夜の終わり
気づいたときにはターシュカの城塞、最奥にあるジャズイールの私室に戻っていた。うずくまっているレンを周りにいる三人の男が気遣わしげに覗きこんでいる。
彼女は目を背けることなく、かつての惨劇を見届けてきた。
収蔵庫での夜のように嘔吐することもあってはならない。ジャズイールとテスレウ、それに乳母のエズラを侮辱するのも同然だからだ。
戻ってきたようだな、とジャズイールが真っ先に声をかけてきた。
「エズラには会えたのか」
彼からの下問に、荒い呼吸のままレンは無言で頷く。
しばらく吸って吐いてを繰り返し、息を整えてから改めて口を開いた。
「ほんの一部を切り取っただけの印象ですが、とても素敵な母君でした。だからこそ、彼女の最期が悔やまれてなりません。あんな形で死んでいい人ではない」
言葉を選ぶ余裕もなく、素直に思ったことを述べる。
「ははっ、そこまで見てきたか」
一瞬だけだが寂しげな眼差しを見せるも、すぐにジャズイールは表情を引き締めていつもの調子に戻して言った。
「エズラを刺したあの女はな、私の実母の家系に連なっている者だったのだ。ニルバドの血と混ざり合って生まれた私がよほど憎かったらしい。事件の直前に侍女として宮廷に潜り込み、出来損ないを葬る機会を狙っていたようだ」
レンからすれば到底理解しかねる心情である。
祖国を征服されたことへの復讐心に駆られて、といった理由で皇帝を狙ったのであれば納得もできよう。
しかし実際には親戚筋にあたるはずの幼いジャズイールを、ただ混血児というだけで標的としたのだから。
「おかげで私はそれ以来、笛を吹けなくなってしまった。まあ、お世辞にも上手いとはいえなかったし、楽器など他にもいろいろあるからな。不自由はしない」
冗談めかしてはいるものの、初めての人殺しに道具として使ってしまったのだ。二度と笛に触れられなくなるのはむしろ当然だろう。
乳母のエズラへ駆け寄っていこうとしたあのとき、おそらくジャズイール少年は笛の演奏を彼女に聞かせようとしていたのではなかったか。
テスレウと一緒に練習して、少し上達して。先ほどの〈鑑定〉でも目撃していないそんな光景が、レンの脳裏にありありと浮かんでくる。
以前にサラが〈遠見〉によって彼を目撃した際には、ヴァレリアでは見慣れぬ弦楽器を弾いていたはずだ。
もしもジャズイールに悲劇が訪れず、そのまま音楽を愛して成長したならば、とつい想像もしてしまう。
そうはならなかった幻の歴史だ。
ただ、この場に一人だけジャズイールとレンが交わしている会話の背景をわかっていない人物がいた。
「先ほどからお二人は、いったい何のお話をされているのですか……? エズラっておっしゃっていましたよね……。母、でしょうか」
いつもは冷静なテスレウが、困惑をまるで取り繕えていなかった。
既に〈鑑定〉の場に同席した経験のあるマルコとは異なり、彼にはまったく情報がない。
これにはジャズイールも「そうだったな」と苦笑する。
「テスレウにはまだ伝えていなかったか。レンにはな、物に宿った過去の記憶を覗き見る不可思議な力があるのだそうだ。ええと、何と名付けていたのだったか」
「〈鑑定〉です、殿下」
あらためて名を問われると、少しばかり気恥ずかしさを覚えてしまう。
けれどもジャズイールからの反応は柔らかかった。
「名は体を表すという。いい名だ」
戦神として鳴らす彼らしくもない態度なのは、きっと実母よりも母そのものであったエズラの話をしているからなのだろう。
テスレウが「〈鑑定〉、いわば記憶の品定めですか」と眉をひそめた。
「では、殿下は母との思い出であっても隠すことなくレン殿に……」
「どのみち、このような異能の前では隠し立ても難しかろう。勝手に過去の記憶を覗かれるよりはいくらかマシかと思ってな」
それは確かに、とようやくテスレウも納得する。
「レン。おまえのその力、心底羨ましく思う」
ジャズイールの視線が真っ直ぐレンへと向けられた。
「弱さは罪。あのとき呆然と見つめていただけで動くこともできず、エズラを助けられなかった自分をそう恥じて生きてきたのだ」
レンとテスレウは同時に何かを言おうとして口を開きかけたが、すぐに手の平を広げたジャズイールによって制止されてしまう。
彼は静かな口調でそのまま続ける。
「私たちの母を、むざむざと死なせてしまった負い目は生涯消えることなど無い。私に強さと決断力さえあったなら、今頃はエズラものんびりと余生を過ごせていたであろうな。あの人に、私は何も返すことができなかった」
誰もジャズイールの悔恨について口を挟めずにいた。
そんな沈鬱な空気を変えたのは、結局ジャズイール本人である。
「それにしてもレンよ。おまえは余計なことをしでかしたのではないか?」
「と、おっしゃいますと」
「今夜、おまえたちがこの場に来なければ、テスレウは命を落としていたことだろう。よりにもよって、最も信頼できる腹心であり幼き頃からの兄弟分を私自身が手にかけてな。後日、己のしでかしたことを理解した私はどれほど打ちひしがれるだろうか。とてもじゃないがヴァレリア侵攻どころではあるまいよ」
レンもそのことを考えないではなかった。だが彼女にとってもっと優先すべき事柄があった、ただそれだけのことだ。
彼女は自身の信じる道を往く。
「今しがた、殿下はご自分の弱さをもさらけだして率直な気持ちを伝えてくださいました。ここでわたしが『ニルバドへの忠義のため』などと口にしたならば、それは殿下の誠意を無にする行為と同義です」
「ならば、何だ」
詰め寄ってきたジャズイールを相手に、レンはもう怯むこともない。
「簡単な答えですよ、殿下。わたしはただ、深く繋がっていたはずの人たちが感情をぶつけて傷つけ合い、望んでなどいないのに離れていく姿を見たくないだけなのです。ニルバドであろうと、ヴァレリアであろうと」
「つまりだ、要はおまえの我が儘ではないか」
「ええ、そうですとも」
悪びれずもせず済まして答えたレンを見て、突然ジャズイールは腹を抱えて盛大に笑いだした。
とてもではないが大国ニルバドの皇子が他人の目に晒していい姿ではない。
ようやく笑いが収まった後も、らしくもなくくだけた表情を浮かべている。
「やはり
いきなり話を振られた格好となったマルコだが、すぐさま片膝をついた姿勢となってよく通る声で答えだす。
「レン様の行くところ、たとえ地の果てまでもお供させていただく所存。おれ……いえ、わたしはレン様が歩いていかれる道を、残った左目で終着まで見届けたいと願うのみであります」
彼の態度もまたレンにならって堂々としていた。
これを聞いたジャズイールとテスレウが顔を見合わせる。
「ほらな、
「まったく殿下と同感ですね」
二人は随分と楽しそうに互いの腕を叩いていた。
レンの目にはその光景が、幼かった頃の彼らの姿と被って映った。
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