第32話 ジャズイールの誕生

 いくつもの光景がレンの眼前で同時に進行しだした。

 這いだしたばかりの赤子がいるかと思えば、利かん気の強そうな幼児もいるし、まだ幼さを残しているが少年と呼べる頃合いになってもいる。

 どの光景にも出てくる子供が二人、おそらくはジャズイールとテスレウだろう。


 こんな経験は今までの〈鑑定〉ではなかったことだ。

 先ほどジャズイールから渡された櫛によほど強い記憶が刻まれていたのかもしれないし、レンの〈鑑定〉の力が成長しているのかもしれない。


 別にどちらだって構わないか、とレンはまず赤子のいる場面から目を向けた。

 ジャズイールの実の母は産後の肥立ちが悪く、息子をその手で抱くことさえ叶わず亡くなったのはレンも知っている。

 わざわざ調べるまでもないほどに広く知られた情報だ。


 その実母も、かつてはとある小国の王女だった。

 だがニルバド皇国の大軍によって祖国が征服され、美しかった彼女は半ば強制的にニルバド皇帝の何番目かも定かではない妻とされてしまう。

 望まれて生まれてきたわけではない子供、それがジャズイールであった。


 生後間もなく母を亡くしてしまった彼にとって、幼年期を通して親と呼べる存在だったのは乳母のエズラだけだ。

 灰色の髪の赤子と、黒髪の赤子。二人の赤子を等しく慈愛に満ちた表情で見守りながら櫛を手にし、そっと髪をとかしてあげている女性。

 間違いなく彼女こそ、テスレウの母であるエズラであろう。


 レンは別の場面へと視線を移す。


 少し成長した二人の幼児には、大人になったジャズイールとテスレウの面影がほんのわずかにある。ただし今よりも圧倒的に可愛らしさが勝っているが。

 何があったのか、この頃の二人はぽかすかと殴り合いをしていた。


「まあ、また喧嘩をしているのね」


 困った坊やたち、と乳母のエズラが止めに入っている。

 どうやら幼いジャズイールとテスレウは日常的に喧嘩をしていたらしい。なかなか想像しづらい二人の幼年時代だ。


「殿下にテスレウ、仲直りするならこっちにおいでなさい」


 そう言って彼女は両手を大きく広げた。

 途端に二人は喧嘩をやめ、素直にエズラの腕へと飛びこんでいく。その光景がレンにはおかしくて仕方なかった。

「彼らもちゃんと子供だったんだ」と当たり前のことに感心してしまう。

 おとなしく乳母のいうことを聞いている幼気なジャズイールの姿を見ていると、さながら別世界へ迷い込んでしまったほどに衝撃的である。


 またしてもエズラは櫛を持っていた。そして交互に二人の綺麗な髪をとかしていくのだが、その際に歌を口ずさんでいた。

 二人の幼児も歌に合わせてにこにこしながら体を揺らす。

 先ほどまで喧嘩をしていたことなど、もうすっかり忘れてしまっているようだ。


 仲睦まじい三人の親子をずっと眺めていたかったレンだが、残念ながらそういうわけにもいかない。

 最後の場面では、すでに少年と呼べるまでに成長したジャズイールとテスレウがいた。二人は肩を並べて長い廊下を歩いている。


 時折はっとするほどに怜悧な表情を見せる彼らだが、遠くに誰かを見つけたかと思えばあっという間に相好を崩し揃って手を振りだす。

 もちろん相手は乳母のエズラだった。


「ねえエズラ、見てほしいものがあるんだ!」


 先に駆けだしたのは灰色の髪の少年、ジャズイールだ。腰にぶら下げられた長細い袋が揺れている。

 彼の視線の先にはエズラしかいないのであろう。

 けれどもレンの視界には別の人影が映っていた。侍女のような格好こそしているものの、柱と柱の間に身を潜めてナイフを握り締めている女が。


 遅れてエズラも不審な女に気づいたらしく、慌てて走りだしながら精いっぱいの大声でジャズイールを制止する。


「来てはなりません殿下! 来ちゃだめ!」


 あまりに必死な彼女の叫びに、ジャズイールも何事か理解していないままゆっくりと足を止めた。

 このままでは失敗すると悟ったか、侍女らしき女も飛び出していく。

 刃の切っ先はもちろんジャズイールへと向けられていた。


「おまえのような穢れた存在は許されてはならない!」


 人であることを捨てたような、目を血走らせた恐ろしいほどの形相で標的目掛けて突き進んでいく。

 しかしエズラの方が一瞬早く、ジャズイールの元へと到達した。

 懸命に伸ばした手で彼を突き飛ばし、代わって自らがナイフの刃をその身に受けてしまう。彼女の左の脇腹から心臓へ、ナイフは深々と突き刺さった。

 もう助からない、とレンにも一目でわかった。それほどに深い傷だ。


「邪魔をするなァ!」


 刺した女は甲高い声で絶叫し、エズラの体から刃を抜こうとしている。

 ここまでの間、尻餅をついた体勢のままジャズイールはまったく動けていなかった。無理もない。のちの暴君とはいえ、このときの彼はまだ幼い子供なのだ。


 とうとうナイフを抜かれてしまったエズラの出血の勢いは凄まじく、もう目も虚ろになっている。

 それでも手は女の腕をつかもうとしており、死の間際にあってもなおジャズイールの身を案じているのがレンにも痛いほど伝わってきた。


 逃げることもできずに固まったままでいるジャズイールの脇を、今度はテスレウが走り抜ける。


「母上、母上!」


 胸が張り裂けるような彼の呼びかけにエズラも微かな反応を見せるが、もはやそこまでだった。

 うなだれたエズラの手を振り払ってようやくナイフを握り直した女が、力任せにテスレウの顔を柄の部分で殴りつけた。


「どいてろガキがッ!」


 宙に血が飛び散り、テスレウの左目のすぐ下が大きく抉れてしまう。

 このときの傷だったのか、とレンは唇を強く噛んだ。

 吹っ飛ばされて血だまりに横たわったテスレウも、意識が朦朧としているようでしばらく起き上がれそうにない。


 このままでは騒ぎを聞きつけて衛兵たちがやってくるより早く、ジャズイールが凶刃に倒れてしまう。


「よおし、そのままでいるんだよ」


 とってつけたような女の猫撫で声に反応したか、ジャズイールはようやく立ち上がった。

 そして腰に下げた長細い袋から何かを取りだす。笛だ。


「ぼくの弱さは罪なんだね、エズラ」


 そう呟くなり、彼はいきなり飛びかかって女の目を的確に笛で突いた。

 不意の攻撃を受け、声にならない叫びを上げた女が顔を覆う。

 ジャズイールはさらに女の足を払い、転倒させることに成功した。

 その拍子に唯一の武器であるナイフを手放してしまった女に、もう勝ち目は残っていなかったのだろう。


 だがジャズイールに一切の容赦はなかった。女の顔面へとひたすら力任せに笛を突き立て続け、何の反応もなくなってからもまだ止めようとしない。


「殿下ぁ! 何事ですか!」


 遅まきながら衛兵たちが来た頃には、原形を留めないほどに顔を潰された女がその場に横たわっているだけだった。

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