第22話 交錯する希望と不安
港に着き、船から下りて八日ぶりに土を踏んだレンは密かに感動していた。
繰り返し足踏みをしては頷き、実感する。船上で浴びる風もいいが、やはり大地の確かさは何物にも代えがたい。
子供のようにしばらく夢中になっていた彼女だったが、よく通る低い声で話し掛けられたことでようやく我に返った。
「〈遠見〉のレン殿、ようこそニルバド皇国へ。歓迎いたします」
前方では笑みを浮かべたテスレウが両手を広げている。
「実のところ、私は安堵しているんですよ。あなた方ヴァレリア共和国と戦争にならず、こうして平和裏にお迎えすることができて」
「テスレウ殿のご尽力があればこそですよ」
即座に態度を切り替え、ニルバドの言語を操りレンもそつなく応じた。
内心ではテスレウが口にした言葉を意外に感じたが、彼個人の考えとジャズイール皇子の方針とに幾分ずれが生じていても不思議ではない。
レンからしても、ジャズイール皇子による版図拡大は早すぎる。
領土はただ広げていけばいいというものではなく、支配下とした後は治めていかねばならない。むしろそちらの方が難しいはずだ。
もしかしたらテスレウもそのあたりを危惧しているのかもしれない。ジャズイール皇子の前のめりな動きが、いずれよくない結果を招くのではないか、と。
「ニルバド皇国には頼るべき知己も持たぬわたしたち二人、今後ともテスレウ殿のお力添えをいただければ幸いです」
レンの読みが正しければ、テスレウとの連携も大いに可能なはずだ。
たとえ根本的な意図が異なろうとも、海を渡ってヴァレリア共和国へ拙速に攻撃を仕掛けることに対して彼が消極的ならば、その点で互いの利益は一致する。
とにかくヴァレリアへの侵攻を少しでも遅らせなければ。
今、レンにできるフランチェスコへの恩返しなどそれくらいのものだ。
◇
街道を往き、山を一つ越えればもうそこが要塞ターシュカだという。
「都としての機能も備えてはいますが、さすがにヴァレリアのような大都市を想像されては困りますよ。あくまで要塞、いわば軍事都市ですのでね」
箱馬車に揺られながらの道中、テスレウがそのように語った。
車内にはテスレウとレン、加えて双方一人ずつの護衛。合わせて四名が乗車しており、馬車の周りは複数の騎兵が警護を務めている。
本来ならばマルコもそちら側なのだろうが、負傷の重さを考慮したテスレウによりレンとともに乗車を許されていた。
やはり何かと気配りのできる男だ、と感じ入る一方で、彼をもってしても制御の難しいジャズイール第六皇子とはいかなる男なのかとレンは心配になってくる。
要塞ターシュカに到着したらいよいよ、渦中の人物との謁見となるのだ。
そんな緊張が表情にも出ていたのだろう。
ご心配なさらず、とテスレウが柔らかく笑いかけてきた。
「確かに殿下は気難しいところのある方ですが、音に聞こえたヴァレリア共和国の〈遠見〉の来訪をいたく楽しみにしておられましたから。いろいろと質問攻めにされるかもしれませんので、そこは覚悟していただきたい」
「まあ、それは怖いですね。喜んでいただけるよう、面白おかしく話せる特訓を船の中でしておくべきでしたか」
「いえ、普段通りでお願いします。幼い頃より殿下は非常に嘘をお嫌いになる方ですので、ご注意を」
何の気なしにテスレウは言ったのだろうが、レンの緊張の度合いはさらに増してしまった。
〈遠見〉としての彼女の発言など、そもそも嘘だけで構成されているようなものだ。
「承知いたしました。ではそのように」
精いっぱいの返答をしたレンの傍らで、突然マルコが窓に顔の左半分を寄せて外の様子を気にし始めた。
すぐに彼が呼びかけてくる。
「レン様、テスレウ様。不穏な気配がします」
異変を察知したらしいマルコもレン同様、ヴァレリアを離れてからはニルバドの言葉で通していた。
いったい何が、とレンが考えをまとめる間もなく、馬車が急停止してしまう。
外からは騎兵や御者の叫ぶ声が聞こえてきており、明らかに状況はおかしい。
「おそらくは何者かの襲撃でしょう」とマルコは予測し、さらに続けた。
「テスレウ様、迎撃のお許しをいただきたい」
彼は抜剣の許可をテスレウに求めている。
「外の方々に助勢をして──」
「片手に加えて片眼まで失った貴公がか? 何ができるというのかね?」
マルコに最後まで話をさせず、テスレウは辛辣に言い放つ。
確かに通常の兵士であれば彼の言う通りだろう。正論だ。
けれどもレンは、マルコとドナートの死闘をその目で見た。圧倒的な不利を執念で覆したマルコを常人として捉えるのは早計に過ぎる。
あの戦いだけに限らない。マルコ・カンナヴァーロという青年はこれまでにも、数え切れないほどの死線を超えてきているのだから。
どれほど困難な局面にあっても、彼の目には生き抜くための細い細い道筋が見えているのではないか。そう思わされるのだ。
レンはすぐにその場をとりなした。
「よい機会だと思うのですが、テスレウ殿」
「と、おっしゃいますと」
訝しむテスレウへ、レンは自信満々な態度で告げた。
「マルコがわたしの護衛として、いかに有用であるかを証明できるはずです」
◇
馬車は再び快調に要塞ターシュカへと向かいだしていた。まるで何事もなかったかのように。
先ほどはマルコの睨んだ通り、七人の武装集団が一行を囲んで襲撃を仕掛けてきていた。
ジャズイール第六皇子の側近であるテスレウを狙ったのか、それともヴァレリア共和国からやってきた〈遠見〉を狙ったのか。そこは生き残りに口を割らせてみないとわからない。
車内でレンがその話題をテスレウへと振ってみる。
「さて、どうかな……所詮は野盗の類じゃないでしょうか。この辺りの治安強化にも、早急に本腰を入れなくてはなりませんね」
テスレウの見解は、レンからするとやや歯切れが悪いようにも感じられたが、口出しすることは控えておいた。
何かを隠しているのだとしても、この場で突いたところで出てくるはずもない。
機を待つのが得策だ。
いずれにせよ、護衛役としてのマルコはテスレウの信認を得た。
両手のときと変わらず、片手でありながら剣を自在に操る彼の強さは群を抜いていたらしい。瞬く間に襲撃者たちを斬り伏せ、場を収めたのだ。周囲にいた警護の騎兵たちからも拍手喝采であった。
「それよりも、先ほどは失礼な発言をした。どうか許してほしい」
一介の護衛兵へ、ヴァレリア共和国への正使まで務めた男が頭を下げる。
「恐れいったよ。〈遠見〉のレン殿にこれほど腕の立つ護衛がいたとなれば、殿下も大いに興味を示されよう」
晩餐会にも貴公の席を設けねばな、とテスレウが上機嫌で語る。
「光栄です」
マルコは残っている左目を伏せ、短く応じた。
かつてニルバドで奴隷部隊に所属していた彼の過去について、テスレウが気づいているような素振りはここまでない。どうやら大丈夫そうだ。
刻一刻とジャズイール第六皇子の待ち受ける要塞ターシュカが近づいているが、ニルバド皇国での初日としては上々の滑り出しといえた。
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