第20話 運命が変わる

 マルコの応急処置だけはどうにか済ませた。

 失った右目と左手は返ってこないが、とにかく止血をしておかなければ二人で共に〈鳥籠〉から逃げだすのもおぼつかない。


 普段はマルコだけが使うことを許されている護衛兵の控えの間に行き、備えつけられていた薬を塗布してから包帯を巻いてひとまず最悪の状態からは脱する。

 レンにだって医療の心得くらいはあった。もっとも正式に医術を教えてもらったわけではなく、〈鑑定〉によって過去に医師の真似事をしていた〈遠見〉からこっそり学んだものだ。


 生きているのが不思議なくらいの重傷だが、彼に言わせれば「ニルバドで戦っていたときの方がよほど死を間近に感じましたね」とのことだ。

 階段を下りていく際にも「肩を貸すよ」というレンの提案を却下した。

「無用な心配です」と。


 実際、マルコの足取りは確かであった。

 早足で軽やかに下りていく彼に、元気なはずのレンの方がついていくだけで精いっぱいになっていた。

 いったいどういう体の構造をしているのだろう、とさすがに彼女も訝しむ。


「あまり無理はしないでほしいんだけどな……」


 小さなレンの呟きはちゃんとマルコの耳に届いていた。


「ニルバド行きの船の中で、たっぷり寝させてもらうつもりですから」


 冗談とともにぎこちなく振り返ろうとしたマルコの首はすぐに止まってしまう。固く巻かれた包帯がしっかりと役割を果たしていた。


 ここまでの会話で襲撃者については一切触れられていない。レンとマルコ、お互いがその話題にはまだ踏み込めずにいたのだ。

 先の死闘の後、事切れた襲撃者の仮面を外して素顔を確かめることもできたが、レンにはどうしても抵抗があった。

 マルコもそうしなかったところから察するに、襲撃者の正体には薄々気づいていたように思える。


 二人はさらに下へ、下へと地上を目指す。

 その道のりの途中にマルコ専用の控えの間とはまた別の、中級護衛兵たちが詰めている部屋がある。

 様子が気になったため、レンはそっと中を覗いてみた。


 室内では二人の兵士が机に突っ伏して眠っていた。傍には葡萄酒の倒れており、中身はすっかりこぼれ出てしまっている。

 ただ寝ているわけではなそうだが、ちゃんと呼吸はしている。

 どうやら彼らは一服盛られたらしい。おそらくはドナートに。


 マルコのときといい、ここの二人の護衛兵といい、ドナートは極力誰も手にかけたくなかったのではないだろうか。

 そんな推測を思い浮かべていると、マルコから声をかけられた。


「レン様は気づいていたのですか」


 彼が仮面の襲撃者について訊ねてきているのはすぐに理解できた。


「ん? 何の話?」


 それでもあえてレンはとぼける。

 自分たちのとった行動が正しかったとも、間違っていたとも思わない。それでもあのときはああするより他になかった。


 推測でしかないが、政庁直属となったドナートは偽物の〈遠見〉であるレン殺害の密命を単身で受けたのだろう。

〈鳥籠〉のような狭い場所へ、刺客として大勢の人間を送り込むのは賢いやり方とは言えない。

 だからこそドナートは選ばれたに違いなかった。〈鳥籠〉を熟知し、腕も立ち、出世を望んでいる者。

 政庁にしてみれば願ってもいない人材だ。


 マルコにとどめを刺さなかったのは、致命的な彼の失策だ。けれどもレンはドナートのその選択を失策とは呼びたくなかった。

 残っている左目を伏せてレンには向けず、マルコは言った。


「いえ、それならそれで構いません。もう終わったことです」


「そうだね。終わったことだよ」


 ずるいやり方だ、とレンも自覚している。

 護衛として務めてくれていた男を死に至らしめて、何もなかったかのように振る舞うのはずるいと形容するしかない。

 いずれ彼の死にきちんと向き合おう。でも今ではないのだ。

 そう自分に言い聞かせてレンは再び地上へと急ぐ。


     ◇


 結局、尖塔の長い長い階段を下り切るまで別の刺客には遭遇しなかった。政庁の命を受けていたのは本当にドナートだけだったらしい。

 代わりに入口付近で身を隠して待っていたのは、フランチェスコからの使いと名乗る者だった。


「レン様、マルコ殿、お急ぎを。既にテスレウ様は出立の準備を終えております」


「はあ。わたしたちの選択なんてあの人にはお見通しってことね」


 レンは半ば呆れながらも、フランチェスコの読みが相変わらずの鋭さであったことに感心する。

 使いの者の手引きにより、夜の闇に紛れて二人は塔を離れていく。


 がんじがらめに〈鳥籠〉へ縛りつけられ、死ぬまで離れられないのだと諦めていたはずの運命なのに、こうもあっさり断ち切られてしまうとは。

 昨日のレンには想像もつかないほどの事態の急転だ。

 一欠片ほどの寂しさもないわけではなかったが、どちらかといえばあっけなく移ろっていくことへの儚さが勝る。


 そんなことをぼんやりと考えていた彼女の前で、使いの者が足を止めた。


「あちらに」


 短く告げ、前方を指差す。

 レンが目を凝らすと、その先には五頭の馬がいるのが見えた。うち四頭にはすでに人が騎乗している。


 向こうもレンたちの姿を認めたらしく、馬を操り常歩なみあしで近づいてくる。

 そして先頭の男が馬上から述べた。


『ごきげんよう、レン殿。高いところから失礼しますが、あなたをニルバドへ迎え入れられることをこの上なくうれしく思っております。ジャズイール殿下もさぞお喜びになるでしょう』


 肩まで伸びた黒髪が月明かりに照らされたことで、男がニルバド皇国からの正使テスレウだとわかる。

 さらに彼はレンの返答を待たず、マルコを一瞥して冷たく言い放つ。


『見たところ、お付きの者は随分と深手を負っているようだ。その痛々しい様子では今後役には立ちますまい。このまま置いていかれるがよろしい』


 まったく予想していない通告だった。

 だがこの程度の論難に怯んでいるわけにはいかない。


『お言葉ですが、テスレウ殿』


 すぐさまレンも反駁した。


『このマルコと申す者は忠義に篤い護衛です。彼の存在なくして、〈遠見〉としてのわたしもまたあり得ません。貴国においても相応の待遇を求めます』


 あくまで強気を装ってはいるものの、心臓の鼓動は早鐘を打っているようだ。

 対して口元に手をやったテスレウの反応はいまいち読み辛い。

 気分を害している様子ではなく、むしろ意外そうに見える。


『これは……本当に殿下好みかもしれぬな』


 そんな独り言をこぼし、テスレウは咳払いをした。


『んん、いや失礼。レン殿がそう希望されるのであれば異存ありません。マルコといったか、貴公にとってはその方がいいかと気を回したつもりだったがな。要らぬ世話だったようだ。怪我を治して我がニルバドで存分に腕を振るわれよ』


 どちらともとれる言い回しであった。

 単にマルコの怪我を気遣っていただけなのか、それとも彼がかつてニルバドで奴隷部隊にいたことを既に把握しているのか。


 判断がつかず疑念は燻るが、一刻も早くより高度な治療をマルコに受けさせるためにもここは応じるしかない。

 レンにとってありがたい申し出であるのに変わりはないのだ。


『感謝いたします、テスレウ殿』


『さあ、まずは馬で船へと向かいましょう。追っ手のかからぬうちに』


 将軍フランチェスコと話をつけているせいか、テスレウはこちらの事情もある程度把握しているらしい。


 鞍上に人のいない一頭へ、左手の先を失ったマルコが颯爽とまたがる。

 テスレウの伴の一人がひゅうと愉快そうに口笛を吹いたが、別の一人から即座にたしなめられていた。

 後はレンだけだ。


『レン殿はどちらの馬に? 私の馬でよければどうぞご遠慮なく』


 テスレウからそう誘われたが、レンの居場所はもう決まっている。

 丁重に断りを入れた彼女は、マルコへと手を差しだした。

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