第20話 湖上の花園


 時を同じくして、サルカラは馬を走らせていた。


 フェザーが甲高い音を後に引いて突然現れたかと思うと、目を白黒させる彼にロベリアを預け、彼女は直ぐさま丘に向けて飛び去った。


 その後、あの紅い光が奔り、丘を覆っていた馬鹿デカい山椒魚のような化け物が消失したのだった。彼は終わったのだと確信し、プリムラとロベリアを乗せ、丘に向かって馬を走らせていた。


「終わったのね……」


 項で切り揃えられた黒髪を風に靡かせながら、ロベリアは瞼を閉じて呟いた。


 切られた後れ髪、反面、前髪は胸に垂れる程に長い。その不揃いな髪は彼女の妖しい魅力と相俟って異様な艶美さを際立たせている。


 一方、彼女を背後に乗せているサルカラはその美貌と生来の冷たい声色にあまり生きた心地はしなかった。


 先の戦いを見ていた事もあり、今は落ち着いているとは言え、彼女の黒髪が巻き付いて来ないか少し不安だった。


「プリムラはまだ起きないの?」


「あ、ああ、どうも続けて無理をしたらしい。この通り、まだ小さい子だ。泣いてたと思ったら急に眠っちまったよ。あんたを助けるって聞かなかったんだ」


「……そう」


 ロベリアは悲しげに笑って眼を細めるが、その顔はサルカラからは見えなかった。


「丘に着いてもう一度フェザーとやり合うなんて事は止してくれよ?」


「しないわよ。戦う力……私の全てはもう何処にもない。何もかも……」


 疲れ果てた声には確かな安堵が滲んでいた。


 空を見上げると未だ夜が支配している。随分と長い夜だと、ロベリアは薄く笑った。すると、


「……ロベリア?」


「おい、危ないぞ」


「ロベリア!」


 話し声に目覚めたのか、プリムラは身を捩るとサルカラの肩口から背後にいるロベリアを見た。


「そのまま寝ていれば良かったのに、全く、涎垂らして汚いわね」


 ロベリアは着物の袖でプリムラの口元を拭うと、その菫色の髪に触れてそっと撫でる。


 プリムラは驚いて彼女の顔を今一度見た。


 穏やかに優しい笑みを浮かべる彼女の顔にはこれまで彼女を突き動かしていた〈何か〉の影はない。顔に張り付いていた嘲笑も憎しみを放つ暗い眼光もすっかり消え去っていた。


 プリムラは手を伸ばし、彼女の頬に触れた。


 その青白く現実を離れた白い肌に、プリムラは確かな温もりを感じて、涙を浮かべて笑った。


「ロベリア?」


「何かしら」


「生きてる?」


「……ええ、生きているわ」


 ロベリアもまた、同じように笑った。


 何が何だか分からないが、二人の声を聞いていたサルカラもまた涙ぐんでいた。


「あぁっ!」


 釣られて涙ぐむサルカラだったが、喋る木菟ケフェウスが重さに耐えきれず二人を落としたのを見て、素っ頓狂な声を上げる。


 ロベリアは訝しんで彼の肩越しに視線を追う。すると、フェザーを抱き抱えたリトラが墜落しているところだった。


「重そうね。食べ過ぎるからよ」


「どうしたの?」


 ロベリアと向かい合うプリムラには見えていない。あれは見せない方が良いと、サルカラは左腕で強く抱いた。


「く、くるしい」


「へえ、意識が無くても残るのね、あの翼」


「な、何を悠長なことを!」


「顔が近い、五月蝿い、黙りなさい」


「ス、スマン、いやっ、しかし!!」


「どうせ死なないわよ、ほら」


 ロベリアが指を差すと、今に鈍く嫌な衝突音を響かせるはずの場所から高い水しぶきが上がった。


 打ち上がった水玉に月明かりが反射して、水面に小さな星々を散らしている。


「綺麗ね、もっと近くで見たかったわ」


「そ、そうだった、あそこには湖があった。いや、本来はなかったんだが……」


「安心しているようだけど、早く行かないと二人とも溺れ死ぬわよ?」


「嫌味なほど冷静だな!!」


 彼は脚で合図を送ると馬は速度を上げて走り出した。既に丘の半ばを過ぎており頂上は近い。


 サルカラの馬は重量を感じさせない速さで駆け、丘の上に到着した。サルカラとプリムラは即座に馬を飛び降りて湖の際に駆け寄る。


 湖には未だ大きく波立ち、気泡が湧いている。すると、プリムラを見つけたケフェウスが降りてくる。


「プリムラ、大丈夫かい!?」


「私は平気! それより二人は?」


「ぐるっと回ったけど上からだとよく見えないんだ。波も凄いし……」


 プリムラとケフェウスは、二人が崩壊した神殿に落下していたらと想像して顔を蒼くしたが、水底を覗き込むとどうやら神殿はないようだった。


 ほっと息を吐くが二人の姿はない。こんな時にも波立つ水面は月明かりをきらきらと返す。視界に輝く美しさが今は目障りだった。


 その時、今頃になって馬を降りたロベリアが水際に膝を突いて袖を持ち上げると、水面に手を触れた。


「やっぱり、そういうことなのね……」


 その呟きと共に湖の底で水が逆巻き、水底に溜まる石や土、草と共に、白金の翼を持つ美女と彼女を抱き締める青年を岸に打ち上げた。


 二人は酷く咳き込み、土の上に這い出した。


「月夜に入水なんて、貴方って夢想家なのね」


「げほっ、悪いけど、もう少しだけ現実に浸らせてくれ」


 仰向けになったまま夢中で呼吸をするリトラを見下ろして、彼女は笑った。


「フェザー!」


「プリムラっ!」


 プリムラは首に手を回してフェザーに抱き着き、涙に肩を震わせている。フェザーもまた、翠の瞳から涙を零した。その傍にはケフェウスも付き添っている。


 サルカラも二人の様子にほっと安堵の表情を浮かべて穏やかに微笑んでいた。


 そんな中、ケフェウスを見て薄情者めと呟くリトラをロベリアがそっと抱き起こす。


「ねえ、貴方は誰なの? 何処から来たの?」


「えっ? そんな一度に聞かれてもなあ。それに、何て説明したら良いのか……」


 リトラは彼女とその背後で抱き合う二人を見て視線を戻すと、今一度彼女の瞳を見つめた。


 それは澄んだ蒼玉サファイアの瞳、慈愛の情を持った、生命を愛する者の放つ輝き。彼女を見つめて、彼もまた瞳を輝かせた。


「……うん、綺麗だ。君によく似合ってる。あっ、そうだ、欲しかった物は手に入ったかい?」


「質問を質問で返さないで頂戴……でも、そうね、〈それ〉とは別に新しい名前が欲しいわ。悪意ロベリアは、私にはもう必要ないもの」


 そう言って、彼女は名付け親になる男の言葉を待った。


 リトラは彼女の腕の中で身を起こすと、迷うことなく名を告げる。


「フリージア」


 まるで最初から用意していたかのように、彼はその花の名を呼んだ。


 親愛の情、友情。それは全ての彼女が羨望し、焦がれたものを冠する花。蒼玉サファイアの瞳を持つ香雪蘭フリージア


「……フリージア、いい響きね。大事にするわ、いつまでも」


 彼女は胸に手を当て、顔を綻ばせた。


 すると、背後からやって来た二人が彼女を挟んで、一人は抱き着き、一人はぎこちなく笑って、その肩にぽんと手を置いた。


「フリージア、良い名前じゃないか。それに、三人とも〈フ〉だ」


「でも、私だけ〈プ〉だよ? フリムラにしようかな……」


「いいじゃないの別に……貴方、変なところに拘るのね」


 彼女たちは三人で一つ。


 誰か一人でも欠ければ、彼女たち伝説はなり立たない。フリージアは肩に置かれた手にその手を重ね、フェザーに微笑みを返す。


 その様子にプリムラは顔をぱっと輝かせると、疲れなど無かったかのように飛び跳ねて喜んだ。


 ケフェウスは頬に翼を当てて涙を拭い、事情を知らないサルカラもその光景に過去を見たのか、気付かれぬように親指で目尻を擦った。


 だが、彼は何か重大な事を思い出したのか、はっと顔を上げると竜頭が崩れ去った場所に向かって全力で走り出した。


 その様子にケフェウスとプリムラは首を傾げたが、フェザーは苦笑いしていた。その時、


「待ちなさい」


「えっ?」


「貴方は誰なのか、まだ答えを聞いていないわ」


 三人の邪魔をしてはいけないとその場を離れようとするリトラだったが、彼女はその手を握って離さない。


 名前以外には何も知らない、まだ少年のような彼を、彼女は少しでも多く知りたかった。


 自分たちだけが何もかもをさらけ出して彼は何も話さない。彼だけが秘密を守ったままというのが彼女には非常に不満だった。


 恥ずかしい過去の五つや六つ知っておかなければ釣り合いが取れない。いや、自分たちは全てを知られているのだから彼もそうするべきだ。


 何より名付け親となった者の事を何一つ知らないのが我慢ならなかった。


 彼が今まで何をしていて、これから何処へ行くのか。好きな物、嫌いな物。何もかもを知りたかった。


 リトラはいつでも解けるはずの手を解かず、どう答えるべきかと瞼を閉じて唸った。


「そうだな、俺は、ええっと……」


 何かを閃いたのか、リトラが瞼を開く。


 そして手を握る彼女の前に跪き、その蒼玉の瞳を見つめると、彼女の傍にいる二人の友達もまた彼の答えを待っていた。


 彼は三人に悪戯っぽく笑って答えた。



「今夜、伝説を盗んだ男さ」



 彼女を彼女たらしめていたもの伝説


 それら全ては彼等が奪い取った。


 彼女、いや、彼女たちは伝説ではない場所に存在している。この現実に、確かに生きている。








 湖上の花園 完




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