第15話 羽化

「これで良い……」


 地面に激突する間際、彼女は満足していた。


 自分の役目は龍の眼を欺くこと、ケフェウスが気付かれず湖に侵入する為の囮に過ぎない。


 それは果たされた。今や木菟は湖の中に飛び込んだ。確証はないが、あの木菟ならばきっとプリムラのことも救ってくれるはずだ。


 そう、きっと。


 でも本当にそれでいいのだろうか。〈きっと〉そんな曖昧な言葉に縋り、私たちには関係のない存在に全てを託し、自分は安閑として眠りにつくのか。


 もう一度プリムラの顔を見ることもなく、巻き込んだ青年をも見捨て、未だ脅威はそこにあるというのに、後の全てを木菟に背負わせる。


 伝説は果たしてそれを許すだろうか。


 轟音と共に眼前に迫りつつある地面、死の怖ろしさに瞼を閉じかけた時、その問いに答えるかのように、彼女の伝説きおくが鮮やかに蘇る。


 その日、蜂鳥はいつものようにサルビアの蜜を食べ、その帰り道、これまでに見たことのない美しい花を見つけた。


 彼女は名も知らぬその花をとても気に入って、その日から、その花に近付こうとする害悪を遠ざけるようになった。


 彼女は時に傷を負ったが、その花を守り続けた。蜜も採れないその花を。


 ある日のこと、いつものように名も無き花の傍で羽ばたいていると、突然辺り一帯を濃い影が覆った。


 それは天候の変化ではなかった。空には途轍もなく巨大な、邪悪な龍がいたのだ。


「小鳥よ、そんなものを守って何になる」


 どこからか聞いたのか、邪悪な龍は花を守る蜂鳥のことを知っていた。蜂鳥は怖れず、毅然とした態度で龍に答えた。


「私はこの名も無き花を美しいと思った。理由などそんなものだ」


「そうか、蜂鳥よ、私はそれが欲しくなったぞ。お前が持ってくるなら、お前の命は取らないでやろう」


「断る」


「聞きしに勝る愚かな小鳥だ。ならば、その花諸共、踏み潰してくれる」


 龍は凄まじい咆哮を上げて降下する。


 守るなどと言いながら、このような重大な危機に陥れば我が身可愛さに逃げ出すに違いない。


 しかし、その直後に蜂鳥の取った行動は龍が予想だにしないものだった。


「花の一つも愛でられない貴様になど負けるものか」


 蜂鳥は賢く、勇敢だった。逃げるどころか、龍を目掛けて高く飛んだのである。


 龍は馬鹿なと驚愕し、両の眼を更に大きく見開いた。瞬間、龍の眼に激痛が走る。蜂鳥の嘴がその眼を深く貫いたのだ。


 大空に響き渡る咆哮。空中でのたうつ邪悪な龍に向かって蜂鳥が叫んだ。


「去れ、悪しき者! これでもまだあの花に近付くと言うのなら、残った眼も貫いてやる!」


 こうして勇敢な蜂鳥は名も無き花を守り抜いたのだが、その代償は大きかった。


 龍の眼を刺し貫いた時、龍は突然の激痛に頭を大きく振るった。その時、嘴が折れてしまったのだ。


 それからの蜂鳥は蜜を食べることも出来ず、飢えのうちに地に翼を付けて永く眠ったと言われている。


 気高き蜂鳥の騎士、その亡骸の傍らには、彼女がその生涯を通して守り抜いた名も無き花があったという。


 その花は、後にプリムラと呼ばれるようになった。


 その花は、貴方無しでは生きられない。


「今のは」


 走馬灯。


 この瞬きにも満たない時の中、語り継がれた伝説きおくが彼女を喝破した。


『お前は愛する者を守る者、守るべき者なくして、お前は存在し得ない』


『花がそうであるように、お前もまた貴方プリムラ無しでは生きられない』


貴方フェザーの命は貴方プリムラの命、他の誰がそれを守れると言うのか』


 その通りだ、とフェザーは己の心に頷いた。


「生きるんだ」


 彼女は引き裂かれた羽根を脱ぎ捨て新たな翼を創造する。そして強く念じた。それは奇しくも、ロベリアが願ったものと同じであった。


「生きててくれ」


 時同じくして、ケフェウスは神殿に空いた穴から内部へと降り立った。


 その余りの広大さに目を丸くしたが、内部の崩壊もまた凄まじいものだった。


 大樹ほどの太さを誇る支柱群はその多くが半ばから打ち砕かれ、光を受けて輝く床にその身を無惨に横たえている。


「ひでえ有様だな。さて、あの野郎はどこにいやがるんだ?」


 天井付近から周囲を見渡すが、未だ降り注ぐ大量の瓦礫が視界にちらついて邪魔をする。


 もしかすると此処にはいないのか、そう思った時だった。城門にも思える巨大な扉の前に小さな黒い点が見える。


 視線を固定してぐっと意識を集中させると、その傍には少女が蹲っている。ケフェウスはそこに向かって直ぐさま降下する。


 後方から迫る瓦礫を器用に躱しながら接近すると、少女が何かに祈るように手を合わせていた。自分の頭上に迫る大きな瓦礫に気付いている様子はない。


 ケフェウスはその瓦礫の横っ面を蹴り付けて軌道を変えると、少女の傍らに音もなく降り立った。


「もう夜更け、祈る相手も寝ちまってるさ」


 プリムラは突然の声に驚いて顔を上げる。


 そこには、黄色に黒の羽根を持つ大きな木菟が器用に嘴の端を吊り上げて笑っていた。


 一瞬、まさか変身したフェザーなのかと思ったが、彼女は蜂鳥であって木菟ではない。どんな伝説が混ざったとしても木菟はあり得ないだろう。それに声も明らかに違う。


 プリムラは寂しそうに肩を落とした。


「ええと、木菟君?」


「俺はケフェウス、安心しろ、俺はフェザーに頼まれて君を助けに来たんだ」


 プリムラはどこかで聞いたような台詞にはっとして顔を上げる。見た目どころか種族も違うが、雰囲気はどこか似ている気がした。


 彼はきっとリトラの言っていた友達だ。


 そうに違いないと、プリムラは好き勝手に確信した。そうであって欲しかった、と言った方が正しいかも知れない。彼女は一人の寂しさをよく知っている。


「ケフェウス君はリトラ君の友達だね!? やっぱりリトラ君を捜してたんだ!」


「うん、まぁ……そう、かな?」


 あまりの喜びように否定する気にもなれず、泣き腫らした少女に同意する。目を真っ赤しにして笑う彼女の愛らしさ、その健気さに、ケフェウスは内心ときめいていた。


 この荒廃した瓦礫の世界の中にあって、懸命に花を咲かせようとする小さく可憐な蕾、彼女はきっと誰かの為に涙を流し、誰かの為に祈っていたに違いない。


 そんな彼女の前に自分が現れたのは運命の導き、天の思し召し、彼女を守りたいと思うのは宿世から続く永遠の使命だからなのだと、この木菟は根拠無き使命感に燃えていた。


 この湧き滾る想いをどう伝えるべきかと悩むが、今はそれどころではない。


「ところでプリムラ、リトラは何処に?」


「ロベリアがこの中に閉じ込めたの。傷だらけだったけど、まだ生きてる。この中から鼓動が聞こえるから」


 耳を当てると確かに脈動がある。


 しかし如何にして出すべきか。この黒い球体は黒髪が幾重にも巻かれて作られており、その大きさと分厚さは相当なものだ。


 鋭い爪で引き裂くにしても時間がかかるだろう。そうしているうちに崩落に巻き込まれては元も子もない。ならば、脱出後に出してやればいい。ケフェウスはそう判断した。


 それに今はプリムラもいるのだ。これ以上、危険な目に遭わせるわけにはいかない。


「プリムラ、俺の背中に掴まりな。この死に損……友達は爪に引っ掛けて運ぶから。急ごう、時間がない」


 プリムラは頷き、その小さな体を木菟の背にぴったりと寄せて掴まった。


「ケフェウス君、ありがとう……」


「礼なんていいのさ。さあ、行くぜ?」


 翼を軽くひと打ちして黒い球体に飛び乗ると、長く鋭い爪をしっかりと引っ掛け、次は翼を大きく振るって空に飛び立つ。 


 意外にもその大きさに反して重さはそれ程でもない。ケフェウスにとってはリトラに毛が生えた程度でしかなかった。


 今この瞬間にも黒髪が襲ってくるのではないかという懸念は勿論あったが、この状況で迷っている暇はない。


 更にもう一つ、上で一体何が起きたのは分からないが、水面の先に見えるはずの龍の姿がない。ここに至ってこの機を逃す手は無かった。


 ケフェウスは迷うことなく羽ばたき、天井が間近に迫った時、ふと脚に違和感を覚えた。羽ばたきが弱まったのを感じ、プリムラが声を掛ける。


「ケフェウス君、重いよね? ごめんなさい、無理をさせちゃって……」


「いや、そうじゃないんだ、プリムラ。そうじゃなくてさ、何かこう、逆に軽くなったような気が……」


 と言って恐る恐る脚を見る。


 すると、黒い球体が下から解けてはらはらと散っており、中にいたはずのリトラが放り出されて落下していた。


「この馬鹿野郎!! そのまま落ちる奴があるかよ!!」


 大声で怒鳴りつけるがリトラは気を失っていて返事はない。


「プリムラ、しっかり掴まってろよ!」


「分かった!!」


 言った傍からプリムラを背負ったまま急降下する。距離は瞬く間に縮まり、頼りなく風に揺られるリトラの右腕を掴む。


 この間にも崩落は進んでいる。安堵する間もなくケフェウスは再び上昇を開始した。未だ、リトラに目を覚ます気配はない。


 一方、高所が苦手なプリムラは背中に顔を埋めている為、何が起きたのか全く分かっていない。突然の急降下と急上昇に驚いている。


「あぶねえとこだったぜ……」


「ケフェウス君、大丈夫? 何があったの?」


「大したことじゃないさ。それより、しっかり掴まっててくれよ? 此処を抜けたら直ぐにフェザーに会えるからな」


「うん!」


 背負った者、掴んだ者、その重さを全く感じさせない力強い羽ばたきによって、ケフェウスは忽ち天井にまで到達する。


 背後には今尚も続く崩落の音色が重く響き渡っている。木菟はその音色を置き去りに、星空を映し出す水面を突っ切って天高く飛び立った。










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