ジョン・ドゥ

三月

左腕が死んだ日


 若い、と彼は思った。人生も折り返しにやって来た彼にとって目の見える大抵のモノは自分より若い筈だったけれど、若さの象徴シンボルとは、象徴たる存在がいつもそうであるように、もっと身近で取るに足らないのだった。

 それは海老天であった。


四津田ヨツダさん、海老付けないんすか」

「うん、いやね――」

「こだわりですか」

「――こだわりじゃなくて、腹一杯になるだろ?」

「たった一尾ですよ。それに、今日は仕事納めじゃないですか」

「?」

「年越しですよ、分かるでしょ」

「どっちにせよ蕎麦は蕎麦だし、それに…」

 なぜだか言い淀んでしまって会話が止まり、だけれど店のテレビや周りの話す声が空隙を埋める前に彼はなんとか言葉を繋げた。


「帰って飯が食えない、なんてなったら困るだろ?」


 蕎麦を食べ終えると二人はすぐ本庁に戻った。相も変わらずの大寒波によって外をぶらつく気分にはなれなかったからである。

「本人、いつ来るんでしたっけ」

「2時だ」

「本当ですか?ちょっとまだ僕動けないんですけど、勾留の準備があって…」

「まだ請求来てないのか?」

「はい」

「いいよ、こっちは俺がやる」

「ありがとうございます」

 後輩は表に付箋の貼ったファイルを机に置くと仕事に戻っていった。二人を含め役所にいる人間は全員それぞれノルマを背負っていて、上司から決裁のハンコを貰うまで帰れない、帰れるけれど忘年会の時にが悪い、そんな訳で各々職務を全うしているのだが当の警部にあっては自分のノルマは放り出して、昨日突然舞い込んだ事件に取り掛かるのだった。


 だが確かにその事件は奇妙であった。少なくとも年末にかけて増える生活困窮者の万引きや食い逃げ、その他収監狙いの露悪的犯行なんかと比べれば午後を費やす価値がある。

 現場は駅前のホテル――地価とグレードは当たり前だが比例するんだろう、出張なんかで泊まるには少し贅沢な場所だ――で、五階フロアの廊下で男が一人倒れているのを従業員が発見した。すぐに救急が呼ばれたが間に合わず臨終。朝10時20分のことだ。奇妙なのは従業員が男を発見したのは偶然ではなく、内線によってフロントに通報があったから、という点だった。それが10時ちょうど。通報したのはホテルの客でその後すぐチェックアウトしている。それにもう一点。それは遺体の状況で、ズボンを下ろし下半身が涼しくなった状態で廊下の絨毯に倒れていたのだ。ホテルの監視カメラは長い廊下を首を振って走査する形式で、倒れている姿が初めて確認されたのが10時を少し過ぎた辺り、他には何もない。それなりのホテルであるので同階層の個室の映像もあった筈だが、ホテル側の体面もあって無理には出来ない。

 つまり、人を疑うには証拠が要る。これもまた当然だ。


 報告書は他の映像をホテル側に提出させて検証し、第一発見者と思われる客への任意聴取を行う、と続いている。客への連絡はすぐに付いて、署の方へ出向くと申し出てきた。それが今日の朝9時前。その聴取の時間が午後の二時から。なんだかややこしい気もするが、時間を逆に辿っているだけだ。警部は一度席を立ち、コーヒーメーカーとその横に備えられた使い捨てカップの保管容器をぎこちなく弄ってから――平成さえ終わったなんてまだ信じられない――熱い液体を片手に席に戻る。黒い液体を舌で受け止めながら彼が考えていたのは、遺体の身元の事だった。


 名前、住所、マイナンバー(難儀な仕組みだ)、その他身元を保証するものを持たず戸籍と比較参照できない時、その個人は身元不明人として扱われる。加えて話も聞けない際は行旅死亡人ジョン・ドゥとして自治体がそれぞれ相応に扱うことになっている、殺人じゃなければ。現代社会において身元不明というのは存外珍しい。財布には現金以外なく、スマホは海外製のSIMフリー、素性の良くない業者が金さえ貰えれば通信を纏めて契約するという方式であった為特定はできなかった。分かっているのは外見だけで髭は剃られ髪と服装も小奇麗、年は40後半という位である。


「最初の通報者がですよ」

 机に向かっている警部に後ろから声を掛けるのは、先程の後輩だ。

「まあな」

「外傷がないっていうのが妙ですけど」

「そんなの幾らでもやりようがある、解剖を待ってれば一発だ。怖いのは、ソイツが何も話さなかったら、ってことだ」

「難しくなりますかね?」

「それは検事の仕事だろ、ただ。来年にこのヤマを持ち越すのは気分が良くない」

「他のはどうなんです」

なよ。とにかく、これは後回しにしたくないんだ」

「こだわり、ですか?」

 警部は返答しなかったが、それを後輩がどう解釈したのかは分からない。


 時計の針が、特に長い奴が一周すると、警部は机の電話により意識を傾けた。そしてそんな風に気持ちを決めた数分後光と音ともに着信が入り、電話を取った警部は短く言葉を交わすとジャケットを掴んで一階まで降りて行った。受付にはくだんのホテル客が来ており、警部は男と簡単な自己紹介を済ますとエレベータに一緒に乗り込み、部屋まで案内した。もちろん取調室などではなく、適当に空いていた部屋である。


「時間を取って頂いてありがとうございます」

「いえ、構いません」

 男は―署に足を踏み入れた人々の例に洩れず―言葉少なになっていた。

「それでは、肝心な話、ホテルのお話を伺っても?」

「ええ」

「アナタが倒れていた人を発見した、目撃したのはいつ頃でしょう?」

「10時、朝の10時頃でした」

「それでは、彼とは面識があったりはしない?」

「はい。です」

「成程」

 警部は敢えて調書に視線を落として続けた。

「アナタは、彼が倒れている所を見てフロントに電話をした、それで部屋を後にした。それで全部ですか?」

 少しの沈黙の間、警部は正面の男が動くまで待っていた。すると視界の端で軽く身動きをとるのが見えた。

「ヨツダさん」

「はい?」

 突然名前を呼ばれて警部は顔を上げ、そしてこちらを真っすぐに見据える目を見た。それは今日一番彼を驚かせたことだった。


 ◆


 それからはあっという間だった。正月に留置所に入れる手間と自白の内容も含めて、調書を埋める数十分は付き合ってもらったのを除けば、本人は速やかに家に帰されることになったのだった。

 概要はこうである。まず、ホテルの客はだった。出張の帰りに寂しくなった彼は連絡アプリでもって同士を募り、もちろん若い子を先の時間に、年寄りを後回しにして部屋に呼んだ。そしてチェックアウト寸前にやってきたのが、遺体の男だった。

 彼は部屋に入るや否やズボンを脱ぎ始め臨戦態勢に、ホテル客の方はチェックアウトを理由に断ろうとして、揉み合い寸前にばたん、と急に男の方が倒れた。心不全、もしくは腹上死であろうか?あまりの事態に気が動転したホテル客は無関係を装おうと男を部屋の外に引きずり出した。だがそのまま放置するのも忍びなくフロントに一報入れて逃げるように部屋を出た。


 争点は引きずり出した時に男が死んでいたかどうかであるが、その判断は検察に任せよう。聴取の最後に警部はこう聞いた。

「つかぬ事を聞きますが、どうして出張中に?」

「コレです」

 そう言って彼が机の上に出したのは向かって右、つまり左腕。服を捲ると、そこは手首にかけてのギプスがあった。

「左利きですか」

「ええ」

 確かに、これでは自分でも出来ない。


 ギプスの男を帰らせて、調書をまとめてファイルに仕舞って時計を見ると、なかなかいい時間にはなっていた。だが警部はファイルを『済』の棚には提出せず、もう一度開いて挟まれていたCDを取り出した。それを外付け読み取り機に載せると、席を立ち、またぎこちない動作でコーヒーを淹れている所に後輩が通りがかった。

「あれ、もう終わったんですか」

 警部はマシンの唸り声が止むのを待ってから答えた。

「いや。まだだ」


 署の同僚・後輩たちが殆どいなくなって、外を通る車の音の方が部屋の中よりうるさくなってきてもまだ警部は画面を見続けていた。それはホテル側の提出していた監視映像で、それには事件のあった五階だけでなく他の階層も映していた。

 警部の心に引っ掛かっていたのは、男の正体だった。ホテル客の方は掲示板で出会っただけで男と実際には初めて会ったと証言している。つまり、彼の身元を保証するのはこの映像だけであった。一時間ほど粗い画質の映像を見つめていた所為せいで目は疲れてきて視線が泳ぐようになっていたが、それが幸いしたのだろうか。視界の端に捉えた姿を警部は見逃さなかった。

 その姿はあまりに必死だった。地下駐車場の幾つもの柱を走って通り過ぎる一人の男、ともすると神秘的で、その実は滑稽ともいえる程だった。映像に映ったのは9時55分、つまりこの数分後には彼は絨毯にその身を伏せ、この世には未練しか残していない訳なのである。


 警部はPCの電源を落とし、ディスクを丁寧に仕舞うと資料を『済』の棚に入れる。もちろん見つけた映像については記録しなかった。が他人の目にどう映るのか、それを想像はしたくない。

 上着を取って電気を落とすと、誰もいなくなった部屋だけが残った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ジョン・ドゥ 三月 @sanngatu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ