Claudeと遊ぶ——言語の紡ぎ手——③

 リンダは村を後にし、一週間が過ぎた。彼女は二冊の本を抱え、さらに深く森の中へと進んでいった。その間、何度も呪文の力を借りた。食べられる木の実や野草、茸などを識別する魔法や、鳥や兎を罠にかける魔法、火を起こす魔法に、水を飲めるようにきれいにする魔法と、村にいたころと変わらないどころか、むしろ快適な時間を過ごせるようになった。

 しばらくあてもなく進むと、随分と標高も高くなったらしく、樹々には針葉樹が混ざり始めていた。空気もつんと澄み、吐く息も白い。これだけ遠くまで来れば、さすがに追われることもないだろう。どこかで、じっくりと本と向き合える場所が欲しい。そんな風に考えていたところにちょうど、うってつけの山小屋が目の前に現れたのだ。

「へえ、そんな偶然もあるもんなんだね」

 リンダの独り言に反応したのか、梢にとまっていた鳥が空に飛び立ち、青色に溶けて見えなくなった。

 リンダは躊躇なく戸を開けた。鍵はかかっていない。中に入ると、かびのにおいが充満していた。戸を入ってすぐ脇に置かれた棚には、たっぷり埃が積もっていた。どうやら、長いあいだ使われていないらしい。

「おじゃまします」

 申し訳程度にリンダがそんな言葉を口にすると、山小屋もそれに応じるかのように、かたかたと震えた。

 山の夕暮れの厳しい風が吹き始めている。これ以上リンダが先へと進んでいたら危険だったかもしれない。日が暮れるに従い、急速に気温が下がっていった。

「グフタディール」

 部屋の中の空気が液体のように蠢き動き出し、球状にまるまった橙色の炎がリンダの手のひらに生まれた。部屋全体が明るく照らす炎を、暖炉に投げ込んだ。湿気った薪がいくらか転がっていただけだが、それらも次第に乾いたのか、ぼおっと音を立てて燃え始めた。

「……あったかい」

 ちょうど近くに揺り椅子がある。荷物を置き、座面のほこりを払ってからそこに座り、本を開いた。

 炎だけでなく、水や風、土など、ありとあらゆる自然現象を操る言葉が記されている。この小屋に辿り着くまでに実験を重ね、かなりの呪文を使いこなせるようになっていた。しかし同時に、もう一つの恐ろしい事実も分かってきた。

 自然を操ることができるこの言葉たちは同時に、人の心にも影響を及ぼすことができるらしい。

 例えば「ヴォーギル」という呪文は、簡単に相手の意志が操作できてしまう。「ガルテュメル」では、人間だけでなく、生き物の肉体を自在に変形させることができる。もちろん、理屈の上では命を奪うことも難しいことではない。

 つまり、この本に書かれた言葉で人を完全に支配下に置くことすらできてしまうということだった。言葉さえ知れば、誰でも簡単にその力を手にいれられる。倫理観や精神さえ歪められかねない。

「なるほど、村の男たちがいっていたことも、あながち間違いではないみたいだね」

 揺り椅子にかけながら、意識がうつらうつらとしてくる。暖炉の炎の揺れる様子を見ていると、どこか懐かしい気がしてくる。それに、暖かくて、心地が良い。

 誰かが見守ってくれているような、そんな感覚。なんだろう、どこで、こんな感覚を味わったのだろう。リンダは思い出そうとしてみても、どうにもそこには届かない、そんな気がした。


 気がつくと朝になっていた。

 体が冷え切り、氷のように固くなっていた。暖炉の火は消え、すっかり灰になってしまっている。窓の外を見ると、銀世界がひろがっていた。

 ——もう春だってのに雪ですか。

 しばらく使われていない小屋でも、薪は十分に備えてあったようだ。近くにあった大きめの薪を数本、暖炉に投げ込み、「グフタディール」と呪文を唱えた。蝋燭のように乏しく、小さな火が手のひらの上に可愛らしく灯った。なんとか暖炉に薪に火を移すと、ようやく部屋が暖かくなる。

 ——力が弱まっている。

 ここ数日で感じ始めていたことだが、呪文も際限なく使えるわけではないことがわかってきた。

 火にかかわる呪文を使えば、それだけ火の呪文の力は弱まっていくし、水を使えば水が、風を使えば風が、と、それぞれ力の最大量が減っていくのがわかった。

 だが、回復のきっかけとなるものがわからない。なにか仕組みがあるはずだ。解き明かすためには、徹底的に本の中身を研究してみるしかなかった。

「ってわけで、まずは掃除!」

 暖かくなって全身に血が巡ると、たちまち元気もみなぎってくる。部屋をぐるりと見渡した。まるであらかじめ用意されていたかのように、箒とちりとりが隅に立てかけられていた。それに、手頃な布切れと、さらには木桶まである。

 ——ありがたい。

 手を、足を、肉体の全部を使ってリンダは小屋を一日がかりで掃除した。降り積もっていた埃はさっぱり消え去り、暖炉の火のおかげか、かび臭さもなくなった。外は日が出て、雪に光が反射して明るい。その光が窓からさしているためか、部屋の中までずいぶんと明るく感じられた。

「いやあ、きれいになった!」

 あとは寝台が残っている。布を洗濯して、干して、あとは毛布も乾燥させて、それで完璧。

 リンダは外に出て、木桶いっぱいに降ったばかりの雪を満たした。そして小屋にもどると、溶かしてお湯を沸かした。

 そこに寝台の一番大きな布切れをひたして揉み洗いし、しぼってから、部屋の端に紐を通して、そこに干した。

「ああ、疲れた!」

 ほとんど丸一日を費やし、部屋をきれいにした。リンダの肉体は疲れ切り、疲れは適度に眠気を誘う。まだ寝台では眠れそうにないな、と思いつつ、彼女は揺り椅子に腰掛ける。昨日と同じように、暖炉の前で本をひらいた。

 本は辞書のように言葉ごとの記述もあれば、物語のような記述もある。あるいは、ある程度のかたまりになって、呪文と呪文とを掛け合わせるように書かれているところもあった。

 呪文は一つひとつを単独に唱えることもできるが、つなぎ合わせて使うこともできるらしい。まだ試してみたことはない。

 日常に用いる言葉と、呪文のための神様の言葉とで、そう大差がないことがわかってきたが、一つだけ決定的に違うこともわかった。本に記された神様の言葉は、真実だけを語る。一つの言葉は、一つの呪文に結びついている。火の呪文で風を呼ぶことはできないし、風の呪文で水を操ることだってできない。

 ——言葉と現実が、一つひとつにぴったり結びついているんだ。

 現実と言葉が常に対応関係にあるということは、それらはほとんど区別がつかないことになる。あるいは、この神様の言葉をつかって物語でも書いてみれば、それはそのまま、現実が動きだすということなのかもしれない。

 ——私はもしかすると、現実そのものを書き換えられるようになってしまったのかもしれない。

 だが、制約があるのだ。火を用いることも、水を用いることも、重さや物の性質を操ったり、形を変化させたりすることだって、際限なくできることではなかった。いずれ力が尽きては、いつのまにかまた回復している。その秘密を明らかにしないことには、そんな恐ろしいこと、到底はできない。

 ——できない方が、ずっといいんだけどね。

 リンダは本を読み耽っていた。何度目になるかはわからないが、それでもすべてを完全に理解できたわけではなかった。

 少なくとも、現実の見え方が変わってきたのは確かだ。火を、言葉として読むことができる。水も風も、その背後にある言葉を想像することができる。現実はすべて言葉で記述されていて、誰かによって作られたものだということらしいと、ようやく実感として理解され始めていた。

 ——つまり、私も物語のうちの一部なんだ。

 カタン、と暖炉の薪が倒れる音が聞こえた。微睡の中、リンダは夢を見ていたらしいことに気がついた。違う。それが夢だったかどうかも、はっきりしない。懐かしい、あたたかな腕の中で眠っていたような気がした。遠い記憶を思い出していたのか、夢を見ていたのか、現実に起こっていたのか、それとも、それは単なる言葉に過ぎなかったのか。

 ——いずれにしても、同じことなのかもしれない。

 本を閉じた。

 あっという間に一日は終わり、窓の外は青い夜が木々の隙間を埋めていった。

 ふっと息を吐く。立ち上がって、寝台の敷き布が乾いているか確認した。大丈夫。毛布も独特のにおいがなくなり、すっかり虫も落ちているようだった。

 布が乾く、水が蒸発する、火が燃える、においが飛ぶ。そうした全部がこの一冊の本に記述されている。その根本原理は、ほんの数十の言葉からできていて、きっとそれぞれの力の大きさや均衡のみで、この現実と呼ばれる世界のあらゆる複雑さを生み出している。

 ——不思議だな。ほんと、不思議。

 寝台に布を敷くと、その上に横たわって毛布を掛けた。暖炉の火は十分に強いように思った。これなら明日の朝までは暖かさを保ってくれるだろう。

 ——そうか、薪と同じか。

 一本の薪が燃え尽きるまでの時間。量と時間の結びつき。それを言葉が定めているのだ。

 ——私の中にも薪と同じように限りあるものがあって、それを消費しているから、呪文も弱くなるってことか。

 寝台に横になり、暖炉の火をぼんやり見やった。あたたかい。少し離れているものの、見ているだけでなんとなくほっとする橙色の炎が揺れるのを、ただ眺めていた。炎はあらゆる過去を光の中に映し出していく。幼馴染の青年と過ごした幼少期のことや、身寄りのない孤児として村にもらわれてきたときのこと、山羊を放牧する日々の習慣のこと。記憶の断片が現実だったのか、単なる言葉に過ぎなかったのか、わからない。言葉と、記憶と、物語と、夢とが夜に混じり合ってゆっくりと溶けていき、暗い闇に消えた。


 ドンッと、鈍い物音で目が覚めた。

 暖炉の薪はまだ煌々と光を放ちながら燃えていた。上体を起こして窓の外を見る。姿は見えなかったが、そこには確かに人の気配があった。しかも、一つや二つではなさそうだった。

 塔で村の男三人に捕まった時とは状況が違うことだけはわかった。

「フローベルヒルト」

 リンダは囁くように唱えた。六、七、八人はいる。見えないものを見通す呪文でも、全員は把握できそうになかった。だが、それらはにんと数えるのが適切なのかもわからない、形のない影のような存在だった。呪文を通じて見ただけなのに、思わず目を逸らしたくなるほど、暗い、おぞましい影だ。一度それを目にすれば、そのまま闇に吸い込まれて自分を見失ってしまいそうな、夜よりも深い闇。リンダははじめて、自らの身に危険を感じた。呪文でどうにかなる相手ではないかもしれない。

「お前がその古文書を手にしたことで災いが起きた! 命令で、私たちはその力を取り戻しにきたのだ!」

 ——せっかく、時間をかけて本を研究できると思ったのに。

 リンダは、今の自分に十分に使えそうな呪文を思い浮かべる。昨日も今日も、炎を使いすぎた。掃除をするのに火の呪文も使わざるを得なかった。となれば、風や土の力を借りるしかなさそうだ。

「グストヴァルフ!」

 リンダは言葉を発すると、小屋の周りに強風が渦を巻き始めた。渦風に巻き込まれる影の姿が一瞬だけ目に映った。だが、それは高く舞い上げられると、夜の空と区別がつかないうちに消え、あとにはただ静かな星空だけが残された。

 ——消えた?

 リンダはすぐさま二冊の本に手を伸ばした。

 この世界はもう、リンダに気を休める時間を与えてはくれない。荷の整理をする余裕もなく、小屋から飛び出した。

 外には誰もいない。風に巻かれ、影は消えてしまったらしい。だが、あちこちに黒い気配を感じた。薄れていても、そこここに影はいるのだ。

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